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bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

小沢健二「流動体について」

三寒四温の意味を肌で知るような一週間。

 

今週は毎日泣いていた。別に頭がおかしくなっているわけではない。「流動体について」を毎日聴いているからだ。何度聴いても、そのたびに信じられないような気持ちになる。熱いものがこみ上げてくる。どうしてもこの感動を言葉にしておきたいので、書いてみることにする。少し長くなるけれど。

 

フリッパーズ・ギターは、「この世界にはたった一つだけ本当のことがある、それは『本当のことなんて何一つ無いんだ』ってことだよ」と笑いながら宣言するアンファンテリブルだった。彼らは本当のこと、わかり合うこと、絶対、永遠、真実、皆が信じていたそういう「大きな物語」全てを否定して、最高にカッコよく最高にパンクなやり方でポストモダンを体現してみせた。この世界には根拠なんてない、僕らの人生に意味なんてない。そう宣言して、砂漠のような廃墟の中で戯れ、戯れることで空虚さから逃げ続けた。

 

世界はこんなに空っぽなんだぜ、僕たちの人生は完全に無価値なんだぜ。それは真実ではあるけれど、そんなことを考えながら生き続けていくのは、辛いことだ。生きるに値しない人生。とても素敵ではあるけれど、暇つぶしでしかない人生。それに耐えられる人間はそう多くはない。

(余談だけど小山田圭吾は耐えられる側の人間だと思う。あの人はたぶん何やってても人生楽しいタイプ。ピエール瀧やオードリーの春日と同じ、生きる才能がある人だと思う。)

 

フリッパーズのラストアルバム「ヘッド博士の世界塔」を聴けばすぐ、すべての曲が濃密で甘い死の香りに満ちていることに気が付くだろう。気だるいダンス・ミュージック(というかモロに「スクリーマデリカ」だ)に乗せて歌われる、どん詰まりのやけくその言葉たち。彼らが解散したのは、論理的な必然だったのだと思う。

 

ソロになった小沢健二は、ファーストアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」で「神様を信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬ様に」と歌った。「ねぇ本当はなんか本当があるはず」と歌った。「意味なんてもう何もないなんて僕が飛ばしすぎたジョークさ」と、「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ!」と歌った。あれほど否定した意味を、神様を、本当を求めた。そうしなければ生きていけないからだ。信じるに値するもののない世界では生きていけないからだ。

 

発売された当初、「犬」は「宗教みたいだ」と言われたりした。この表現には揶揄のニュアンスが込められていたけど、それでも間違いとは言い切れない。宗教とは、意味や根拠のない世界に意味や根拠を与える機能を持つものだからだ。「なぜ世界は存在するのか、私は何のために生きているのか?お答えしましょう、それは神様がそう決めたからです。」このQ&Aが宗教の本質である。

 

ただし、小沢健二が求めたのは「神様を信じる強さ」であり、神様そのものではなかった。「犬」は宗教というシステムを介さずに世界を肯定しようとする試みだった。

 

彼が信じようとしたもの、それは例えば金色の穂をつけた枯れゆく草であり、白い雪のように浜辺に散らばるクローバーの花であり、降りそそぐ太陽の光や照らす月明かりであり、ラジオから流れる遠い街の物語であり、愛すべき生まれて育っていくサークルであり、君や僕をつないでる穏やかな止まらないルールであった。

それはつまり、世界そのものだった。世界が存在することの奇跡。世界の美しさ。世界の途方もなさ。その中で人々が暮らし続けてきたということ。そういう「本当のこと」を並べ上げ、自分もその中に連なるひとりなのだという事実を確認し、だから大丈夫だ、人生は生きるに値するのだ、と自分自身に言い聞かせる。「目に映る風景や人々のような美しい存在でありたい、自分もそうなのだと信じたい」と願い、祈る。「犬は吠えるがキャラバンは進む」とはそういうアルバムだった。

 

宗教と同じように、無意味な世界に意味を与える機能を持つものがもうひとつある。そう、恋愛である。

名盤「LIFE」については、もう説明するまでもないだろう。恋愛のもたらす圧倒的な肯定感と高揚感をそのまんまぶつけて何もかもを全肯定するあのアルバムの素晴らしさといったら。

 

でも、恋愛初期の高揚感は永遠には続かない。

恋は醒めるしパーティーは終わる。

 

「LIFE」の後に出されたシングルの中に、「さよならなんて云えないよ」という曲がある。「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる 僕は思う この瞬間は続くと!いつまでも」というフレーズと「本当は分かってる 二度と戻らない美しい日にいると そして静かに心は離れていくと」というフレーズが同居する歌詞は、あまりにも切なくて美しい。

この曲は、後に「美しさ」というタイトルに改題される。さらに後のこと、この曲を含む同時期のシングルを集めたアルバムには、「刹那」というタイトルが冠されることになる。

 

