bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

年度末

忙しい。忙しいって書いた瞬間、忙し自慢するひとってカッコ悪いよね、みたいな第三者目線が頭をもたげてくるわけだけれど、そんな自意識過剰を乗り越えて書いちゃうくらい忙しい。もちろん世の中にはもっと忙しいひとはいくらでもいるのだろうけれど、自分としてはこれだけ忙しかったらもうお腹いっぱいだ。忙しいよー。めんどくさいよー。放りだしてキングコング見に行きたいよー。アサリと菜の花とココナツミルクでカレー作りたいよー。抜け出して公園でビール飲みたいよー。

 

今週のはじめ、こりゃめたくそ忙しくなりそうだぞ、とわかった日に、豚汁を作った。これさえあれば遅くに帰ってきても簡単に温かい食事が出来る。一品で満足できるように、具を盛りだくさんにした。向こう3日くらいこれでしのごうと思い、多めに作った。具を多めに作ろう、量も多めに作ろう、多め×多めだから具を山盛りにしよう。計算の結果、部活の合宿みたいな大鍋いっぱいの豚汁が完成した。

 

それから朝に晩に豚汁を食べ続けている。まだ半分もなくならない。こまめに火を入れているおかげか、傷む気配はまだないのだけれど、それ以前に飽きてきた。ねえこれどうしたらいいと思う、と彼女に相談すると、お前は何を言っているのだ、こういうときはカレールー一択だろう、そんなこともわからないのか、まったくインドカレーばかり作っているからそんなことになるんだ、というありがたいお言葉とため息をつくうさぎのスタンプが送られてきた。

 

もたらされた叡智に感謝の言葉を送り、早速カレールーを買いに行く。しばらく見ないうちに、売り場の半分をフレークタイプのカレールーが占拠していた。チョコレートみたいなタイプのやつは棚の下段に追いやられている。時代の移り変わりを感じつつ、フレークタイプを購入。帰宅して大鍋に放り込む。めっちゃ溶けがいい。またしても叡智。カレーに関わると人はみな賢くなるのだろうか。インド人がゼロの概念を発見したのはカレーのおかげなのではなかろうか。いや、ゼロの概念の発見なんかよりカレーの開発のほうが偉大な功績なのではなかろうか。インド人が賢かったからカレーを編み出したのか、カレーのおかげでインド人が賢くなったのか、そもそもカレーはインド人が開発したものなのか、考えているとわけがわからなくなってくる。あれ、俺の叡智はどこにいったのかな。

 

めでたくカレーになった豚汁を食べる。美味い。味噌の風味は消えているが和風の出汁の香りと旨味は顕在。これあれだ、蕎麦屋だ。蕎麦屋のカレーだ。蕎麦屋カレーを食べながらぼんやりとテレビを見る。こういうときは新しいものじゃなく、すでに見たものがいい。集中力を発揮したくない。カルテットを選んで流す。カルテットを流し見って物凄い贅沢をしてるな、と思う。しかしあれだな、やっぱ真紀さんって怖いな。真紀さんて、どことなくサイコパスっぽい感じがする。クドカンに対する共感性のなさとか、有朱ちゃんの死体を迷いなく遺棄しようとする感じとか。ほんとにサイコパスだ、というわけではなく、そういう資質があるように見える、というくらいだけれども。大事なもののためなら他人の迷惑を顧みない、っていうのかな。ベンジャミンさん追い出したみたいな。するっと万引きできちゃうタイプ。いざとなったら人を殺せる、もしかしたらそれは誰もがそうなのかもしれないけれど、そのハードルが低いタイプの人間。

カルテットで言えば、ヤバい人間はもうひとりいる。言うまでもなく有朱ちゃんである。真紀さんより有朱ちゃんのほうがずーっとサイコパスっぽい。サイコパスって言葉はなんかしっくりこないな、えーと、「言葉が通じないひと」ってほうがいいかな。有朱ちゃんには言葉が届かないし、有朱ちゃんから本当の言葉は出てこない。坂元さんの作品で「言葉が通じないひと」といえば、すぐに思い出すのは「それでも、生きてゆく」の文哉である。坂元さんは「文哉と洋貴の会話のシーン何度も書き直したけれど、幼女を殺すようなやつに届くような言葉を書けなかった、どうしても文哉が変わるとは思えなかった」というようなことをどこかで書いていた。同じことを有朱ちゃんにも感じる。劇中、ついぞ彼女に届く言葉は発せられなかった。

