bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

美しさ(名づけについて)

名付けというのは、簡単なようで難しく、難しいようで簡単である。なにしろどんな名前だって呼んでればそのうちしっくりきてしまう。慣れから逃れることは誰にもできない。高輪ゲートウェイ駅にもそのうち違和感を覚えなくなる。そんなお手軽なものであるのに、名前は実態に影響を及ぼす。スピリチュアルに言えば言霊、マーケティングで言えばキャッチコピー。高輪ゲートウェイ駅は高輪のゲートウェイだとみんなが思うだろう。たぶん高輪ゲートウェイ駅もそう思っている。白金高輪のほうがよほど高輪なのだとしても、そういう認識からは誰も逃れられない。

 

子どもの名前どうしようか、という話は、ほぼ毎日していた。こういう名前にはしたくないよねえ、こんな名前はやだねえ、そういう話ばかりが盛りあがって、肝心のつけたい名前はいっこうに思い浮かばなかった。

姓名判断は早々に無視することに決めた。一度だけ、自分の名前で試したことがあるのだけれど、「名字が最悪」みたいな判定が出て、もう頼らないことにした。知りたいのは下の名前についてであって、いまさら変えられない部分ではないのだ。おととい来やがれ。

 

嫌な名前の話をするうち、我々は期待したくないのだ、ということがわかった。名前に期待をこめたり、幸せや健康を願ったり、そういうことはしたくなかった。もちろん幸せになってほしいし、健やかで優しくあってほしいけれど、そういう名前をつけるということは、不幸だったり病弱だったりジャックナイフみたいな尖った性格だったりする我が子を否定してしまうように思えて、なんだかいやだった。

 

我々は、あなたという存在の素晴らしさを表したかった。どうしたって人生は幸せばかりではいられないけど、幸せでないときのあなただって素晴らしいのだよ、と伝えたかった。どうしたらそれが叶うかと考えて、世界の美しさのことを思った。どんなにひどいことがあっても、つらいことがあっても、そんなことにはお構いなく常に存在し続ける、美しい風景のことを思った。この先どんなことがあっても、生きていくのが辛くなるようなことがあっても、それでも世界は美しいのだと、生きるに値するくらい美しいのだと、あなたもその世界の一部であり、あなたもまた美しいのだと、そんなふうに感じてもらえたらいいなと思った。そんなふうなことを夫婦で話し合い、ふたりが美しいと思った、心が震えた景色から名前を貰った。

 

そういうわけで子どもには、美しいものの名前をつけたのだけど、驚いたことに、子どもはそれ以上に美しかった。浅い呼吸から捻り出す声、必死にばたつかせる小さな手足、その手足についたさらに小さな爪のひとつに至るまで、その全てが美しかった。これから、この子のいる風景のひとつひとつが、ほんとうに美しいもの、特別なものとして脳裏に刻まれていくことになるだろう。

 

美しいものから貰った名前が、美しいものの名前になった。腕の中で眠る子の柔らかさとあたたかさを感じながら、そんなことを思った。

日記

初めての店で散髪をした。カット二千円の安床で、眉毛カットもつけて二千五百円。長さは二ヶ月分くらい切って、ついでに厚くなってるとこを梳いてもらって、と頼み、椅子に座ってエプロンをかけ、眼鏡を外して、そのまま雑誌に目を落とす。おとなの週末の谷中特集。行く気もない飲食店に少し詳しくなり、眠気を感じて目をつむる。寝ているつもりはないのだが、客観的な視点ではたぶん少しうたた寝なんかもしている。「眠いし目をつむってはいるが寝ていない」と「うたた寝をしている」を主観的に区別するのはあまりにも困難である。シャンプー台でシャンプーをして、席に戻ってブローしてもらい、こんな感じでどうですか、と後頭部に鏡をあてがわれ、どれどれとばかり眼鏡をかけると、髪がペタンコになっていた。どうやら指示通り徹底的に梳いてくれたようで、梳かれたというか透かれたというか、伸びて伸びて厚く重たかった髪が、サッパリを通り越してペタンコになってしまった。そしてカットした眉毛はやたらとキリリとしている。眉尻がほぼ直角になっており、一度決めたら梃子でも動かないといった意志の強さを感じさせる仕上がりである。正直イメージとはちょっと違ったけれど、切ってしまったものをもとに戻すことは誰にもできないし、髪型なんて自分が気になるほどには他人は気にしないものだし、もしかしたら他人から見たらこのくらいのほうが似合っているのかもしれないし‥‥みたいなことを一瞬で考え、でもそんなことはおくびにも出さずにアルカイックスマイルを浮かべたまま、美容師さんに「あ、大丈夫です」とだけ伝えた。会計をしながら、担当してくれた美容師さんと、ご来店は初めてですか、お住まいはこのあたりなんですか、みたいな雑談をしていると、美容師さんはなんの脈絡もなく、「お客さんはきっと赤い眼鏡のほうが似合いますよ」と言い出した。「いまの青い眼鏡もいいですけど、赤いのもすごく似合うと思います。というか、赤いほうが似合うと思います。」と言われたが、何と言っていいかわからなかったので、「あ、そうですか、初めて言われました。ありがとうございます。」とだけ答えた。レシートを受け取り店を出て、家に向かってホテホテと歩きだし、赤の眼鏡をかけた自分を想像してみたが、山里亮太しか思い浮かばなかったので、俺は考えるのをやめた。ペタンコの頭にキリリとした眉を持つ赤くないメガネの男性は、何も考えることなく、住宅街を闊歩していた。

