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bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

アーの湯、赤ちゃん、玉田企画

三連休だった。

 

土曜日だけどいつもと同じ時間に起床。風呂に入り、散髪に行く。安床でいつもと同じオーダーをする。それでもいつもちょっとずつ違った仕上がりになるので人間の仕事という感じがある。きょうの美容師さんはなかなかよい塩梅に仕上げてくれた。

 

帰宅して軽くゼルダやって試練の祠を2つほど潰して休日出勤の彼女をやさしく起こし、普通に起こし、強めに起こし、起きたところでミッションクリアで家を出る。地下鉄地下鉄JR、電車を乗りつぎ蒲田に到着。ディデアンでスリランカカレーのビュッフェ。

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カレーが6種類。ナス、バナナの葉、フィッシュ、インゲン、オクラ、豆、チキン。それからサンボルが4種類。普通のポリサンボル、辛いチリサンボル、キャベツのサンボル、オニオンのサンボル。他にも副菜がいくつか。ご飯は雑穀米とスパイスライス。とりあえず全種類を皿に乗せ、まずは個々の味を確かめ、ちょっとずつ混ぜ合わせていき、最終的にはすべて混ぜ合わせて渾然一体となった味を楽しむ。しみじみと美味い。ビュッフェなので仕方ないのだけれど、いくつかのカレーは冷めてしまっていて、本調子ではないのだろうなあ、という感じ。フィッシュカレーの魚臭さが苦手な感じだったので、二回目はフィッシュカレー抜きで。ついでにチキンカレーも抜いて、ベジタリアンな一皿に。美味い。よくわからないけど身体に良さそうな、アーユルヴェーダな風情がある。ところでアーユルヴェーダって何のことなのだろう。調べれば一発でわかるのだろうけれど、簡単にわかってしまうには惜しい言葉だと思うので調べないままここまで来ている。

 

バスに揺られて蒲田温泉へ。コントユニット「明日のアー」主催のイベント「アーの湯」を見に来た。

 

コント、浪曲、何でもレンジでチンする会、高速紙芝居、ドラえもん好きが言われるとキレる言葉、弾き語り、かっこいいポーズ、絵描き歌、有毒動物の危険性について、朗読、提案、いなり寿司のストリップ、こういう演目を、銭湯の宴会場で、ビールと釜飯をやっつけつつ見る。開演は一時、終演は八時。要するにあれです、宴会芸のフェスです。やってることはとても知性を感じる芸ばかり(馬鹿にいなり寿司のストリップはできない)なのに、見ているとどんどんIQが下がっていくこの不思議よ。AC部の高速紙芝居とロロ島田桃子さんの朗読、それに玉川大福さんの浪曲、このあたりちょっと芸のレベルが別格でした。ネタはたいそうくだらないのだけれど、そのネタと芸の落差がたまらなかった。七時間公演のラストはダンシングクイーンに合わせてみんなで盆踊り。謎の一体感に包まれて大団円。終演後も宴会場に居残ってしばし飲み続け、黒湯の温泉に浸かって終電で帰宅。よいイベントでした。

 

日曜日。子どもの産まれた友人の家で出産祝いの集い。嗚呼、生後三ヶ月の赤ちゃんの可愛さよ。順繰りに赤ちゃんを抱っこしつつ近況報告をする。学生時代も含めればもう十数年の付き合い。十数年の間にそれぞれに様々がありながら、それでも仲の良い友人関係は代わらずに続いている。よく晴れた日曜の午後、集まって赤ちゃんを愛でている。なんだろう、この普通さ。圧倒的な普通さ。あまりにも普通で、普通に幸せで、信じられない気持ちになる。こんなふうになるなんて、思ってもみなかった。こんなふうな幸せな一日を過ごすことがあって、そのことを幸せに思う、そんなことが実際に起こるなんて、想像もできなかった。帰りがけ、駅までの道すがら、そんなことを話したらみんなおんなじように思っていたようで、なんだか少しホッとした。

 

月曜日。三連休もいよいよ終わり。イベント続きの土日に疲れた感じもしつつ、小竹向原のアトリエ春風舎へ。玉田企画「少年期の脳みそ」、最終日にすべり込み。すごく良かった。部活とかサークルとか先輩後輩とか、幼なじみとか長過ぎる春とか、そういうなんとなく、何かしらのきっかけがあれば簡単になくなってしまうような人間関係。その初々しさ、不穏さ、儚さ。ダブルスの二人は部活を引退すれば疎遠になるだろう。同棲する二人はいつか「私たちこれからどうするの?」という言葉を発するだろう。大学生と高校生のカップルは就職か進学かどちらかがきっかけとなって別れるだろう。すべての関わりが「このままではいられない」ような種類のもので出来ているから、実際に為されているのがどんなにコミカルなやり取りであろうとも、舞台の上には常に終わりの気配が漂っている。それがたまらない。作中では関係の変化は描かれないのだけれど、だからこそ、変わる前の最後の瞬間を切り取ったような美しさを感じる。咲き誇る朝顔のような美しさ、というとちょっと言い過ぎだろうか。笑ってやがて切なくなる、ではなく、笑いと切なさが常に同居するような、そんな作品でした。