ジャズの音色に乗せ「恋が失われてしまった後でもなお美しい世界」について歌ったアルバム「球体の奏でる音楽」、意味とか本当とかややこしいことを放り出して軽薄にやっていこうぜ、な「buddy」「ダイスを転がせ」なんかを経て、たどり着いた先がシングル「ある光」だ。

 

「強烈な音楽がかかり 生の意味を知るようなとき 誘惑は香水のように 摩天楼の雪を溶かす力のように強く 僕の心は震え 熱情がはねっかえる 神様はいると思った 僕のアーバン・ブルーズへの貢献」

 

「連れてって 街に棲む音 メロディー 連れてって 心の中にある光」

 

「この線路を降りたらすべての時間が魔法みたいに見えるか?いまそんなことばかり考えてる 慰めてしまわずに」

 

彼はNYで何と出会ったのだろう。恋か、ソウルメイトか、音楽か、それとも別の何かか。いずれにせよ、もう一枚のシングルを残して小沢健二は日本から消えた。神様がいると思える時間、すべての時間が魔法みたいに見える生活を求めて。

 

彼はずっと、同じものを追い求めてきたのだ。

本当のものなんて何もない、空っぽの世界の中で、どうしたら「すべての時間が魔法みたいに見えるか」、それが彼が追いかけ続けたことだった。

 

そしてそれは、生きづらさを抱えて生きるすべての文系青年が追い求めていたものと同一だった。ポストモダン的な世界観の中で、世の中をシニカルな目線で見ることしかできず、何も考えずに人生を謳歌している(かのように見える)若者に揶揄と憧れを抱き、恋愛の高揚感ですべてが解決したような気持になってみるけれどいずれ恋は終わり、「終わらない日常」の退屈の中に舞い戻っていく。あの当時にロッキンオンを読んでいた青少年はみんなみんな同じだったのだ、と言い切ってしまおう。だからみんなにとって小沢健二は特別なのだ。フリッパーズのころから小沢健二を見ていた男子は、みんながみんな、「あれは自分だ」と思っていたのだ。

 

改めて言うまでもないけれど、もちろん僕もそのひとりだ。

 

だから、「Eclectic」「毎日の環境学」を経て、2010年に帰ってきた小沢健二を見たときは、本当にうれしかった。ずいぶんと意識高い系になって帰ってきたな、みたいな驚きもあったけれど、「うさぎ!」ってあまりにも素朴なアンチグローバリズムでおいおいそれってどうなの、と思ったりもしたけれど、それ以上に、彼が「すべての時間が魔法みたいに見える」人生を歩んでいることが嬉しかった。あんなに生きづらそうにしていた小沢健二が本当に人生を謳歌している、そのことがうれしくてたまらなかった。

 

そして去年の「魔法的」だ。あれは本当にいいライブだった。結婚し、子供が生まれて、名実ともに「愛すべき生まれて育っていくサークル」「君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則」の一部となった彼は、かつて激しく憧れたあの美しい世界と完全に同化していた。世界の外側から、シニカルだったり憧れたりする目線で世界を見つめていた青年は、世界の内側に入り込み、その一部となっていた。「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない」このフレーズを聴いたときは本当に泣いた。世界との和解を完璧に表現したフレーズ。世界は相変わらず無根拠で、無意味で、底なしの海のような存在である。でもそれはもう怖くはないのだ。だってそういう底の抜けた世界の中で、現に美しい生活を営んでいるのだから。

 

さあ、そして今週のシングルリリース。朝日新聞の広告を見て、Mステに出る姿を見て、そこでやっと気が付いた。

 

今回の小沢健二は、本気で売れようとしている。なぜならば、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」からだ。彼は、この東京を、「『流動体について』がいろんなところで流れている都市」に変えようとしている。それがこの世界をさらに美しくする行為だと確信している。東京が、あのときのNYのような、「すべてのものが魔法みたいに見える」都市であるように、都市を変えようとしている。

 

これは、外側に向けての歌だ。二十年間、自分にとって世界がどう見えるか、そのことばかりを歌い続けてきた小沢健二が、初めて外側に歌を届けようとしているのだ。

 

そのことを思うと、もう、泣けて泣けて仕方ない。

あんなにナイーヴだった、生きづらそうにしていた青年が、大人になっている。自意識の問題を乗り越えて、生活を送り、子を為し、世界にコミットし、責任を果たそうとしている。あの、小沢健二が、だ。

 

こんなに感動的なこと、ほかにあるか?

 

そういうわけで、「流動体について」を聴くと、僕は条件反射のように涙腺が緩んでしまうのだ。

 

長くなったなー。でも吐き出しきった感じがする。

ひとに伝わるかどうか、共感を得られるか、それはまったくわからないけれど。

自分にとって、小沢健二とは、こういう存在なのです。

週末

土曜日。平日より少しだけ遅めに起きる。ホットカーペットとコタツのスイッチを入れる。ポットに水を組み、沸くまでのあいだに洗濯機を回す。ここのところ、洗濯をするたび、洗剤をどのタイミングでどのようにいれればよいか、悩んでしまう。水が溜まる前か、後か。注水口の真下の滝壺の位置に洗剤を入れるべきか、全体にぐるりと回し入れるべきか。どう入れれば、洗剤がきちんと水に溶け、全体に均一な濃度で染み渡るのか。未だに正解に辿り着けていない。

 

洗濯物をベランダに干す。裸足でベランダに出たせいで、足の裏は冷え切っている。コタツに足をいれ、白湯を飲む。そうこうしていると彼女が起きる。おはよう、きょうはどうするの?昼から仕事で神保町だよ。そっか、じゃあ僕はどうしよかな、ところで昼って何時のこと?もう昼といえば昼の時間だけど、平気なの?