日記

リビングでひとり夜更かしをしたあと、電気の消えた寝室に入ると、妻が不規則な寝息をたてていた。

寝息の乱れは妻が悪夢を見ているときのパターンなので、やさしくゆり起こして、どうしたの、いやな夢でも見たの、と聞いたら、はんぶん寝ている声で、「悪夢ではないけど夢は見てた、ベッドに寝転がって、夫婦で『いままでに見たなかでいちばん写真映りの良い芸人って誰?』と話してる夢だった」と言われた。

なんて夢のない、なんて普段着の夢…!と謎の感動を覚えつつ、さっそく夢を現実にしてしまおうと「写真映りのいい芸人、たとえば誰だろね?」と話しかけたが、妻からの返事はなかった。背中ごしに、すうすうと安らかな寝息だけが聞こえてきた。

日記

軽い気持ちで、浅い中身で、さらさらとメモを取るように日記を書いてみようと思う。書くときの自分を隙だらけにして、なるべく指にまかせて、推敲なんてやらないで。そうやってどうでもいいことばかりを連ねていって、閉め忘れたドアの隙間から何かがひゅるっと入りこんでくるのを待とうと思う。猫とか蛸とか高慢とか偏見とかゾンビとか。とかとかとかとかトカトントン。とんかつを食べたいという気持ちのうち豚肉に向けられた欲望はせいぜい3割がいいところではなかろうか。欲望の7割は衣の食感とソースの味に向けられている。その証拠に、とんかつ食べたい食べたいといっている人間に揚げたてのコロッケにソースダボダボかけたやつを食べさせれば食後にはもうとんかつ食べたいなんて思わなくなる。たぶん。いまうちではブルドッグの「お好み焼き・とんかつ どちらもおいしいJソース」というソースを使っているのだけど、そもそも「お好み焼きソースはとんかつに合わないし、とんかつソースはお好み焼きに合わないし…」みたいな悩みを持ったことがないので、ふ〜ん…としか思えない。一切当たっていない悩みの解決策が書いてあるおみくじを引いてしまったみたいな感じ。ただ、味は良いので気にいっている。なくなったらまた同じのを買おうかな、というくらい。なんでこんなにソースのことを書いているのかというと、いま目の前にあるテーブルにしまい忘れのソースが置かれていることに気がついてしまったからである。こんなん書いてるあいだにさっさとしまえばいいのだけど、しまいたくないからかわりにどうでもいいことを書いている。あと、愛とか本質とか真実とか、そういうもののズバリを描くのはとてもとても困難なことだけれど、愛でも本質でも真実でもないものをどんどん書き出していけば輪郭くらいは見えるようになるかもしれないな、とも思っている。透明人間の気配を察知して、顔面とおぼしきあたりにソースぶっかけて、へえ、こんな顔してたんだ、思ったより童顔なんだね、とか言っちゃう感じ。急にソースかけちゃってごめんね、どんな顔してるか知りたくてさ、テーブルにあるのでちょうどいいのがソースしかなくて、でも良かったよ、これで目を見て話せるし。いままで見えてなかったから、表情とかもわかんなかったし、あれでしょ、見えてないと思って絶対変顔とかしてたでしょ?やっぱそうでしょ、なんか笑いこらえてる感じするなーと思ってたよ。まあとりあえずさあ、これから仲良くやってこうよ。あーソースのにおい嗅いでたらなんかとんかつ食べたくなってきちゃったなー。どうしよう、コロッケならすぐ用意できるんだけど、とりあえずコロッケ食べてから考える?

