bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

近況

色々あって忙しい。

そのうち暇になるかもだけど、いまのとこは、忙しい。

 

特に代わり映えしない感じでやっている。

 

サボテンの芽がぐんぐん伸びて嬉しかった。

めっちゃ縮んだガーゼマスクをつけたら乳首しか隠れないエロマイクロビキニみたいで面白かった。

けっこう遠くの公園までがんばって散歩にいったら閉鎖&工事中で悲しかった。

空き家の竹やぶが荒れ放題で隣家の庭までタケノコが侵食してて怖かった。

高いジンを買うために酒屋に行ったのに高いからって買わずに帰った。

ハラミは肉かモツかで言えば肉だろと思っていたがやっぱモツなのかもなと思うようになった。

酔っぱらってツムツムに課金した。

 胃腸の健康維持におけるヤクルトの重要性を再認識した。

良い川を見にいきたい、と毎日考えるようになった。

 

特に代わり映えしない感じで毎日やっているけれど、ほんとは色々変わってるのだろう。

ちゃんと思い返してみれば、ほんのひと月前と今とでも、ずいぶん色々変わってる。

嘘みたいだ。

もう十年これでやってるみたいな顔でいたのに。

 

このさきもガンガンに変わっていくのだろう、

予想もつかない感じに変わっていくのだろう、

でもまあ、世の中には変わることより変わらないことのほうがずっと多いし、

世の中はそういうふうにできているので、

あんなに色々変わったのにな、

なのに驚くくらい変わらないな、

 

みたいなことをいつか思うのだろう。

 

 

 

ロロ「四角い2つのさみしい窓」

書きかけて放置していた文章を見つけたのでそのままアップ。

 

ロロ「四角い2つのさみしい窓」@こまばアゴラ劇場

 

とても良くできたお芝居だった。

 

透明な防波堤。関係性への名付けの拒否。マガイものと本物を区別しないこと。境界線を架け橋にすること。

 

引用、見立て、演劇的な仕掛けを駆使して、あちらとこちらを隔てる境界線を、乗り越えたり、無効化したり、往復したり、重ねたりしていた。

 

舞台の上には、ギミックと、ファンタジーと、優しさが溢れていた。

ただ、切実さが不足していた。

 

「死すら別れにはならない、彼岸と此岸は分かたれてはいない、私はいつでもあなたに会える」

こういう言葉(劇中にこんな直接的なセリフがあるわけではないがメッセージは概ねこんな感じ)が感動を呼ぶのは、本当は会えないからだ。死は永遠の別れに他ならず、彼岸と此岸は残酷なまでに分かたれてしまっている。どれだけの愛があろうとも、触れることも、言葉を交わすことも適わない。死がそういうものであるからこそ、「死者は世界に偏在する」とか「忘れないかぎり、生き続ける」みたいな言葉が輝く。失ってしまった痛み、いつか失われることへの不安、そういう寂しさがあるから、喪失の肯定に力が生まれる。

 

今回の舞台では、喪失ははじめから肯定されているように見えた。これは深刻な喪失を味わっていない人の作品なのかもしれないな、と思った。

 

これは勝手な推測だけど、三浦さん、失う前に恐れていたほどには喪失が痛くなかったのではなかろうか?

恋をして、いまのこの世界があまりにも輝いて見えて、輝いているが故に、恋人を失うこと、恋心を失うこと、いま抱いている切実さをいつか忘れてしまうこと、そういうことが本当に本当に恐ろしくて、そういう切実さに彩られてロロのボーイ・ミーツ・ガール・ラブ・ストーリーは成立していたのではないか。でも、いざ恋を失ってみると、世界は終わったりしないし、日に日にしんどさも薄れていって、恋心も忘れてしまって、それでも世界は相変わらず美しくて、それってどういうことなんだろう?あれだけ奇跡だった切実さを失ったのに、なぜ?という問いが生まれて、その答えが「失われた恋にも意味はあるのだ、忘れてしまったとしても消えないのだ」なのではなかろうか。ただ、ここ最近のロロのお芝居に共通すると思うのだけれど、そこには張り詰めるような切実さはやはり存在しなくて、むしろ柔らかく優しく弛緩しており、そうだとすると、切実でない、弛緩した目から見ているにも関わらず世界が美しくてたまらないというのは、いったいどういうことなんだろう?という問いが立ち上がってくるし、ロロはまだそこに答えていないんじゃないか、と思うのです。