 

遅刻しそうな彼女がタクシーで神保町に向かうというので、用はないけど便乗して神保町に向かうことにする。タクシーを降り、彼女と別れ、とりあえずふらふらと歩く。さてどうしようか、そういえば美味しい讃岐うどん屋さんがあったな、行ってみっか、と「丸香」へ向かう。古本屋を冷やかしつつ、ぷらぷらと歩き、角を曲がって、はい、大行列。わかってたけど大行列。しかし長い行列だな、うどん何本並べたら追いつくかな。そんな並んでまで食べたいわけでもなかった(酸っぱい葡萄理論)ので撤退。そういえば近くにもう一軒行ってみたいうどん屋さんあったな、と検索し、テクテク歩いて神田の「一福」へ。広めの店内、混んではいるけど並びはなし。ちょうどよくて嬉しい。四谷の北島亭のフォンドボーを使ったカレーうどんってのもメッチャ気になった、けどグッと堪えてかけうどんとゲソ天。初めてのお店なのでオーソドックスに決めた。讃岐うどんにしては柔らかめ、でもきちんとコシのあるうどん。ムチムチではなく、びよ〜ん、という感じの弾力。柔らかいし伸びる、でも切れない、という感じ。噛んでも美味い、でも喉越しはもっと美味い。あっという間に完食。ゲソ天の存在を忘れるほどに美味しかった。ごちそうさまでした。

次はどうしよかな、そういえば東京駅で面白そうな展覧会やってた気がするな、と東京駅へ歩きだす。土曜のオフィス街は人が少ない。その分まわりをじっくり見られる。築40年はくだらないだろう古いビルの谷間。狭い路地のようになった道を歩く。キョロキョロと首を回しながら歩く。こういう景色は東京ならではなのだろうな。少なくとも実家のある町にはこんな景色はないからな。これから建て替わっていくだろう、東京の風景。いまのうちにもっと見ておきたいな。

 

東京駅に到着。展覧会へ。入り口まで来たところであんまり気分じゃないと気づく。なので展覧会は辞めにして、銀座へ向かう。はとバスの止まる線路沿いを抜けて有楽町。AKOMEYAを冷やかしにいき、冷やかしのつもりが器に一目惚れしてしまう。


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こんな感じの中鉢。お値段もそこそこしたので、しばし悩む。でもこういうのって、一目惚れの時点で結果は見えてるんだよね。というわけでお買上げ。いい心持ちで店を出る。ここまで来たら行くよな、と東銀座のわが故郷のアンテナショップへ。地元の味を買い込んでご満悦で帰宅。

 

日曜日。朝から起きて寝てを繰り返し、あっというまにお昼過ぎ。丸ノ内線に乗って、南阿佐ヶ谷へ。僕が東京で一番好きな書店、書源阿佐ヶ谷店に来た。品揃えと棚のセンスがすごく好きなお店。肩肘はらずに使える普段使いの街の本屋さん、でも行くと必ず出会いがある。ここでいろんな本を買った。仕事の本、古いQuick Japan、料理の本に岩波文庫。毎回、買おうと思っていなかったものを買っていた。買おうと思っているものならネット通販で買えばいい。ここには買いたくなるものがならんでいた。お店にはたくさんのお客さんがいて、きっとみんな僕と同じように思っているに違いない顔で熱心に本を見ていた。きょうで最後なのに、店内の写真を撮るでも、店員さんに話しかけるでもなく、みんな真面目な顔をして本を選んでいた。そう、本当に楽しいんだよ、ここで本を選ぶのは。最後の日ならなおさら、目一杯楽しまなくちゃ。それで僕も本を選んだ。山崎まどかオリーブ少女ライフ」、いとうせいこう「想像ラジオ」、柴崎友香きょうのできごと」を手にレジへ向かい、レジ前に平積みされていた「みんなの映画100選」という本を追加。長場雄さんのイラストに惹かれてジャケ買いしてしまった。南阿佐ヶ谷といえばここ、と個人的に決めている「めんさいぼう五郎左」でラーメンを食べ帰宅。風呂につかりながら読書。風呂で読書は昔からやってることなのだけれど、きょうはじめて、自分が全裸であることを意識した。全裸で本を読んでいるという自覚はいままで無かった。全力で本を迎え撃ってる感じがした。全裸読書、とても誠実な読書なのでは、みたいなことを思った。半身浴読書、だとわりと気楽な感じがするのに、何故だろう。そのとき読んでいたのはいとうせいこうの「想像ラジオ」で、東日本大震災の話であり、読みたいなと思いながら読めずにいた一冊だった。感想は書かない。でも、うん、裸で向き合うのに相応しい本だった。少なくとも僕にとっては。