真紀さんがほんとにそういう人間だとして、真紀さんと有朱ちゃんの差はなんなのかな、と思った。言葉が届く真紀さんと、届かない有朱ちゃん。なんだろう。欲求なのかな。あるいは憧れ。有朱ちゃんは金持ちに、成り上がることに憧れた。真紀さんは普通の幸せに憧れた。その違いなのかな。

 

蕎麦屋カレーを食べながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 

風呂に入って床につく。まだしばらく忙しい日々が続く。普段だらだらしているから、忙しさに慣れていない。多忙をマネジメントするスキルがない。クーリンチェもキングコングもいつ見に行けるやら。桜も咲いてしまうというのに。

ああ。はよ終わらんかなあ。

 

アーの湯、赤ちゃん、玉田企画

三連休だった。

 

土曜日だけどいつもと同じ時間に起床。風呂に入り、散髪に行く。安床でいつもと同じオーダーをする。それでもいつもちょっとずつ違った仕上がりになるので人間の仕事という感じがある。きょうの美容師さんはなかなかよい塩梅に仕上げてくれた。

 

帰宅して軽くゼルダやって試練の祠を2つほど潰して休日出勤の彼女をやさしく起こし、普通に起こし、強めに起こし、起きたところでミッションクリアで家を出る。地下鉄地下鉄JR、電車を乗りつぎ蒲田に到着。ディデアンでスリランカカレーのビュッフェ。

f:id:bronson69:20170321102040j:image

カレーが6種類。ナス、バナナの葉、フィッシュ、インゲン、オクラ、豆、チキン。それからサンボルが4種類。普通のポリサンボル、辛いチリサンボル、キャベツのサンボル、オニオンのサンボル。他にも副菜がいくつか。ご飯は雑穀米とスパイスライス。とりあえず全種類を皿に乗せ、まずは個々の味を確かめ、ちょっとずつ混ぜ合わせていき、最終的にはすべて混ぜ合わせて渾然一体となった味を楽しむ。しみじみと美味い。ビュッフェなので仕方ないのだけれど、いくつかのカレーは冷めてしまっていて、本調子ではないのだろうなあ、という感じ。フィッシュカレーの魚臭さが苦手な感じだったので、二回目はフィッシュカレー抜きで。ついでにチキンカレーも抜いて、ベジタリアンな一皿に。美味い。よくわからないけど身体に良さそうな、アーユルヴェーダな風情がある。ところでアーユルヴェーダって何のことなのだろう。調べれば一発でわかるのだろうけれど、簡単にわかってしまうには惜しい言葉だと思うので調べないままここまで来ている。

 

バスに揺られて蒲田温泉へ。コントユニット「明日のアー」主催のイベント「アーの湯」を見に来た。

 

コント、浪曲、何でもレンジでチンする会、高速紙芝居、ドラえもん好きが言われるとキレる言葉、弾き語り、かっこいいポーズ、絵描き歌、有毒動物の危険性について、朗読、提案、いなり寿司のストリップ、こういう演目を、銭湯の宴会場で、ビールと釜飯をやっつけつつ見る。開演は一時、終演は八時。要するにあれです、宴会芸のフェスです。やってることはとても知性を感じる芸ばかり(馬鹿にいなり寿司のストリップはできない)なのに、見ているとどんどんIQが下がっていくこの不思議よ。AC部の高速紙芝居とロロ島田桃子さんの朗読、それに玉川大福さんの浪曲、このあたりちょっと芸のレベルが別格でした。ネタはたいそうくだらないのだけれど、そのネタと芸の落差がたまらなかった。七時間公演のラストはダンシングクイーンに合わせてみんなで盆踊り。謎の一体感に包まれて大団円。終演後も宴会場に居残ってしばし飲み続け、黒湯の温泉に浸かって終電で帰宅。よいイベントでした。

 