 

コンテンツの摂取のしすぎでちょっとグロッキー。ぐったりと疲れたけれど、よい三連休だった。

 

 

寝れない

ここ最近は寝つきが悪い。繁忙期の仕事のせいか、漂う春の気配のせいか。それともゼルダのせいだろうか。でもな、言うほどやれてないんだよな、ゼルダ。画面の中のハイラルを歩き回るのと、温み始めた空気を感じながら夜の住宅街をそぞろ歩くのと、時間があったらやりたいのはどちらかといえば、後者なのだよな。でも時間がないからどちらも出来ずにいる。勿体ないことだ。勿体ないお化けが出てしまう。しかしあれだな、「勿」って字は睫毛の長いひとの閉じた右目に似ているな。

 

寝つきは悪いけれど、生活全般が乱れているかというとそんなことはなく、食事なんかは結構ちゃんとしている。今週は野菜炒めにハマってそればかり作っていた。ニンニクのスライス、あればパクチーの根と茎のみじん切り、これを多めの油で炒めて香りを出す。豚コマを炒める。火が通りきる前に細切りにしたピーマンとエリンギを入れる。油をなじませ、少量の酒をふり、蓋をする。軽く蒸すようなイメージ。ものの一、二分、肉の色が変わるくらいで蓋を開ける。ここから一気に味付け。醤油、ナンプラーオイスターソース水溶き片栗粉を入れ、全体を馴染ませれば完成。

この手順だと、最後の最後までフライパンに塩分を加えないので、野菜から水が出ない。つまり浸透圧である。化学である。化学なのでピーマンがシャキシャキでめちゃくちゃ美味い。毎日食べてもまったく飽きない。化学は偉大である。

 

今週の僕は化学ばかりを食べているわけなので、金曜くらいの僕はもう化学の子であると言っても過言ではないのではないか。化学の子、要するに鉄腕である。鉄人ではない。衣笠ではなくアトムのほうだ。カープではなくアトムズだ。山下達郎のアトムの子ってカラオケで歌うと同じメロディの繰り返しばかりで飽きるよね、特に最後の「フィッフィ、フィィリリ」の繰り返しのとこ。そういえば山下達郎のLIVE、先行申込に気がつかなかった。こないだのcero野音もそうだった。めっちゃ悔しい。申し込んで落ちていたらもっと悔しかっただろうか。関与度上がると悔しさも増しそうだな。フジロックは何日に行けばよいのだろう。小沢健二が何日に出るのか、ということなのだけれど。昼だけでなく夜もステージがあるとか、だとすると一日券で朝までコースか。果たして体力持つのだろうか。いまこそ化学の身体が欲しい。機械の身体が欲しい。できればネジ以外のやつ。俺の体の筋肉はどれをとっても機械だぜ。そういえばアトムはラララ科学の子だからアトムの子供は科学の孫になるわけで、孫と言えば大泉逸郎だけれど、科学の大泉逸郎は科学の孫を可愛がるのだろうか。「なんでこんなに可愛いのかよ」というテーマで科学的な研究発表をするのだろうか。これはなんの話だろうか。

 

明日も早いのだからこんなことを書いてないでとっとと眠ればいいのだけれど、眠れないからこんなことをつれつれと書いているわけで、鶏が先か卵が先かみたいな、要するに親子丼みたいな感じなわけだ。親子丼かあ。食べてないなあ。めっちゃ美味い親子丼を出す店、世の中に多すぎやしませんかね。もはやありがたみがないレベル。

 

眠気こないなー。眠乞いでもやってみようか。雨乞いみたいな。火を焚けばよいのか。カモミールとかラベンダーとか燃せばいいのかな。でも火を焚いたまま寝るなんてそんなの危険すぎる。そうすると火を使わないやつだ。アースノーマットみたいな。アースノーマット置いとけばいいのかな。ベープじゃ駄目かな。どう?駄目?