 

それから他の本を読んだり日曜美術館を見たり極楽とんぼの吠え魂の復活スペシャルを聞いたりしていたらあっという間に三時半。明日は仕事。瞬間的な寝付きと凝縮された睡眠を願いつつ、眠ることにします。おやすみなさい。

 

あー早く小沢健二の新譜を聴きたい。

 

ぼんやり

ぼんやりと毎日を過ごしている。ぼんやりと、なんとなく。だらだらと働いて、それなりに疲労して、半自動的に帰宅し、湯を浴び、食べ、眠り、翌日を迎える。なんともしまらない日々を過ごしている。

 

これじゃいかんな、とカレーを作ったりしてみるも、いかんせんぼんやりしているので、カルダモンをザラザラッと20粒くらい入れてしまったり、古くなったニンニクをありったけぶちこんだり、普段やらないようなことをやってしまい、結果的に北インドカレー大敗北風、みたいなものが出来上がってしまった。ひと匙すくって口に含めば、頭蓋骨の裏側いっぱいにカルダモンの清冽さとニンニクの鈍重さが広がる。テンプルとボディを同時に殴られるような圧倒的な滅多打ち感を味わえる。よく煮込んだはずの豚肉はひたすらに固く引き締まり、噛みしめると筋繊維がここぞとばかりに繊維らしさを主張してくる。そんなふうにパワフルではあるのだけれど、全体の味はというと、なんだかはっきりせず、やっぱりぼんやりとしているのだった。

 

たぶん空のせいだ。青空のくせにヌケの悪い、少し霞がかった、春めいた空のせいだ。空がぼんやりとしているから、それにつられてこっちまでこんなにぼんやりとしてしまうのだ。

 

何をしてたってぼんやりしてしまうのだから、どうせなら本腰いれてぼんやりしたい。梅の花でも見ながら日向ぼっこなんていいな。日当たりのいい縁側に、リクライニングチェアでも置いてさ、昆布茶なんてすすりながら、ひたすらぼやぼやしてたいな。ぼやぼやしてるうちに、話題の映画も楽しみにしてたお芝居も、ぜんぶ後の祭りになって、ニュースもインターネットも見逃して、いろんな流れに取り残されて、でもまあそんならそれでいいや、って思いたい。勤労も遊興もなんだかめんどうくさいので、めんどうくさくなくなる時期になるまで、ぼさーっとしながら過ごしたい。

 

あー。隠居したいなー。

 

日記

創作

朝。目覚ましよりも少し早く起きる。寝起きは良い方だからすぐにシャワーを浴びてもよいのだけれど、そのあいだに目覚ましが鳴り出すと面倒だから、目覚ましが鳴るまで待って、ストップボタンを押して、それからベッドを出る。46℃の熱いシャワーを浴びる。熱すぎるせいで3秒以上同じ箇所に湯を当てることができない。美容師がドライヤーを振るようにシャワーヘッドを振り、湯の方向を分散する。やけどの手前の、痛みとも痒みともつかぬ、チリチリとした焦燥感のような感覚が肌を指す。脳はそれを心地よいと判定する。そう判断する脳を長いこと使っている。

 

風呂場を出る。素のままの冬の朝の部屋の冷気を感じる。バスタオルで乱暴に頭を拭く。濡れたバスタオルを洗濯機に放り込む。出しておいた下着を着る。シャツのボタンを留める。部屋に戻り、そのままベッドに横たわる。髪の毛が枕を濡らす。

 

目を閉じる。内側の景色を確認する。古井戸はとっくの昔に涸れ果てている。勤労意欲が湧き出してくる気配はない。担当業務は立て込んでいる。きょうが締切の仕事こそないものの、スケジュールを逆算すると、今日中にやるべき仕事はいくつもある。葉の落ちた樹にはまだいくつか責任感がぶら下がっている。大きめの果実は細い枝をぐにゃりとしならせている。遠くには山の端を白く染めた無常観の連なりが見える。さらに奥へと分け入っていくと、水面がある。岸は見えない。生き物も見当たらない。ただ水面だけがある。風もなく、波も立たず、水面はただ清潔な平面のようにしてそこにある。水面には変化がない。変化がないから、そこには時間がない。停止した時間と停止した水面が停止したしたままそこにある。

 

少し悩んで、悩んでいるうちに家を出るべき時間を過ぎる。体調が悪いので休みます、と一行だけのメールを送る。それから停止した水面に浮かぶ。わたしは停止した水面の一部になって、わたしの時間も停止する。

 

気がつくと外は暗くなっている。わたしは水面ではなく自分のベッドで目を覚ます。夢を見ていた。水面に浮かぶ夢ではない。遠い昔に住んでいた町についての夢だ。

 