日曜日。子どもの産まれた友人の家で出産祝いの集い。嗚呼、生後三ヶ月の赤ちゃんの可愛さよ。順繰りに赤ちゃんを抱っこしつつ近況報告をする。学生時代も含めればもう十数年の付き合い。十数年の間にそれぞれに様々がありながら、それでも仲の良い友人関係は代わらずに続いている。よく晴れた日曜の午後、集まって赤ちゃんを愛でている。なんだろう、この普通さ。圧倒的な普通さ。あまりにも普通で、普通に幸せで、信じられない気持ちになる。こんなふうになるなんて、思ってもみなかった。こんなふうな幸せな一日を過ごすことがあって、そのことを幸せに思う、そんなことが実際に起こるなんて、想像もできなかった。帰りがけ、駅までの道すがら、そんなことを話したらみんなおんなじように思っていたようで、なんだか少しホッとした。

 

月曜日。三連休もいよいよ終わり。イベント続きの土日に疲れた感じもしつつ、小竹向原のアトリエ春風舎へ。玉田企画「少年期の脳みそ」、最終日にすべり込み。すごく良かった。部活とかサークルとか先輩後輩とか、幼なじみとか長過ぎる春とか、そういうなんとなく、何かしらのきっかけがあれば簡単になくなってしまうような人間関係。その初々しさ、不穏さ、儚さ。ダブルスの二人は部活を引退すれば疎遠になるだろう。同棲する二人はいつか「私たちこれからどうするの?」という言葉を発するだろう。大学生と高校生のカップルは就職か進学かどちらかがきっかけとなって別れるだろう。すべての関わりが「このままではいられない」ような種類のもので出来ているから、実際に為されているのがどんなにコミカルなやり取りであろうとも、舞台の上には常に終わりの気配が漂っている。それがたまらない。作中では関係の変化は描かれないのだけれど、だからこそ、変わる前の最後の瞬間を切り取ったような美しさを感じる。咲き誇る朝顔のような美しさ、というとちょっと言い過ぎだろうか。笑ってやがて切なくなる、ではなく、笑いと切なさが常に同居するような、そんな作品でした。

 

コンテンツの摂取のしすぎでちょっとグロッキー。ぐったりと疲れたけれど、よい三連休だった。

 

 

寝れない

ここ最近は寝つきが悪い。繁忙期の仕事のせいか、漂う春の気配のせいか。それともゼルダのせいだろうか。でもな、言うほどやれてないんだよな、ゼルダ。画面の中のハイラルを歩き回るのと、温み始めた空気を感じながら夜の住宅街をそぞろ歩くのと、時間があったらやりたいのはどちらかといえば、後者なのだよな。でも時間がないからどちらも出来ずにいる。勿体ないことだ。勿体ないお化けが出てしまう。しかしあれだな、「勿」って字は睫毛の長いひとの閉じた右目に似ているな。

 

寝つきは悪いけれど、生活全般が乱れているかというとそんなことはなく、食事なんかは結構ちゃんとしている。今週は野菜炒めにハマってそればかり作っていた。ニンニクのスライス、あればパクチーの根と茎のみじん切り、これを多めの油で炒めて香りを出す。豚コマを炒める。火が通りきる前に細切りにしたピーマンとエリンギを入れる。油をなじませ、少量の酒をふり、蓋をする。軽く蒸すようなイメージ。ものの一、二分、肉の色が変わるくらいで蓋を開ける。ここから一気に味付け。醤油、ナンプラーオイスターソース水溶き片栗粉を入れ、全体を馴染ませれば完成。

この手順だと、最後の最後までフライパンに塩分を加えないので、野菜から水が出ない。つまり浸透圧である。化学である。化学なのでピーマンがシャキシャキでめちゃくちゃ美味い。毎日食べてもまったく飽きない。化学は偉大である。

 