 

とりあえずもう寝る体制に入ろう。布団の中のスタートラインに並ぼう。スタートラインって書いた瞬間、頭の中で海援隊が歌いだした。これは子守唄になるだろうか。武田鉄矢は人を眠りに誘うことができるのだろうか。向いてはいないような気がする、でも向き不向きとできるできないとはイコールではないからな。鉄矢、向いてないことも努力で克服しそうだしな。刑事物語でアクションやったみたいに。

 

ああ、寝たいなあ。

 

ロロ、一之輔、羽衣

土曜日。あれから6年目。

 

昼すぎ、まだ眠そうな彼女を起こして多摩センターへ向かう。十数年前、大学生のころ住んでいた街。新宿からの京王線準特急に懐かしさを覚える。けれど準特急の停車駅はあのころよりもずいぶんと増え、途中の調布駅は地下に潜り景色も見えず、むしろ時間の流れを思い知らされる。久しぶりの多摩センター駅は、サンリオピューロランド色に染め上げられていた。

 

ここに来たのは「演劇人の文化祭」という、演劇×音楽のイベントを見るためだ。お目当てのロロ×emc feat.いわきっ子はトップバッター。最高すぎてなんかもう笑顔が止まらなかった。ロロの5人がお揃いの衣装(すげーかわいい)で登場してスタンドマイクの前に立ったとき、それだけで鳥肌が立った。SMAPが5人揃ったときのあの特別な感じ、あれと同じ感じがした。歌いだした曲がまあ完璧にSMAPでやっぱSMAPじゃん!ってなって、メンバーの亀島さんは所要で欠席とのmcにほんとは6人なのに5人で歌ってるってもうどこまでもSMAPじゃないか、ってなった。全員そろったSMAPだけが使える魔法、ゴージャスでハッピーでキラキラと輝くあの魔法、あの感じ、あの美しさ、舞台の5人からそれを感じた。いつの間にかそんなにもロロのことを好きになっていたのだな。emcとの「ナイトランデブー」も、いわきっ子たちとの「ライトブルー」も最高だった。舞台上で写真をとるいわきっ子+ロロ+emc、要するに全員だけれど、もう眩しくて眩しくてたまらなかった。ほんでもってあの新曲、「ミーツ・ミーツ・ミーツ」!リフレインするサビのフレーズが好きすぎて少し泣いた。いつとはそんなことしないのだけれど、どうしても忘れたくなくて、終わってすぐにサビのフレーズをメモに残した。

I LOVE YOUってゆうかダンスウィズミー
ボーイミーツガールだけじゃもう足りない
ミーツミーツミーツ
出会った 君あなた

僕と私 あの鐘を鳴らそう

この自由で開かれた愛はどうだ。独占欲とか、性別とか、そういう愛の可能性を狭めるものすべてをとっぱらい、「みんなみんな大好きだ!」という素直な感情を肯定する。「いつ高」そのものじゃないか。最高だろ。

 

あっという間の45分が終わったあと、涙目の僕を見つけて彼女は嬉しそうに、冷やかすようにニコリと笑った。

 

最後の組の演目が終わったのは17時過ぎ。そこから電車で練馬へ移動。春風亭一之輔師匠の独演会へ。「初天神」のアレンジ新作、「団子屋政談」がメッチャクチャな面白さ。柳家の演り方とは一味違う、一之輔ならではのこまっしゃくれた金坊が素晴らしかった。

 

せっかく練馬に来たからには、ということで、ケララバワンで晩ごはん。ちょうどいまは北インドでお祭りの時期らしく、お祭り限定のミールスをいただく。

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もちろんビリヤニも忘れずに。


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ミールスビリヤニもすげー美味い。写真撮り忘れたけれど、後から別に頼んだライタがまた格別に美味しくて、ビリヤニにかけつついただくのがほんとに贅沢な時間だった。胃がはちきれそうになるまで食べてしまったけれど、まあやむを得ないことである。だって美味しいんだもん。仕方ない。美味しさには逆らえない。

 

ゆっくり食べて終電近く、帰りの電車では「演劇人の文化祭」のトリを努めていたFUKAIPRODUCE羽衣の話ばかりをしていた。「くだもの夜曲」のあの過剰さと純粋さとイケてなさ、あんなの泣かずにいられないよな、みたいな話をしながら帰宅して、YouTubeで動画探していくつか聴いて、「ゾロ目の歌」で手が止まる。

 


[【イベント】FUKAIPRODUCE羽衣の“サロメvsヨカナーン”がカラオケに入ってうれしいからイベントします! - YouTube

 

なんだろう。「ひとりぼっちよりもマシだから愛してる」って歌詞、どこかで見たことのあるような、斬新とは言えないようなこのフレーズが、メンバーたちの必死な声で繰り返し歌われるうちに強度を増し、僕の胸の深いところまで突き刺してくる。自然と涙が溢れる。それを見つけた彼女がまた嬉しそうに笑う。なんでそんなに嬉しそうなの、と聞くと、好きなひとがエモくなってるの見たらそれだけでグッと来ちゃうに決まってるじゃん、と返され、それは確かにそのとおりなのでグウの音も出ないのだった。

 

明日は「いつ高」最終日。どうしようかな、当日券でもう一度見に行こうかな。悩むなー。でもいまは眠くてたまらないから、目が覚めてから考えることにしよう。


そういえば久しぶりだな、当日の日記を当日に書くの。


ロロ いつ高シリーズ「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」

先週の日曜日のこと。

 