 

 

君にいいことがあるように

2019年はあと2時間で終わり。

テレビの中ではPerfumeキュベレイみたいな衣装を来てダンスしてる。

僕は座イスに座ってモツ鍋を食べながらそれを見ている。

隣では彼女が毛布にくるまりながらiPadを操り仕事をしている。

部屋の隅に飾られた黄薔薇の花弁が少し黒ずんでいる。

エアコンの風が卓上に置かれたカップケーキの蓋を揺らしている。

概ねが平穏のまま推移している。

 

今年はずっとaikoの「ストロー」がお気に入りで、気がつくと頭の中で流れていた。3回に1回くらいは鼻歌で、そのまた3回に1回くらいは小声で口ずさんだりしていた。「君にいいことがあるように 今日は赤いストローさしてあげる」という歌詞とメロディが特に好きで、いつもそこばかり繰り返していた。

 

 

君にいいことがあるように

今日は赤いストローさしてあげる

君にいいことがあるように

あるように

あるように

 

当たり前だけど、赤いストローは幸運を齎さない。ストローの色は現実に影響しないし、そういう言い伝えやジンクスも、たぶんない。でもそこには気持ちがある。想いがある。想いをこめてする行為は、どんなものでも祈りに変わる。大げさに言えば魔法、もう少し軽く言えばおまじない。

 

想いがあれば、ストローをさす行為も祈りに変わる。想いがあれば、なんだっておまじないになる。君にいいことがあるように、きょうは少し肩を押してあげる。君にいいことがあるように、きょうはとらやで羊羹を買っていく。君にいいことがあるように。君にいいことがあるように。あるように。あるように。

 

一年中、いつだってそう願っている。連日の徹夜仕事に疲れきったあなたが、何かいいことないかなと口にする回数より多く、あなたにいいことがありますように。モヤモヤやため息の時間もそう捨てたものではないと個人的には思うけど、それでも笑顔でいられる時間が少しでも多くなりますように。気持ちよく目覚められる朝が訪れますように。意識のあるあいだずっと、もしかしたら寝ているときも、心のどこかでそう思っている。

 

年越しそばを食べていたらいつの間にか年が明けていた。いま僕らはハーゲンダッツを食べながら、おもしろ荘と千鳥ちゃんを交互に見ている。どちらかというとおもしろ荘を多めに見ている。2020年はどんな年になるだろうか。どうだろね、見当もつかないね。とにかくいいことがあればいいと思う。僕よりも彼女にいいことがあればいい。願わくば、僕が彼女にとって良いものであったら嬉しい。そんで、年末になって、今年も平穏で良かったと、一緒に過ごせて楽しかったと、そう思えたらとても嬉しい。そういう一年になればいい。

 

あけましておめでとうございます。

今年も宜しくお願いします。

皆様にいいことがありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

小沢健二「 so kakkoii 宇宙」

小沢健二。アルバム。

 

小沢健二については、信者と言ってもいいような大ファンを自認していることもあり、とても言いにくいのだけれど、今回のアルバム、この感じにはあまり乗れないな、というのが正直なところ。大好きなのは変わらないけれど、なんていうか今回は、俺にはちょっとキレイすぎる。まともすぎる。前向きすぎる。

 

いやそりゃさ、「今ここにあるこの暮らしこそが宇宙」だと思うよ、俺も。

なんて素敵なんだろうと、なんて奇跡なんだろうと思うよ、俺も。

論理的に考えれば、そうでしかあり得んよ。

そりゃそうだよ。

 

でもさあ、その「暮らし」って、どんな暮らしなんだろね?

「今ここにあるこの暮らしではすべてが起こる」

なんて言うけどさ、ここで言うその「暮らし」には、別にキレイでもステキでも前向きでもない、どってことない俺の「暮らし」は、含まれてるのかね?

やらなきゃいけないとわかってることをダラダラと先延ばしにしてほうぼうに迷惑をかけてしまい卑屈な謝罪を述べながら自己嫌悪に陥るみたいな、そういうのは「すべてが起こる」に含まれているのかね?