今週の僕は化学ばかりを食べているわけなので、金曜くらいの僕はもう化学の子であると言っても過言ではないのではないか。化学の子、要するに鉄腕である。鉄人ではない。衣笠ではなくアトムのほうだ。カープではなくアトムズだ。山下達郎のアトムの子ってカラオケで歌うと同じメロディの繰り返しばかりで飽きるよね、特に最後の「フィッフィ、フィィリリ」の繰り返しのとこ。そういえば山下達郎のLIVE、先行申込に気がつかなかった。こないだのcero野音もそうだった。めっちゃ悔しい。申し込んで落ちていたらもっと悔しかっただろうか。関与度上がると悔しさも増しそうだな。フジロックは何日に行けばよいのだろう。小沢健二が何日に出るのか、ということなのだけれど。昼だけでなく夜もステージがあるとか、だとすると一日券で朝までコースか。果たして体力持つのだろうか。いまこそ化学の身体が欲しい。機械の身体が欲しい。できればネジ以外のやつ。俺の体の筋肉はどれをとっても機械だぜ。そういえばアトムはラララ科学の子だからアトムの子供は科学の孫になるわけで、孫と言えば大泉逸郎だけれど、科学の大泉逸郎は科学の孫を可愛がるのだろうか。「なんでこんなに可愛いのかよ」というテーマで科学的な研究発表をするのだろうか。これはなんの話だろうか。

 

明日も早いのだからこんなことを書いてないでとっとと眠ればいいのだけれど、眠れないからこんなことをつれつれと書いているわけで、鶏が先か卵が先かみたいな、要するに親子丼みたいな感じなわけだ。親子丼かあ。食べてないなあ。めっちゃ美味い親子丼を出す店、世の中に多すぎやしませんかね。もはやありがたみがないレベル。

 

眠気こないなー。眠乞いでもやってみようか。雨乞いみたいな。火を焚けばよいのか。カモミールとかラベンダーとか燃せばいいのかな。でも火を焚いたまま寝るなんてそんなの危険すぎる。そうすると火を使わないやつだ。アースノーマットみたいな。アースノーマット置いとけばいいのかな。ベープじゃ駄目かな。どう?駄目?

 

とりあえずもう寝る体制に入ろう。布団の中のスタートラインに並ぼう。スタートラインって書いた瞬間、頭の中で海援隊が歌いだした。これは子守唄になるだろうか。武田鉄矢は人を眠りに誘うことができるのだろうか。向いてはいないような気がする、でも向き不向きとできるできないとはイコールではないからな。鉄矢、向いてないことも努力で克服しそうだしな。刑事物語でアクションやったみたいに。

 

ああ、寝たいなあ。

 

ロロ、一之輔、羽衣

土曜日。あれから6年目。

 

昼すぎ、まだ眠そうな彼女を起こして多摩センターへ向かう。十数年前、大学生のころ住んでいた街。新宿からの京王線準特急に懐かしさを覚える。けれど準特急の停車駅はあのころよりもずいぶんと増え、途中の調布駅は地下に潜り景色も見えず、むしろ時間の流れを思い知らされる。久しぶりの多摩センター駅は、サンリオピューロランド色に染め上げられていた。

 

ここに来たのは「演劇人の文化祭」という、演劇×音楽のイベントを見るためだ。お目当てのロロ×emc feat.いわきっ子はトップバッター。最高すぎてなんかもう笑顔が止まらなかった。ロロの5人がお揃いの衣装(すげーかわいい)で登場してスタンドマイクの前に立ったとき、それだけで鳥肌が立った。SMAPが5人揃ったときのあの特別な感じ、あれと同じ感じがした。歌いだした曲がまあ完璧にSMAPでやっぱSMAPじゃん!ってなって、メンバーの亀島さんは所要で欠席とのmcにほんとは6人なのに5人で歌ってるってもうどこまでもSMAPじゃないか、ってなった。全員そろったSMAPだけが使える魔法、ゴージャスでハッピーでキラキラと輝くあの魔法、あの感じ、あの美しさ、舞台の5人からそれを感じた。いつの間にかそんなにもロロのことを好きになっていたのだな。emcとの「ナイトランデブー」も、いわきっ子たちとの「ライトブルー」も最高だった。舞台上で写真をとるいわきっ子+ロロ+emc、要するに全員だけれど、もう眩しくて眩しくてたまらなかった。ほんでもってあの新曲、「ミーツ・ミーツ・ミーツ」!リフレインするサビのフレーズが好きすぎて少し泣いた。いつとはそんなことしないのだけれど、どうしても忘れたくなくて、終わってすぐにサビのフレーズをメモに残した。