こまばアゴラにロロの「いつ高」を見に行く。旧作3つと新作1つの一挙上演。1作目はyoutubeで、3作目は劇場で鑑賞済み。なので今回は2作目の「校舎、ナイトクルージング」と新作の「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」を鑑賞。

 

どちらも最高に良かった。キャラクターも「いつ高」の世界も本当に大好きで大好きでたまらない。

 

「いつ高」シリーズを好きなのは、たぶん、世界の広さや豊かさを目に見える形で顕現させてくれるから、なんじゃないかと思っている。

 

舞台の外側を感じさせる、というのはもちろんなのだけれど、それだけではなくて、「いつ高」ではいっしょにはならないはずのものがいっしょになって重なって現れるのだ。

 

「別々の空間や時間をつなげる」と言ってしまうと冷えて固まった言葉な感じでしっくりこないのだけれど、「いつ高」ではそれがとても自然に、最高にチャーミングに行われる。

 

校庭を走る太郎は、窓際の白子に見つめられている。白子はストリートビューの中で太郎に同じ距離を走らせる。太郎はストリートビューの中で、本人も知らぬうちに、傷心旅行中の元カノと出会う。

おばけちゃんの語る10年前のクラスメイトの「楠木くん」は、将門の語るいまのクラスメイトの「楠木くん」とぴたりと重なる(逆)おとめの録音する昼休みのざわめきは夜と昼の教室を重ね合わせる。

 

登場人物たちは、そういうことが起こることに疑問や違和感を抱かない。起こった物事を、ものすごく素直に受け入れる。「この世界ではどんなことでも起こるのだ」ということが常識になっている。

 

「いちごオレ」にはいいシーンがたくさんあったのだけれど、いちばん好きなのは「じゃあ、群青くんにどんな一面があったら好きになる?」ってセリフだ。(一言一句は覚えていないけれど、こんなような言葉だったと思う。)

 

これ聴いたとき、ほんとにシビれた。

空間を重ね、時間を重ね、ついに「もしも」まで重ねてきた。「もしも」は現実ではないけれど、世界とは可能世界の総体であるから、「もしも」だって当然に世界の一部である。

いまここで起きていることに、空間と、時間と、想像を重ねる。広くて豊かな世界の、その広さや豊かさを、舞台のうえに凝縮して顕現させる。そんなものすごいことをやりながら、舞台の上にはどこまでもキュートで切ない世界が広がっている。

 

ああ、書き切れてる感じが全然しない。自分の筆力のなさが恨めしい。でもそうだよな、説明文にしたんじゃつまらないから物語を作るのだものな。自分には書き切れないようなものだから、好きなんだよな。

 

明日はパルテノン多摩でロロ×EMC。いわきの生徒さん達も一緒ということで、「魔法」のダンスがもう一度見れるのか、と期待している。去年から今年にかけて、そこそこ演劇を見ているのだけれど、あの「魔法」を超えるものにはまだ出会っていない。

あれはそれくらい良かった。

 

ああ、楽しみだな。

二月の最後の週のこと

眠たい目をこすりながら書く日記。

 

書こうと思っていたことをずいぶん溜めこんでしまった。先週のことから。小沢健二の「流動体について」の発売日、仕事を終えて新宿のタワレコへ向かう。渋谷のHMVまで行こうかなとも考えたけれど、自分が一番通ったレコ屋はやはり新宿のタワレコなので、そうすることにした。到着したら、なんと休み。入ってるビルごと休み。Flagsよ、こんな大事な日に何やってんだ。しゃーない新宿にもHMVあったよな、タカシマヤだったかな…と調べるといまはルミネの中にあるのね。行ってみると、なんだこれ、狭い。ちょっと驚くほどに狭い。売場面積、ひとり暮らしにはゆとりのあるワンルームくらいか。CDが売れない時代なんだなあ。それでもお客さんはそこそこいて、レジに並ぶ半数は「流動体について」を買っている。なんだか嬉しい。買って帰宅して早速聴く、涙ぐむ、感情が膨れ上がって胸につかえる、どうしても感情を吐き出したい、言葉にしたい、けれど言葉にならない、ほんで四日くらい悪戦苦闘して書いたのがこれです。読んでくれた方、ありがとうございました。

 

bronson69.hatenablog.com

 

土曜。いよいよJリーグが開幕。我がベガルタ仙台は札幌に快勝。大卒ルーキー永戸大活躍。ルーキーの活躍ほど胸がときめくことはない。しかし今季からJリーグを独占配信することになったDAZNがすこぶる駄目。うちの機械のスペックのせいなのだろうか、パソコンは動きがカクカク、スマホをテレビにキャストすると尋常じゃない画素の荒さ。早くなんとかしてほしい。夜は恋人と「ラ・ラ・ランド」を見る。