夢の中のわたしはわたしではない誰かだった。わたしではない誰かのわたしは水道局員のような仕事をしていた。年のころは四十代後半ぐらいだろうか。歳の離れた後輩とふたり、揃いのグレーのツナギを着て、古びた公用車であちこちを動き回っていた。ある日、助手席で寝ていたわたしが目を覚ますと、後輩は停車中の社内で菓子パンを食べていた。時間ないんできょうもパンです、先輩のぶんもありますよ、とコンビニの袋を差し出される。暖かいお茶のボトルを取り出して一口飲み、場所を尋ねると、懐かしい町の名前を告げられる。学生時代に住んでいた町の名前だ。どの路線のどの駅からも離れた、都会の秘境。街と呼ぶのがためらわれるような寂れた商店街と、大きなクスノキのある町。ドアを開け、外に出る。この季節にしては暖かい。ペットボトルを持ったまま大きく伸びをし、そのまま少し歩いてみる。道なりにカーブを曲がっていくと、少しずつ石段が見えてくる。山の上に続く長い石段だ。登りきったところには立派な山門があり、その向こうには更に立派なクスノキがある。本当なら寺社仏閣のひとつもありそうなものなのだけれど、ここの石段と山門の向こうにあるのは、ただただ大きなクスノキなのだ。そんじょそこらの御神木よりよほど立派な、ただの大クスノキ。この町のひとたちは、みなクスノキが好きだった。夏になると、町内会が主催する夏祭りがクスノキの回りで行われた。神社でも何でもないところで行われる、謎の夏祭り。

 

住んでいたころならこのまま石段を登るのだろうが、いまはそんな気にはならなかった。石段に腰掛け、お茶を飲む。喉にほのかな温もりを感じる。携帯に後輩から連絡がくる。もう戻りますか?との問いかけに、ほんの少し進んだとこにいるから迎えに来て、と返信する。立ち上がって石段を見上げる。山門の向こうに大クスノキが見える。昼間の太陽が目に差し込む。網膜にクスノキの型の焼印が押される。ノロノロと車がやってくる。無言で助手席に乗り込み、目を閉じる。光になったクスノキがぼやんと拡散していくさまを堪能する。クスノキが跡形もなくなったころ、車の振動がまた眠気を連れてくる。

 

目覚めたわたしが最初にしたのは、あの町を探すことだった。あれはわたしには見覚えのない町だった。小さな遊園地のある町や曲がりくねった川のある町には住んだことがあるけれど、あんなに大きなクスノキのある町は聞いたことすらなかった。まず始めにクスノキを検索し、次に巨木を、最後に古刹を調べた。けれどあの町は見つからなかった。池上本門寺の参道の雰囲気は少しあの町に似ていたけれど、参道の先にあるのは立派なお寺であって大きなクスノキではないのだった。

 

諦めて目を閉じる。すぐにまた別の眠気がやってくる。慌てて目を開ける。このまま眠りに落ちていけばまた別のクスノキを見てしまうのかもしれない。わたしではないわたしの夢を見て、わたしのものではない来し方を見つめ、わたしのものではない感傷を、わたしではないわたしにも言葉にできないなにかを、まるでわたしのものであるかのように味わってしまうのかもしれない。そしてきっと、わたしではないわたしになって感傷的な夢を見るということ、あのクスノキが象徴する何か、それがわたしにとってどういう意味を持つのか、そのようなことを考えてしまうに違いない。

 

体を起こす。寝乱れたシャツがしわくちゃになっている。コートを羽織り、外に出る。夜空からぽつりぽつりと雨粒が落ちている。フードをかぶり、コンビニへ向かう。店内をひとまわりする。パンと温かいお茶を手にとり、少し考えて棚に戻す。レジでドーナツとホットコーヒーを注文する。家に戻ったら軽く仕事をしようと思う。

昇太、マトンカレー、かもめんたる

木曜日。仕事を適当に(本当に適当に)切り上げて下北沢へ。春風亭昇太35周年落語会「夜道に月あかり冴えて」@本多劇場。初めての本多劇場。落語で来るとは思わなかったな。昇太師匠が過去を振り返りながら当時やっていた落語をやる、という趣向のようで、不思議な言い方になるけれど、前座も昇太師匠が努めていた。昇太師匠が前座だった時分によく演っていた噺をやった、という意味です。全体的な感想としては、うーむ、ちょっと期待しすぎていたのかなあ…という印象。なんだろう、お疲れなのかなあ、パワーがダウンしてる感じがする。昇太師匠の落語の好きなところは、器の小さいひとびとがトラブルに巻き込まれてテンパってキーってなってくその様の素晴らしさなのだけれど、このキーが何とも弱く感じられてしまった。あと新作落語の古さが辛かった。妻と娘に虐げられるお父さんはいいとしても、虐げられ方がさあ、巨人戦見せてもらえないとか、パンツ一緒に洗わないでとか、それってどうなの、と思わざるを得ない感じ。合間合間の小話は面白かったんだけどなー。一緒に見るはずだった彼女は仕事で間に合わず、下北の駅前のマクドナルドで合流。めっちゃ落ちこんでいたので、正直そんなでもなかったよ、絶好調時を10とするときょうは6とかそんなもんだったから見れなくてもそこまで残念なやつではないよ、と伝えるも、それは全く慰めにならない、逃した魚は大きくあってほしい、と返され、それはそうだな、と納得する。新宿に移動しご飯。前から気になっていたもつ焼屋に入り、もつ焼屋のように見えるが実はイタリアンのお店である、ということを知る。こういう予想外に出くわすとなんだか嬉しくなる。大海老の沖漬けと鹿のステーキとミートソースのパスタが美味かった。