なんてことを思ってしまう。

 

ヨレヨレのスーツ着て、誰も幸せにしないような類いの、誰がやってもいいような仕事を吐きそうになりながらモタモタとこなし、働きたくねえなあ、努力しないで大金転がりこんでこねえかなあ、と思いながら深夜に牛丼を掻っ込み、休日は散らかった部屋の真ん中に座りこんで何から手をつければよいかもわからず呆然としているうちに日が暮れて、何が食べたいのかすらわからず日高屋で工業製品的な麺をすすって終わっていく、そういう俺の「暮らし」は、はたして「so kakkoii 宇宙」の構成要素に含まれているだろうか?

 

俺の暮らしは決して素敵ではないけれど、かけがえがない、替えがきかない、他の誰とも代わることができない、まさに文字通り入れ替え不可能なもので、だから俺は俺の人生を、俺の世界を、深く憎んだり愛したり何も思わなかったりしている。この人生は、この世界は、無限の可能性の中からたまさか俺に与えられた、あるいは選んだ、はたまた選ばされたもので、とにもかくにも好むと好まざるとにかかわらず俺は俺のこの人生を生きており、俺はそのことをロマンティックに感じているし、この俺の人生の唯一性を美しいと思っている。

 

世界が無限の可能性の総体であること。その無限の世界の中で「俺」という存在が他の何とも入れ替え不可能な特権的な存在であること。実はこの世界に存在するひとりひとりがそのような特権的な存在であるということ。それらのことを認識するならば、私たちの世界は、人生は、生活は、暮らしは、当然にすべてが奇跡だし、何もかもが美しい。どんなに悲惨なことも、どんなに醜いことも、すべてが奇跡としてそこにある。

 

私たちはわかりあえないけれど、生きることに意味はないけれど、この世界ではとてもとても残酷なことが起こるけれど、それでもこの世界は、美しい。少なくとも、生きるに値するくらいには。

 

まともで前向きで清潔な暮らしは、それはもちろん美しいよ。愛し子に恵まれた生活は、それは奇跡なのだろうと思うよ。でも俺は、うだつのあがらない俺の生活を、それと同じくらい美しいと思う。弱くて情けなくて正しくもない毎日を奇跡だと思う。小沢健二が「嘘」とか「幻想」とか呼ぶような、システムの中で営まれるすべての人の暮らしを、愛おしく思う。

 

私たちは、世界の中に存在している。世界とは、可能性の総体、起こりうることのすべてである。私たちは、根源的かつ未規定な世界の中に、理解可能なものの総体として社会を作り、その中で生きている。社会の中で生きる私たちは普段、世界から隔離され、阻害されている。それでも世界は常にそこにあり、折りにふれ私たちの前に顕現する。ローラースケート・パークの歌詞の通り、「嘘」と「幻想」に覆われた暮らしにだって、太陽の光は降りそそぐ。どんな毎日を送ってたって、神様がそばにいるような時間は訪れる。世界は、そういうふうに出来ている。

 

小沢健二はそのことをよく知っていると思うし、これまでの彼の歌はそういうことについての歌だと思っている。俺はずっと、そういう宇宙のことやそういう歌を唄う小沢健二のことを、so kakkoiiと思い続けている。

無題

この家に越してきてもうすぐ2年になるが、駐輪場の横の木が金木犀であると気がついたのはつい先日のことである。彼女とふたり、遅い時間に帰宅して、なるべく静かに自転車を停めていると、家の鍵を開ける彼女がああこれ金木犀なんだねえ、と言ったのだった。

近寄って匂いをかぐと、それは確かに金木犀だった。家に入って上着を脱いでソファの上に放り投げ、手を洗いながら、金木犀ってあまり好きじゃない、風物詩はぜんぶ好きなほうだけど金木犀は例外、と言うと彼女は、わたしも好きじゃない、世間で持て囃されてるのはおかしいと思う、と応じた。

そもそも匂いが好きじゃない、花もかわいいと思えない、でもトイレの匂いって言われるのは別に金木犀のせいじゃないからちょっと可愛そう、中国では金木犀をお酒に漬け込むらしいけど美味しいのかしらん、各々そんな感じで勝手なことをいいながら、我々は夕食の仕度をした。僕は買ってきた惣菜を温め、箸と皿を出し、食卓に並べた。彼女はいつものようにサラダを作った。彼女は毎日サラダを作る。他のおかずに野菜が含まれているか、おかずの品数は充分か、そういうこととは関係なく、彼女はいつもサラダを作る。

いつもは特に気にしないけれど、なんとなく、きょうは聴いてみることにした。ねえ、なんでそんなにもサラダを作るの。なんでなの、健康とか、そういうこと?