I LOVE YOUってゆうかダンスウィズミー
ボーイミーツガールだけじゃもう足りない
ミーツミーツミーツ
出会った 君あなた

僕と私 あの鐘を鳴らそう

この自由で開かれた愛はどうだ。独占欲とか、性別とか、そういう愛の可能性を狭めるものすべてをとっぱらい、「みんなみんな大好きだ!」という素直な感情を肯定する。「いつ高」そのものじゃないか。最高だろ。

 

あっという間の45分が終わったあと、涙目の僕を見つけて彼女は嬉しそうに、冷やかすようにニコリと笑った。

 

最後の組の演目が終わったのは17時過ぎ。そこから電車で練馬へ移動。春風亭一之輔師匠の独演会へ。「初天神」のアレンジ新作、「団子屋政談」がメッチャクチャな面白さ。柳家の演り方とは一味違う、一之輔ならではのこまっしゃくれた金坊が素晴らしかった。

 

せっかく練馬に来たからには、ということで、ケララバワンで晩ごはん。ちょうどいまは北インドでお祭りの時期らしく、お祭り限定のミールスをいただく。

f:id:bronson69:20170312025157j:image

もちろんビリヤニも忘れずに。


f:id:bronson69:20170312025303j:image

ミールスビリヤニもすげー美味い。写真撮り忘れたけれど、後から別に頼んだライタがまた格別に美味しくて、ビリヤニにかけつついただくのがほんとに贅沢な時間だった。胃がはちきれそうになるまで食べてしまったけれど、まあやむを得ないことである。だって美味しいんだもん。仕方ない。美味しさには逆らえない。

 

ゆっくり食べて終電近く、帰りの電車では「演劇人の文化祭」のトリを努めていたFUKAIPRODUCE羽衣の話ばかりをしていた。「くだもの夜曲」のあの過剰さと純粋さとイケてなさ、あんなの泣かずにいられないよな、みたいな話をしながら帰宅して、YouTubeで動画探していくつか聴いて、「ゾロ目の歌」で手が止まる。

 


[【イベント】FUKAIPRODUCE羽衣の“サロメvsヨカナーン”がカラオケに入ってうれしいからイベントします! - YouTube

 

なんだろう。「ひとりぼっちよりもマシだから愛してる」って歌詞、どこかで見たことのあるような、斬新とは言えないようなこのフレーズが、メンバーたちの必死な声で繰り返し歌われるうちに強度を増し、僕の胸の深いところまで突き刺してくる。自然と涙が溢れる。それを見つけた彼女がまた嬉しそうに笑う。なんでそんなに嬉しそうなの、と聞くと、好きなひとがエモくなってるの見たらそれだけでグッと来ちゃうに決まってるじゃん、と返され、それは確かにそのとおりなのでグウの音も出ないのだった。

 

明日は「いつ高」最終日。どうしようかな、当日券でもう一度見に行こうかな。悩むなー。でもいまは眠くてたまらないから、目が覚めてから考えることにしよう。


そういえば久しぶりだな、当日の日記を当日に書くの。


ロロ いつ高シリーズ「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」

先週の日曜日のこと。

 

こまばアゴラにロロの「いつ高」を見に行く。旧作3つと新作1つの一挙上演。1作目はyoutubeで、3作目は劇場で鑑賞済み。なので今回は2作目の「校舎、ナイトクルージング」と新作の「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」を鑑賞。

 

どちらも最高に良かった。キャラクターも「いつ高」の世界も本当に大好きで大好きでたまらない。

 

「いつ高」シリーズを好きなのは、たぶん、世界の広さや豊かさを目に見える形で顕現させてくれるから、なんじゃないかと思っている。

 

舞台の外側を感じさせる、というのはもちろんなのだけれど、それだけではなくて、「いつ高」ではいっしょにはならないはずのものがいっしょになって重なって現れるのだ。

 

「別々の空間や時間をつなげる」と言ってしまうと冷えて固まった言葉な感じでしっくりこないのだけれど、「いつ高」ではそれがとても自然に、最高にチャーミングに行われる。

 

校庭を走る太郎は、窓際の白子に見つめられている。白子はストリートビューの中で太郎に同じ距離を走らせる。太郎はストリートビューの中で、本人も知らぬうちに、傷心旅行中の元カノと出会う。