 

金曜日は働いてご飯食べて寝て終了。明けて土曜日。起床して洗濯機をぐるぐると回し、ついでになんとなく骨付きマトンを解凍する。ヨーグルトでマリネし、しばし寝かせる。そのあいだに宅配便を受け取る。ソープディッシュ、歯ブラシ、ガーリックプレス。必要なもの、必要なもの、必要ではないが人生に彩りを添えるもの。新しいオモチャはすぐ使いたくなるに決まっており、この日のカレーには大量のニンニクが投入されることになった。たっぷりの油にたっぷりのグリーンカルダモン、それにブラックカルダモンもひとつ。クセのある臭いだがマトンカレーには良く合う。クローブ、クミンシード、マスタードシード、カシア、フェネグリーク、と景気よく投入。香りが出たら玉ねぎ。いつもよりしっかりした飴色になるまで炒める。その間にガーリックをプレス。プレス、プレス、プレス。ひと玉まるごとプレスしたった。でもアレですね、ガーリックプレスに期待するムーヴって、ギュッ、ムニュッ、ポトッ、じゃないですか。ムニュッと出てきたガーリックはポトッと落ちてほしいじゃないですか。このポトッ、が一切起こらない場合、どうすればよいのでしょう。最終的にひと玉丸ごと分の粉砕ガーリックがモチャッとダマになってガーリックプレスにくっついていました。爽快感ゼロ。飴色になった玉ねぎに大量のガーリックと生姜を投入。ついでに香草の根と茎もみじん切りにして投入。よく炒めてトマト缶、よく水分を飛ばしたら、骨付きマトンをマリネしてたヨーグルトごと投入。コリアンダー、クミン、チリとターメリックの各パウダーも投入し炒め、水を多めに。ここから二時間煮込み、食べる直前に香草の葉を添えて、マトンカレー完成。

 

カレー作ったりカレー食べたりしていたら結構いい時間になっており、慌てて支度して新宿モリエールへ。かもめんたる単独ライブ「ノーアラートの眠り」。行きしなにチケット発券したら最前列でビビった。最近チケット運いいな、ceroの野外は申込みすら忘れてたけど、取れたチケットの座席はやたらといい感じなんだよな。お久しぶりのモリエール。たしか劇団ひとりの単独ライブ以来だ。ずいぶん時間が経ったなあ。その間に隣のビームスビームスじゃないみたいになったし、大塚家具も大塚家具じゃないみたいになった。

 

とても面白いお笑いを見た、と言うより、とても面白い芝居を見た、という方が実感に近い。「研究所」「山菜採り」「監督」「量販店の関西人」「性癖の嘘」「フードファイター」「眠民のおじさんとショートスリーパーの私」便宜上、各ネタにタイトルをつけるとするとこんな感じだろうか。いちばん好きだったのは「山菜採り」。山菜採り名人が山菜採りを虐殺に例える、そこまではわかる。けれど、それを咎められてからの「いや、俺らには絆あるんで、部外者にはわからないんで」「だからこれDVみたいなもんなんで、ってそれやっぱ駄目っすよね」まで行くと、発想の飛躍の美しさに素直に感嘆してしまう。「監督」も良かった。誤解によって生まれてしまった気まずい空間の中、精いっぱい誠実に振る舞おうとする二人、それによって更に膨らんでいく気まずさ。玉田企画が恐らくやろうとしていることが短時間に凝縮されている。あと槙尾さんの女装の上手さ。あれは「女装」というより「秘めたる女性性の解放」という方が正しい気がする。あのフードファイターの嫁の自然さといったら。「男性が女性を演ずるが故の面白さ」みたいなものが全く無い、最初から女性が演じてるのと変わらない気持ちで見れてしまう。この自然さは何なんでしょう。かもめんたる、とにかく面白いので舞台とか気になる人は見にいったほうが良いです。東京はきょうまで、当日券もあるみたい。地方もツアーがあるらしいので、是非。

 