 

bronson69.hatenablog.com

 

しかしこのタイトル、カタカナで「ラ・ラ・ランド」だと意味ないんじゃないか。「LA LA LAND」とは、ロサンゼルスのLAであり、英語で「夢見心地」の意のLALALAND(ってパンフに書いてた)なわけで、アルファベットのままのがよかったのではないのか。そこんとこどうなんだ。映画のあとは新宿でお酒飲んでダラダラと。バレエダンサーの身体操作能力のヤバさについて学んだ。すげーなあれ。

 

日曜は芸術劇場で「なむはむだはむ」。子供が考えたお話を、ハイバイの岩井秀人森山未來前野健太が表現する。いやー面白かった。森山未來の身体操作、岩井秀人のアドリブ力と言葉の力、前野健太の歌声と可愛げ。
舞台の作りも面白かった。通常の客席に加え、舞台の奥側にも客席を作ってある。向かい合う客席に挟まれたスペースでお芝居をする。舞台奥側の客席にいたのだけれど、明らかに見たことのない光景が広がっていて、それだけでももうアガった。

去年から演劇を頻繁に見るようになって、演劇とは感想の書きにくいものであるなあ、と感じている。なんて言えばいいのかなあ、僕が演劇をみてグッと来ているとき、何にグッと来ているのかといえば、多くは「新しさ」なのだ。自分の世界には存在しなかったもの、自分の理解の範疇を越えたもの、まだ見たことのない世界が眼前に現れ、そして消えてしまうこと、僕にとっての演劇の面白さとはこれなのだ。なのでよい演劇を見たときの感想はいつも「すげー良かったのだけれど何が良かったのかと訊かれるとうまく言葉にできない」になってしまう。探すと言語化するメソッドがありそうな気もする。でも言語化できない今の状態を割と気に入ってもいるので、まあいいか、とも思っている。なのでたぶん、しばらくこのまま。

 

観劇後、池袋の「千登里」で飲む。肉豆腐、ねぎぬた、青菜とあぶらげ煮びたし、やきとん、もう一度ねぎぬた。しみじみと美味い。隣のテーブルでは久々に顔を合わせたらしいご老体お二人がいまの自民党についてやいのやいのとやっている。あまりにも床屋政談らしい床屋政談で嬉しくなってしまう。いい店だったし、いい夜だった。

 

今週は何をしていたかな。「カルテット」の時間軸うんぬん、の話はただの凡ミスだったとのことで一安心。あんな繊細で豊かなドラマ、叙述トリック見破るような態度で鑑賞するのはもったいないよな、と思っていた。とか言いつつ録画見返したりしたけれど。
7話、「旧姓」「巻き戻った」のシークエンスの後、別荘の二階から顔を出すもたいまさこのシーン、すごく良かった。「巻き戻り」がテーマの話だったけれど、恋が始まって終わることは、恋がなかったことと同じではない。豊かな時間が、経験が、思い出が残る。恋をする前の自分と恋が終わった後の自分は同じではない。あの二階のもたいまさこ、恋をしなければ知り合うことのなかった存在、彼女にはそういうことが託されていた。暖炉で真紀さんが詩集を燃やすシーンもよかったなー。真紀さんがたまに見せる激しさ、背筋が寒くなってとてもよい。夫婦のシーンにおけるクドカンに対する共感性のなさもヤバかった。優しいし愛情もある、でも慮りがない、一方向的な愛情。ちょっとサイコパスっぽさを感じる。クドカンの前の夫を殺してる、とかそういう展開があっても驚かない。
ところでもたいまさこクドカンが出会わなかったことには何か意味があるんだろうか。

 

あとは何だろう。甘味をよく食べた。伊勢丹のマパテでブロンディールのケーキをどさどさと買い込んでみたり、赤坂のデリーモでケーキをわしゃわしゃと買い込んでみたり。ケーキはがっつり甘いのがいいか甘さ控えめがいいかで恋人と争ったりした。僕はがっつり甘い派です。ケーキ食ってんなって感じのケーキが好き。ハーゲンダッツの柔もちはまだ食べていない。もしかしたら食べないかもしれない、くらいの思い入れ。あれは超高級な雪見だいふくってことでいいのかな。雪見だいふく食べたいな。あ、それよりあれだ、美味しい和菓子屋さんの苺大福を食べたいな。

 