わかんない。理由はわかんない、わかんないけどいつも食べたくなる、食べたくなるから作ってる。それだけ。

え、理由わかんなくないじゃん、食べたくなるから作ってるんでしょ、それって立派な理由なんじゃないの。

そうなの?これって理由になってる?

充分なってるでしょ。

でもこの場合の理由って、いつも食べたくなるのはなんでかっていうそのなんでかの部分なんじゃないの。食べたくなるから食べたくなるってのは、ただのトートロジーで、説明にはなってなくない?

でもさ、食べたくなるってことは、それは欲望でしょ?欲望に理由とか合理性とか、いる?いやもちろんサラダに合理的な理由を説明することもできなくはないだろうけれど、そういうのって後付っていうか、先にあるのは欲望で、理由は後からこじつけてひねり出すみたいなものにしかなんないんじゃないの?

え待って、理由ってそんなこじつけみたいなものばっかじゃなくない?もっと本質みたいな理由もあるよね?例えばわたしの中に過去の抑圧みたいなものがあって、母親との関係とか、むかし好きだった人に言われた一言とか、原発の爆発のきのこ雲の映像とか、なんかわかんないけどそういうものがいまになって日々のサラダ作成として溢れ出してるみたいな、そういう真芯を射抜く的な理由もあるんじゃないの?

それだって結局は後付なのかもよ?ただ後付でこじつけたネタが本質っぽいっていうか自分が深刻にならざるを得ない記憶とかそういうやつだったから本質だなって思ってるだけで、本当にそれが本質なのか、本当にそれがサラダを召喚してるのかなんて、誰にもわかんないじゃん。

わかるよ。自分の欲望だもの。自分のサラダだもの。

わかんないよ。欲望なんて自分のものじゃないんだから。サラダなんて誰のものでもないんだから。

さっきから何いってんの?サラダはわたしのものだよ?わたしが食べたくてわたしが作ったんだから、このサラダはわたしのものだよ?

だからそれでいいじゃんって。食べたくて作って食べる、それだけでいいじゃん。理由とかなくていいじゃん。

は?理由尋いてきたのはそっちでしょ?聞かれたからがんばって答えようとしてんのに、理由なんてなくていいとかさ、いいなら初めから聞かないでよ。

 

この会話は100%すべてがフィクション で、ただスマホの上で指を適当に滑らせていったら生まれた文字列なのだけれど、なんでまたこんなウザったい会話が生み出されたのか、我ながら謎い。ほんと謎だしほんとウザい。あと月曜マジ嫌い。仕事したくない。晩ごはんのごぼう天肉うどんが胃の中で重たい。吐きそう。江古田で見たウンゲツィーファめっちゃ良かったのでそれは嬉しかった。小沢健二楽しみだけどお台場まで行くのめんどくさい。新宿あたりでやってほしい。新宿に大きなライブハウスほしい。踊り場ネタライブのチケット当たって発券したら良席すぎて笑いが出た。胃が気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 

 

 

 

 

 

キングオブコント2019(というか空気階段)

いちばん好きなTVショーが今年も終わった。

 

一言で、めっちゃ楽しかった。今年は審査がいまの5人に委ねられるようになってからベストの大会だったのではないだろうか。(審査員に期待するのをやめたとも言える、けど言わない)

 

あまり長々と書く気分でもないのでサクッと書いてしまうけれど、僕は漫才とは演者の面白さを提示する芸能で、コントとは世界の面白さを掬いあげる芸能なのだと思っている。

「自分を演ずる」が漫才、「世界を描写する」がコント、と言い換えてもいい。

 

もちろんすべてがそうだと言い切るつもりはないし、そもそも全く的外れなことを言っているかもしれないけれど、僕はそんなふうに思っている。

 