帰りがけ、紀伊国屋で本を何冊か。ヒロアカの最新刊、長谷川町蔵「あたしたちの未来はきっと」、舞城が載ってる「新潮」に松浦理英子が載ってる「文學界」。スーパーにも寄ってハーゲンダッツのバニラとラムレーズンをパイントで購入。帰宅してコタツに入り、パイントから大きなスプーンで直接アイスを食べながらふたりで読書。ときおり彼女とパイントを交換する。2冊ほどやっつけた結果、バニラとラムレーズンではラムレーズンのほうが早く溶けるとの学びが得られた。

 

コタツと本が眠気を誘って自我も蕩けて後は寝るだけ。いい一日だった。

 

無題

「カルテット」の3話を見た。「泣きながらご飯食べたことあるひとは、生きていけます」の台詞の凄さと言ったら。どうしたらこんな台詞を書けるのだろう。泣きながらご飯を食べて生きていけると思った経験がないとどうしたって書けないんじゃないかと思う。もし創作なのだとしたら、それこそ魔法だ。

 

石川啄木の言うところの「友がみな我より偉く見ゆる日」ってのが続いてる。自分は駄目だなあ、無能だなあ、世の中の人たちはみんなちゃんとしていて偉いなあ、そんなふうに思う日が続いている。ともするとへたりこんでしまいそうになるので、安物のアイスコーヒーをガブガブと飲み、カフェインで誤魔化して何とかしている。何とかなっているような気もするし、何とかなっていないような気もする。何とかなっているのかどうかわからないという時点で何とかなっていないようにも思うがどうなのだろう。なんだかよくわからない。

 

ここのところ、朝に目覚めてすこやかだったことがない。活力に満ちたすっきりとした目覚めを味わいたいと思う。今朝は、目覚ましの鳴る40分前にどんよりと目覚め、なんとなくテレビをつけて、このまま起きてしまうかどうか悩んでるうちに二度寝してしまった。

 

夢を見た。夢の中で俺はすき家のカウンターに座り、ハーブチーズ牛丼の中盛を注文していた。ご飯の量は並盛りのまま、肉だけ大盛りになってるやつだ。店員がトレイにのせた丼を運んでくる。俺の前にトレイが置かれる。大盛りの肉の上にとろけるチーズソースが黄色く輝いている。店員は立ち去らず、俺の前に立ちつくしている。店員がいきなり右手を振り上げる。殴られる、と思った次の瞬間、俺のハーブチーズ牛丼にズブズブと店員の人差し指が突き刺さる。俺は驚いて店員の顔を見る。そこにはドナルド・トランプの顔がある。トランプは顔を醜く歪ませ、チーズソースでぬたぬたになった右手の人差し指を俺の顔に突きつける。脳内にトランプの声が響く。汚い叫び声が俺の頭蓋骨に反響する。お前は不要だ、お前のような無能は俺の国には必要ない、出ていけ、いますぐ俺の国から出ていけ、そして二度と帰ってくるな。

 

目が覚める。テレビにはトランプの顔が大写しになっている。トランプは俺を俺の夢から追い出した。俺は本来、俺の国であるべき場所から退去させられてしまった。俺の国から追い出された俺はどこへ行けばいいのだろう。とりあえず仕事に行かなければならない。そこは俺の国ではないけれど、行かなければ、そこからも退去処分にさせられてしまう。だから行かなくては。

 

なんだか疲れた。いまにも弾けて消えそうな泡のような気分だ。眠りにつくのと弾けて消えるのと、どちらが早いだろうか。

 

もう寝よう。

疲労と寿司、それから余談

金曜日。少しだけ暖かな真冬の日。

 

この一週間ずっと、寝付きが悪かった。ダイエットを始めて食べる量をかなり抑えたせいだろうか。仕事も忙しく、彼女ともケンカなんてしたりして、そんなんだから木曜日くらいからだいぶヤラれてしまってた。きょうは昼からぼーっとしたりイライラしたりお腹の調子もよくなかったり。字面だけ並べると生理中の女子のようだ。確かめようがないのがなんだか残念。そんなんで仕事も身が入らず、To doリストにタスクを山ほど並べてそれをぼんやり眺めているだけの人生だったりした。タスクを潰すのっていかにも「仕事」って感じがして好きじゃない。タスクを洗い出したり解決策を考えたりするのはあんなに楽しいのに、実行フェーズで手を動かすのってなんであんなにやる気でないんだろうか。早く自動化してほしい。というかそもそもなんで自動化されていないのか。欲求や願いは生まれた瞬間に現実化するべきだ。「思考は現実化する」という思考をこそまず現実化するべきで、だから思考現実化マシンが必要だ。「三つ目がとおる」の写楽くんあたりに作ってもらいたい。外見はあの名作「脳みそをトコロテンにする機械」に寄せてほしい。ガラクタを複雑に組み合わせた感じがクール。画像検索したけど見当たらないし単行本は実家なので気になる人は「三つ目がとおる」を読んでください、たぶん一巻に乗ってるはず。あと完全に余談だけどここで「マシン」って言葉が出てくるあたりに自分の年齢を感じる。も少し若いとたぶん「アプリ」って言葉が出てくる。

 