日記

東京に帰る新幹線はUターンラッシュで混雑しており、きっちり満席になっていた。我々の席は車両の端から3列目、座席に座るとデッキのほうから「キャアアアアア!キャアアアアア!」と甲高い悲鳴のような鳴き声が聴こえてくる。怯えた犬でもいるのかしらと目線をやるとどうやら犬ではなく赤ん坊が泣いているようで、それも悲鳴を上げているのではなくふつうにむずがって泣いている様子。シンプルにとてもとても声が高い赤ちゃんが泣いているらしい。声変わりしてやっとクロちゃんくらいの声の高さになりそうな赤ちゃん。ウィーン赤ちゃん合唱団。

しばらく赤ちゃんのかわいいソプラノヴォイスを堪能していると、後ろからも「キャアアアアア!」が聴こえてきた。赤ちゃんとは音叉のように共鳴するものだったのか?と振り返ってみると、こちらは赤ちゃんではなく小型犬のようで、斜め後ろの席の男性の膝の上の黒い籠の中から聴こえてくるのだった。ちいさくてかわいいものたちは発声の波形も似てくるらしい。そこからしばらく妻とふたりで「この声は犬か赤子か」を当てっこし、ほんわかと眠くなってきたところで妻は耳栓を、僕はイヤホンを装着した。新幹線はちょうど仙台を過ぎたところで、東京まではあと一時間くらいかかるようだった。

日記

そういえば世の中がみんな休みのときに帰省するとこんなことになるんだったな、と思い出すような帰省であった。新幹線ホームは大混雑、名物料理のお店は大行列。今回はそういうのはもう早々に諦めて、ごはんはほとんど実家で食べ、外ではコーヒーを飲んで、あとは川べりをぷらぷらしていた。初夏の川はほんとうに気持ちがよくて、いつまででもいられるようだった。

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父が山菜ハンターとしての能力を遺憾無く発揮してくれたおかげで、実家では山菜づくしの歓待をしてもらった。行者にんにくとたらの芽とこしあぶらの天ぷら、こごみの胡麻和えにたらの芽のくるみ和え、わらびと鯖のなまり節の煮物、しどけのお浸しにこしあぶらの炊き込みご飯。山あいの旅館に泊まって出てきたら小躍りしちゃうようなメニューを用意してくれて、妻も僕も大喜びであった。

翌朝いった朝市(盛岡にはほぼ毎朝5時からやってる朝市があり、季節の農産物や山の幸が並ぶのだ)でもたくさんの山菜が格安で売っていたのだけれど、どれもこれも昨日もう食べたやつなんよね…となってしまい、本来ならもっと高まるべきところいまいち気持ちが盛りあがらず、餅や唐揚げや梅干しなどの当たりさわりのないものを買ってなんとなくお茶を濁してみたりしていた。

 

それから、これは盛岡で飲んだコーヒーの中でいちばん美味しかったコーヒーで、

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これはいままで見たなかでいちばん雑に作られたたぬきケーキ

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あと、公園のベンチに座りながら鳩の首のところの色合いを見て映画「ムーンライト」のことを思い出したりもした。
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見なれた、しかし美しい風景を眺めながら、次にこの風景を見るときは子どもと一緒なのだろうな、と思い続けていた。

 

概ねそんなような帰省であった。

 

日記

安産祈願で神社にいったら立て札に「昔々、殿さまがお城を作っていたら、それはそれは大きな岩が出てきて、あまりの大きさに殿さまのテンションがブチ上がっちゃって、『うわー大きい!めでたい!奉ろう!』みたいなノリでこの神社ができました」という説明が書いてあって、やっぱここはいい街だなあと思った。


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これがその大きい岩とフォトジェニックな位置にいた猫で、



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こっちは大きい岩とフォトジェニックな猫と絶妙な位置に写りこんでしまった女性。

 

それから、おそば屋さんでそばつゆに中華麺を入れてとんかつを浮かべた「カツ中華」というややこしくて旨い麺を食べて、
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川のほとりの喫茶店でりんごタルトとコーヒーをいただいた。
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柔らかな初夏の日差しと爽やかな川風を浴びながら、川辺の新緑の中をゆっくりと歩いて、ミドリなんて名前もいいね、などと話したりした。