仕事の本を買おうと紀伊国屋に行って、ぜんぜん関係ないやつを買い込んで終わる、みたいなやつもやった。
「エスパー麻美」の新装版の装丁が可愛すぎるのが悪い。いやエスパー麻美は悪くない。ビジネス書の装丁が可愛くないのが悪いのだ。表紙だけエスパー麻美で中身はビジネス書、みたいな本があればいい。とにかく久しぶりに読むエスパー麻美は最高だった。高畑くんいいやつすぎ。9巻まで出るらしいので買い集めようと思う。もう立ち消えになったものと諦めていた「大阪ハムレット」の5巻が発売されていたのも最高だった。帰宅して読んで、あまりに良くて1巻から読み直してしまった。以前はナビィちゃんの話が一番好きだったけれど、いまはバレエの先生の話が好きだ。河内音頭にあわせてキトリを踊るエリカちゃんに感涙。ダンスを見ると泣く、みたいな回路が繋がってしまっているのだろうか。まあ何でもいいや、いいものはいいし泣けるものは泣けるのだ。

 

会社からの帰り道、山桜が満開を迎えているのを見つける。夕暮れ時の紫色の光に、萌木色の葉と桃色の花弁が艶めかしく照らされている。そういえばだいぶ日が長くなった。またひとつ季節が巡ろうとしている。冬が終わる。春になる。

 

 

「ラ・ラ・ランド」

「ラ・ラ・ランド」感想文。

土曜の夜。新宿TOHO。IMAX

 

オープニング。LA名物、ハイウェイの大渋滞。イライラする人々。脳裏に「フォーリングダウン」が浮かび、ブチ切れたオッサンが銃を乱射したりはしまいかと心配になる。しかし実際にスクリーンで繰り広げられるのは、ロングショットで映し出される群衆たちのダ・ダ・ダンス。これでもう心臓をぎゅっとつかまれてしまう。
僕は昔からたくさんの人たちが楽しそうに踊っている映像に弱いのだ。恋するフォーチュンクッキーのPVで涙ぐんでしまうくらい。

 

ミア・ストーンとルームメイトたちの華やかなダンス。迸る色彩。天下無敵のガールズ・パワー。心臓を掴む手に力がこもる。僕は昔から女性たちが集まった時に醸し出される無敵感に弱いのだ。20年前からずっとゴーバンズの「無敵のビーナス」を愛聴しているくらい。

 

ラストシーン。あり得たかもしれない並行世界についての美しい夢想。しかしそれは現状の否定を意味しない。
自分が選んだ現実を愛しつつ、選ばなかった可能性に思いを馳せる。もし、もう一度あの選択をやり直せるとしたら?と問われても、彼らは同じ道を選ぶだろう。同じ道を選び、同じほろ苦さを味わうのだろう。
もう心臓はぎゅうっと握りつぶされている。僕はこの手の「選ばれなかった選択肢に想いを馳せ、もう一度やり直せるとしたら?と自問自答し、やっぱりこの選択しか自分にはあり得なかったことを確認する」ようなシーンが本当に本当に大好きなのだ。小沢健二の「流動体について」やケヴィン・スミス監督の映画「チェイシング・エイミー」にも共通する選ばなかった/選び得なかった平行世界についてのモチーフ。

 

そういえば、「ラ・ラ・ランド」と「流動体について」のモチーフかぶりが話題になっている。共時性を見出すことに意味があるとすれば、どちらの平行世界も「自ら能動的に選択した結果、切り捨てた世界」であるという点だと思う。「ラ・ラ・ランド」の元ネタの一つである「シェルブールの雨傘」も「もしあの戦争がなかったら…あなたと結婚していたら…」みたいな平行世界を想起させるお話だった。けれどそれは戦争や世間や家族といった「悲劇的な運命」によって、やむをやまれずそうするしかなかったことの結果だった。そこに漂うムードは「運命に翻弄される悲しみ」だった。「ラ・ラ・ランド」や「流動体について」の平行世界は自ら選びとった結果なので、そこには後悔がない。ほろ苦い味わいはあるが、悲劇的ではない。そこについてはとても現代的なことであるなあ、と思う。

 

あと「君の名は」も同じ共時性で語られることがあるけれど、あれは違うよね。あれは平行世界の話ではなく「BTTF」や「時かけ」みたいな「タイムスリップによる歴史改変」だよね。「君の名は」に新しさがあるとしたら、それは「タイムパラドックスによるしっぺ返しがない」ってとこだと思う。ドラえもんからこちら、歴史改変とタイムパラドックスはセットになっていたと思うのだけれど、「君の名は」にはそれがなかった。やっぱ震災なのかな。震災が悲惨すぎたから、「運命は黙って受け入れるしかないのだ…」みたいな捉え方はできなかった、ってことなのかな。

 

「ラ・ラ・ランド」は僕の好物がてんこ盛りのすごく好きな映画でした。ストーリーにはちょっとご都合主義っぽ過ぎるところもあると思うけれど、そういう粗が気にならないくらい好きなところが好きすぎるタイプの映画。もう一度見たい。ダンスシーンだけ何度も何度も繰り返し見たい。部屋でひとりでサントラ聴きながら踊りたい。あー、映画館でサントラ売切れてたんだよなー。タワレコいったら売ってるかなー。