脱線した。とにかく全自動タスク片付け機がほしい。課題を見つけ、解決策を決め、スケジュールを引き、タスクを分解する。人間の仕事はここまでにしてほしい。いいからとにかく手を動かせ!みたいな段階までタスクを分解したら、あとは機械にセットするだけ、みたいにしてほしい。そうならないと僕が仕事を好きになることはないと思う。「手を動かす工程にこそ価値がある」みたいな仕事をなりわいにしていたらまた違ってたのだろうか。たとえば陶芸家のような。それとも全自動陶芸の第一人者として脚光を浴びていただろうか。全自動陶芸って何だ。それはただの工場ではないのか。工場の設計者は陶芸家と言えるのだろうか。工場の設計者が陶芸家なのだとすると、工場は陶芸だということになりはしまいか。陶芸家の作るものはなんでも陶芸なのだろうか。100パーセントの陶芸家、純粋陶芸家、みたいなひとがいるとして、その陶芸家が握った寿司は寿司なのだろうか、それとも陶芸なのだろうか。実態としての寿司を概念としての陶芸が侵食する、みたいなことが起こるのだろうか。ヤバいな。是非とも見てみたいなそれ。

 

なんだろう。何を言っているのだろう。仕事がめんどくさい、疲れた、それだけのことをなにをだらだらと。

 

そういうわけですげー疲れて金曜の夜だったのだけれど、すげー美味しいお寿司を食べたらスッと疲れが抜けていった感じがしたのでお寿司ってすごいな、と思った、という話です。お寿司屋さん的にはいまは冬から春に変わる境目だそうで、季節感に溢れたメニューがたまらんかった。青柳、鯛の昆布締め、春子、赤貝、閂。塩蔵のいくら、それから海胆。途中、あまりの美味しさに身体が痺れて麻痺するような感覚があった。ジョジョの四部のトニオさんの料理を食べるとこんな感じになるのかな、たぶんこれ物凄い賛辞だと思うのだけれど大将には一切伝わらないだろうな…と思いながら寿司に癒やされていた。あの山盛りの海胆を食べているとき、あそこが終点だった。最早これまで、の「これ」があれだった。あのとき、全身の痺れを感じたあのときに一度終わったのだと思う。一度終わって、次の巻物と穴子でまた始まったのだ。そうに違いない。おはよう、おはよう、はじめまして。わたくし、きょうから始まったものです。どうぞよろしくお願いします。

 

NEWGAMEな状態で帰宅して、ようやく「カルテット」の2話を見れた。うん、全部好きだ。美術も演技も会話劇も書こうとしているであろうことも、全部が好きだ。演者も四人とも素晴らしいのだけれど、特に松たか子に吸い寄せられる。目を離せない。なんだろうあの風格。「四月物語」の楡野卯月(記憶で書いてるので漢字合ってるか不明)には絶対に出せなかった強さを感じる。強さというか、タフさというか、強かさというか。エンディングの映像も素晴らしい。いまのとこの今年のベスト・ショート・ムービーだと思う。何回でも見ていられる。羽根を撒き散らしてはしゃいでる4人も最高だし、高橋一生の低い声も「大人は秘密を守る」と歌う松たか子の表情も本当に最高だ。「羽根を撒き散らす」で思い出して槇原敬之の「どうしようもない僕に天使が降りてきた」のPVをYouTubeで見る。曲は何度も聞いているけどPVは久々に見た。時代の感覚が恥ずかしい方向に色濃くて悶絶。小橋賢治のことをひっさしぶりに思い出し、いまなにやってんだろと調べ、ULTRAJAPANのクリエイティブディレクターに就任してると知って驚く。語弊のある言い方をしますが、チャラさのひとつの到達点やないかおいおいずいぶん登り詰めたな、と思いました。

 

寝る前にTwitterいじっててエンジョイミュージッククラブのEこと江本祐介「ライトブルー」のPVが公開されたことを知る。この夏はこればかり聴いていた。


江本祐介「ライトブルー」MV - YouTube

毎分毎秒がキラキラでヤベー。この曲は、夏にあった舞台「魔法」で印象的な使われ方をしていた曲だ。2016年に見たものの中でベストを決めるとしたら、たぶん五回に三回くらいはいわきで見た「魔法」になるんじゃないか、と思ってる。感想も書いた。


いわき総合高等学校総合学科第13期生卒業公演「魔法」 - bronson69の日記

あの舞台に出演していた高校生たちが主演、ロロの三浦さんが演出、島田桃子さんが振付け、監督がエンジョイミュージッククラブの松本さんで美術はひらのさん。ところで江本さんのEと松本さんのMはわかるんですが、なぜひらのさんがCなのでしょうか。本名?ミドルネーム?それともCOMICのC?いつか分かる日が来るのでしょうか。3月の多摩センターのライブも楽しみだな。いわきの女の子たちもダンサーとして参加するとのこと、あの「もーいっかい!」がまた見れるのだろうか。早く見たいな。それまでだらだらと働いて、健やかに過ごさなければ。