漫才師には、自分の面白さに自信を持っている人が多いように見える。彼らの多くは平場に強い。自分のキャラを保ったまま、グイグイと前に出ることができる。対話の中で直接的に笑いをとることができる。

コント師は、面白がっている。周りを見渡し、見過ごしたっていいようなポイントに目を留め、ひとりでゲラゲラ笑っている。まったく無関係の2つのリズムがたまたま同調してしまう瞬間、皆が自分の合理性に従った末に発生する不条理、なぜだか自分でも説明できないけれどどうしようもなく笑えてしまう仕草や間、日常の中でそういう場面を見つけては、心を震わせつつ笑っている。

 

コント師を見ていると、自分へのちょっとした不信と、世界への信頼を感じる。俺はそんなに面白くはないかもしれないけれど、俺の見ているこの世界はとんでもなく面白いぞ。僕にはコント師はそんなふうに思っているように見える。(考えすぎなのかもしれないけれど。)

 

なんでこんな文章を書こうと思ったのかというと、空気階段の水川かたまりの「お笑いのある世界に産まれてよかったです」というコメントを聴いてボロボロ泣いてしまったからだ。翌日のライブでかたまりは「清潔な気持ちになってあのコメントを言った」と発言したらしい。かが屋の加賀曰く、落ちた後も楽屋に留まりモニターを見ながら「面白えなあ、面白い番組だなあ」と繰り返していたらしい。

 

かたまりという、天使性が強くて、生きづらさを抱えていて、どこまでも純粋で潔癖で、それでいて汚れた世界をどうしようもなく理解し愛着を抱いてしまう、そういう人間が放つ「お笑いのある世界に産まれてよかった」は、どこまでも真っ直ぐに僕の胸を撃ち抜いた。ほんと良かったよな。面白いことばかりの世界に産まれて、自分と同じくその面白さにヤられた人間がたくさんいるこの世界に産まれて、ほんとうによかったよな。俺たちの人生はクソみたいだけど、それを上から見たらこんなにも笑えるんだよな。俺たちは世界でいちばん面白い風景の一部であり得るし、世界でいちばん面白い風景は、面白い芸人の数だけいくつもいくつも舞台に広がるんだよな。俺たち、死ななくてよかったな。生きててよかったな。俺らはこんなにも面白い世界の一部だぞ。ほんとによかったな。

 

飲みすぎた。もう知らね。とりあえず空気階段の大踊り場と単独ライブのチケットは確保した。あー楽しみ。楽しみ楽しみ楽しみ。楽しみだー。

大人になれば

週末から急に暑くなった。仕事は相変わらず忙しい。もう半年くらいずうっと忙しいので、だんだん忙しいのに慣れてきている。どうやら忙しいのコツは、ミスろうが間に合わなかろうが無理なもんは無理なんだわ仕方なかんべ、と本心からそう思うことのようだ。最近のオレなんかはもう鼻歌まじりにミスをしている。鼻くそほじりながら〆切を豪快にかっ飛ばしている。振られた仕事を請け負いながら無理です間に合いません最善は尽くしますがいつまでかかるのかも正確には見積もれませんと明言している。それでも仕事を振られ続けているので、これで何が起ころうがそれはもう振る方に問題がある。そんなふうに開き直りながらいつ終わるともしれない仕事をえっちらおっちらやっている。

 