小沢健二「流動体について」

三寒四温の意味を肌で知るような一週間。

 

今週は毎日泣いていた。別に頭がおかしくなっているわけではない。「流動体について」を毎日聴いているからだ。何度聴いても、そのたびに信じられないような気持ちになる。熱いものがこみ上げてくる。どうしてもこの感動を言葉にしておきたいので、書いてみることにする。少し長くなるけれど。

 

フリッパーズ・ギターは、「この世界にはたった一つだけ本当のことがある、それは『本当のことなんて何一つ無いんだ』ってことだよ」と笑いながら宣言するアンファンテリブルだった。彼らは本当のこと、わかり合うこと、絶対、永遠、真実、皆が信じていたそういう「大きな物語」全てを否定して、最高にカッコよく最高にパンクなやり方でポストモダンを体現してみせた。この世界には根拠なんてない、僕らの人生に意味なんてない。そう宣言して、砂漠のような廃墟の中で戯れ、戯れることで空虚さから逃げ続けた。

 

世界はこんなに空っぽなんだぜ、僕たちの人生は完全に無価値なんだぜ。それは真実ではあるけれど、そんなことを考えながら生き続けていくのは、辛いことだ。生きるに値しない人生。とても素敵ではあるけれど、暇つぶしでしかない人生。それに耐えられる人間はそう多くはない。

(余談だけど小山田圭吾は耐えられる側の人間だと思う。あの人はたぶん何やってても人生楽しいタイプ。ピエール瀧やオードリーの春日と同じ、生きる才能がある人だと思う。)

 

フリッパーズのラストアルバム「ヘッド博士の世界塔」を聴けばすぐ、すべての曲が濃密で甘い死の香りに満ちていることに気が付くだろう。気だるいダンス・ミュージック(というかモロに「スクリーマデリカ」だ)に乗せて歌われる、どん詰まりのやけくその言葉たち。彼らが解散したのは、論理的な必然だったのだと思う。

 

ソロになった小沢健二は、ファーストアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」で「神様を信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬ様に」と歌った。「ねぇ本当はなんか本当があるはず」と歌った。「意味なんてもう何もないなんて僕が飛ばしすぎたジョークさ」と、「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ!」と歌った。あれほど否定した意味を、神様を、本当を求めた。そうしなければ生きていけないからだ。信じるに値するもののない世界では生きていけないからだ。

 

発売された当初、「犬」は「宗教みたいだ」と言われたりした。この表現には揶揄のニュアンスが込められていたけど、それでも間違いとは言い切れない。宗教とは、意味や根拠のない世界に意味や根拠を与える機能を持つものだからだ。「なぜ世界は存在するのか、私は何のために生きているのか?お答えしましょう、それは神様がそう決めたからです。」このQ&Aが宗教の本質である。

 

ただし、小沢健二が求めたのは「神様を信じる強さ」であり、神様そのものではなかった。「犬」は宗教というシステムを介さずに世界を肯定しようとする試みだった。

 

彼が信じようとしたもの、それは例えば金色の穂をつけた枯れゆく草であり、白い雪のように浜辺に散らばるクローバーの花であり、降りそそぐ太陽の光や照らす月明かりであり、ラジオから流れる遠い街の物語であり、愛すべき生まれて育っていくサークルであり、君や僕をつないでる穏やかな止まらないルールであった。

それはつまり、世界そのものだった。世界が存在することの奇跡。世界の美しさ。世界の途方もなさ。その中で人々が暮らし続けてきたということ。そういう「本当のこと」を並べ上げ、自分もその中に連なるひとりなのだという事実を確認し、だから大丈夫だ、人生は生きるに値するのだ、と自分自身に言い聞かせる。「目に映る風景や人々のような美しい存在でありたい、自分もそうなのだと信じたい」と願い、祈る。「犬は吠えるがキャラバンは進む」とはそういうアルバムだった。

 

宗教と同じように、無意味な世界に意味を与える機能を持つものがもうひとつある。そう、恋愛である。

名盤「LIFE」については、もう説明するまでもないだろう。恋愛のもたらす圧倒的な肯定感と高揚感をそのまんまぶつけて何もかもを全肯定するあのアルバムの素晴らしさといったら。

 

でも、恋愛初期の高揚感は永遠には続かない。

恋は醒めるしパーティーは終わる。

 

「LIFE」の後に出されたシングルの中に、「さよならなんて云えないよ」という曲がある。「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる 僕は思う この瞬間は続くと!いつまでも」というフレーズと「本当は分かってる 二度と戻らない美しい日にいると そして静かに心は離れていくと」というフレーズが同居する歌詞は、あまりにも切なくて美しい。

この曲は、後に「美しさ」というタイトルに改題される。さらに後のこと、この曲を含む同時期のシングルを集めたアルバムには、「刹那」というタイトルが冠されることになる。