俺はきょうもポロシャツとスラックスに身を包みひとりデスクに座っている。資料が雑に積み上がった机に座り、パソコンをカチャカチャといじって、メールを打ったりエクセルやったりしている。上役にアポをとって会議をセットし、昨対比やら法改正やらを説明しながら方針を決め、関係者に協力を仰いでみたり難色を示されたりしている。昼飯はキッチンカーで600円の弁当、21時過ぎの地下鉄は座れたり座れなかったり、終点からまた乗り換えて帰るころにはもう深夜で、彼女の作ってくれた晩御飯を食べながらテレビを見て、番組が終わるころにはもう寝る時間、歯を磨いてベッドに潜り、話したりスマホいじったりで遅くなり、翌朝は眠い目をこすりながらのそのそと起きる。シャワーを浴びて歯を磨いて、まだ寝てる彼女に行ってくんねと声をかけ、きょうも一日なんとかやってこうな、お互いがんばろな、つってハグをする。イヤホンを耳に刺し、アルピーのdcガレージか空気階段の踊り場かそのどちらかを聞きながら会社へ向かう。たまに気がつかず同じ回を二度聞いたりしている。ラジオが面白くて電車の中で普通に吹き出したりしてるのでたぶん周りのひとからしたらすげえキモい感じに見えてるんじゃないかと思う。こいつ通勤電車の何がそんなに面白いんだキメえな、みたいな感じ。でも俺はそういう人からどう見えるかみたいのはあんまり気にならないたちなので普通に笑う。運良く座れた日は座りながら笑う。座るとたいてい眠くなってくるのだが、眠気が来るのはいつもきまって会社まで残り一駅のところなので眠ることができない。どうせならもっと早くに眠くなればよいのに。一度、あんまりにもきれいでナチュラルな眠気に襲われたので、これは一駅分の時間で一晩分くらいの濃密な睡眠が得られるのでは!と思って寝てみたことがあるけれど、普通に3駅くらい寝過ごしただけだった。それからというもの眠気はただの障害物である。駅から会社までは5分、その5分の間に父親から電話がかかってくる。母親が入院するので保証人に名前と連絡先を書いてよいかと聞かれる。

いやそれはもちろん構わんけど入院てどしたの。

いや大したことはなくてね、下血して貧血で倒れて救急車乗ったのさ。

下血ってなんでまた。

いや癌とかそういうのではなくてね、捻挫して痛み止め処方されてそれ飲み続けてたら消化器に潰瘍が出きたらしいよ、心配はいらないけども検査だけはするってことで、ただ予約いっぱいで時間だけかかるからって入院せねばならねってさ。

ほんとに大丈夫なんそれ、土日そっちに顔だけでも出しに行こうか。

いや病院が郊外に引っ越すってんでこの週末はリハーサルやるから入院患者さんは全員面会禁止だから、来ても会えないってさ。

 

会社までの5分では会話は終わらず、しかし通勤時間の会社の前で立ち話も何なので、会社を通り過ぎてそのまま歩くことにする。

 

面会禁止なら行っても仕方ないね、お父さんは大丈夫なの、東京は急に暑くなったけどそっちはどうなの。

こっちも暑くなってさ、今週末いま世話人やってる神社のお祭りなのよ、母さん倒れてそれどこではねえってなったんだけど、週末は面会もできないってなったし、仕方ないから予定通り奉納カラオケやるんだよオレ、だからきょうもこのあと母さん面会行ってから歌の練習しなければならないの。

何唄うの。

オレ唄うったらあれよ、吉幾三よ。

雪国?

そう、よく知ってらな、雪国。

 

背中がジリジリと日差しに焼かれる。首すじにダラダラと汗が流れる。もう地下鉄ひと駅分くらい歩いている気がする。始業時間は過ぎただろうか。

 

とりあえずわかったよ、また折を見て電話するから、またね。

 

そう言って電話を切る。スマホの画面に並ぶ数字は始業時間を5分過ぎたことを示している。30分遅れます、上司にそうメールして近所のドトールへ向かう。窓際の席に腰を下ろし、必要以上の冷房と必要以上のアイスコーヒーに冷やされながら、少しのあいだ目を閉じる。しばらくして、背中を濡らす汗が痛いくらい冷たくなってきたころ、俺は自分がいつのまにかもうなんの言い訳もできないくらい大人になってしまっていることに生まれて初めて気がつく。とりあえず粛粛と毎日をやってるタイプの働く大人になっているのだと気がつく。そしたら急に寂しいんだか面白いんだか悔しいんだか誇らしいんだか何がなんだかわけのわからない気持ちが押し寄せてきてワッとなったので、とりあえずストローの包み紙をクシュクシュさせ、そこにコーヒーをたらし、ミョミョミョミョと伸びるのを動画で撮影したりしてみる。あーもー何もしたくねーなこのまま帰ったろうかなと思いながら、出社してからやるべきタスクのことを考えている。窓の向こうでは真っ青な空に真っ白な雲が眩しいくらいに光っている。眼の前のトレイの上ではだらしなく伸びたストローの包み紙が薄茶色に染まっている。俺は時計を確認し、もう5分くらいはこのまま座っていられるな、と思う。