 

ジャズの音色に乗せ「恋が失われてしまった後でもなお美しい世界」について歌ったアルバム「球体の奏でる音楽」、意味とか本当とかややこしいことを放り出して軽薄にやっていこうぜ、な「buddy」「ダイスを転がせ」なんかを経て、たどり着いた先がシングル「ある光」だ。

 

「強烈な音楽がかかり 生の意味を知るようなとき 誘惑は香水のように 摩天楼の雪を溶かす力のように強く 僕の心は震え 熱情がはねっかえる 神様はいると思った 僕のアーバン・ブルーズへの貢献」

 

「連れてって 街に棲む音 メロディー 連れてって 心の中にある光」

 

「この線路を降りたらすべての時間が魔法みたいに見えるか?いまそんなことばかり考えてる 慰めてしまわずに」

 

彼はNYで何と出会ったのだろう。恋か、ソウルメイトか、音楽か、それとも別の何かか。いずれにせよ、もう一枚のシングルを残して小沢健二は日本から消えた。神様がいると思える時間、すべての時間が魔法みたいに見える生活を求めて。

 

彼はずっと、同じものを追い求めてきたのだ。

本当のものなんて何もない、空っぽの世界の中で、どうしたら「すべての時間が魔法みたいに見えるか」、それが彼が追いかけ続けたことだった。

 

そしてそれは、生きづらさを抱えて生きるすべての文系青年が追い求めていたものと同一だった。ポストモダン的な世界観の中で、世の中をシニカルな目線で見ることしかできず、何も考えずに人生を謳歌している(かのように見える)若者に揶揄と憧れを抱き、恋愛の高揚感ですべてが解決したような気持になってみるけれどいずれ恋は終わり、「終わらない日常」の退屈の中に舞い戻っていく。あの当時にロッキンオンを読んでいた青少年はみんなみんな同じだったのだ、と言い切ってしまおう。だからみんなにとって小沢健二は特別なのだ。フリッパーズのころから小沢健二を見ていた男子は、みんながみんな、「あれは自分だ」と思っていたのだ。

 

改めて言うまでもないけれど、もちろん僕もそのひとりだ。

 

だから、「Eclectic」「毎日の環境学」を経て、2010年に帰ってきた小沢健二を見たときは、本当にうれしかった。ずいぶんと意識高い系になって帰ってきたな、みたいな驚きもあったけれど、「うさぎ!」ってあまりにも素朴なアンチグローバリズムでおいおいそれってどうなの、と思ったりもしたけれど、それ以上に、彼が「すべての時間が魔法みたいに見える」人生を歩んでいることが嬉しかった。あんなに生きづらそうにしていた小沢健二が本当に人生を謳歌している、そのことがうれしくてたまらなかった。

 

そして去年の「魔法的」だ。あれは本当にいいライブだった。結婚し、子供が生まれて、名実ともに「愛すべき生まれて育っていくサークル」「君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則」の一部となった彼は、かつて激しく憧れたあの美しい世界と完全に同化していた。世界の外側から、シニカルだったり憧れたりする目線で世界を見つめていた青年は、世界の内側に入り込み、その一部となっていた。「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない」このフレーズを聴いたときは本当に泣いた。世界との和解を完璧に表現したフレーズ。世界は相変わらず無根拠で、無意味で、底なしの海のような存在である。でもそれはもう怖くはないのだ。だってそういう底の抜けた世界の中で、現に美しい生活を営んでいるのだから。

 

さあ、そして今週のシングルリリース。朝日新聞の広告を見て、Mステに出る姿を見て、そこでやっと気が付いた。

 

今回の小沢健二は、本気で売れようとしている。なぜならば、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」からだ。彼は、この東京を、「『流動体について』がいろんなところで流れている都市」に変えようとしている。それがこの世界をさらに美しくする行為だと確信している。東京が、あのときのNYのような、「すべてのものが魔法みたいに見える」都市であるように、都市を変えようとしている。

 

これは、外側に向けての歌だ。二十年間、自分にとって世界がどう見えるか、そのことばかりを歌い続けてきた小沢健二が、初めて外側に歌を届けようとしているのだ。

 

そのことを思うと、もう、泣けて泣けて仕方ない。

あんなにナイーヴだった、生きづらそうにしていた青年が、大人になっている。自意識の問題を乗り越えて、生活を送り、子を為し、世界にコミットし、責任を果たそうとしている。あの、小沢健二が、だ。

 

こんなに感動的なこと、ほかにあるか?

 

そういうわけで、「流動体について」を聴くと、僕は条件反射のように涙腺が緩んでしまうのだ。

 

長くなったなー。でも吐き出しきった感じがする。

ひとに伝わるかどうか、共感を得られるか、それはまったくわからないけれど。

自分にとって、小沢健二とは、こういう存在なのです。