おばけちゃんの語る10年前のクラスメイトの「楠木くん」は、将門の語るいまのクラスメイトの「楠木くん」とぴたりと重なる(逆)おとめの録音する昼休みのざわめきは夜と昼の教室を重ね合わせる。

 

登場人物たちは、そういうことが起こることに疑問や違和感を抱かない。起こった物事を、ものすごく素直に受け入れる。「この世界ではどんなことでも起こるのだ」ということが常識になっている。

 

「いちごオレ」にはいいシーンがたくさんあったのだけれど、いちばん好きなのは「じゃあ、群青くんにどんな一面があったら好きになる?」ってセリフだ。(一言一句は覚えていないけれど、こんなような言葉だったと思う。)

 

これ聴いたとき、ほんとにシビれた。

空間を重ね、時間を重ね、ついに「もしも」まで重ねてきた。「もしも」は現実ではないけれど、世界とは可能世界の総体であるから、「もしも」だって当然に世界の一部である。

いまここで起きていることに、空間と、時間と、想像を重ねる。広くて豊かな世界の、その広さや豊かさを、舞台のうえに凝縮して顕現させる。そんなものすごいことをやりながら、舞台の上にはどこまでもキュートで切ない世界が広がっている。

 

ああ、書き切れてる感じが全然しない。自分の筆力のなさが恨めしい。でもそうだよな、説明文にしたんじゃつまらないから物語を作るのだものな。自分には書き切れないようなものだから、好きなんだよな。

 

明日はパルテノン多摩でロロ×EMC。いわきの生徒さん達も一緒ということで、「魔法」のダンスがもう一度見れるのか、と期待している。去年から今年にかけて、そこそこ演劇を見ているのだけれど、あの「魔法」を超えるものにはまだ出会っていない。

あれはそれくらい良かった。

 

ああ、楽しみだな。

二月の最後の週のこと

眠たい目をこすりながら書く日記。

 

書こうと思っていたことをずいぶん溜めこんでしまった。先週のことから。小沢健二の「流動体について」の発売日、仕事を終えて新宿のタワレコへ向かう。渋谷のHMVまで行こうかなとも考えたけれど、自分が一番通ったレコ屋はやはり新宿のタワレコなので、そうすることにした。到着したら、なんと休み。入ってるビルごと休み。Flagsよ、こんな大事な日に何やってんだ。しゃーない新宿にもHMVあったよな、タカシマヤだったかな…と調べるといまはルミネの中にあるのね。行ってみると、なんだこれ、狭い。ちょっと驚くほどに狭い。売場面積、ひとり暮らしにはゆとりのあるワンルームくらいか。CDが売れない時代なんだなあ。それでもお客さんはそこそこいて、レジに並ぶ半数は「流動体について」を買っている。なんだか嬉しい。買って帰宅して早速聴く、涙ぐむ、感情が膨れ上がって胸につかえる、どうしても感情を吐き出したい、言葉にしたい、けれど言葉にならない、ほんで四日くらい悪戦苦闘して書いたのがこれです。読んでくれた方、ありがとうございました。

 

bronson69.hatenablog.com

 

土曜。いよいよJリーグが開幕。我がベガルタ仙台は札幌に快勝。大卒ルーキー永戸大活躍。ルーキーの活躍ほど胸がときめくことはない。しかし今季からJリーグを独占配信することになったDAZNがすこぶる駄目。うちの機械のスペックのせいなのだろうか、パソコンは動きがカクカク、スマホをテレビにキャストすると尋常じゃない画素の荒さ。早くなんとかしてほしい。夜は恋人と「ラ・ラ・ランド」を見る。

 

bronson69.hatenablog.com

 

しかしこのタイトル、カタカナで「ラ・ラ・ランド」だと意味ないんじゃないか。「LA LA LAND」とは、ロサンゼルスのLAであり、英語で「夢見心地」の意のLALALAND(ってパンフに書いてた)なわけで、アルファベットのままのがよかったのではないのか。そこんとこどうなんだ。映画のあとは新宿でお酒飲んでダラダラと。バレエダンサーの身体操作能力のヤバさについて学んだ。すげーなあれ。

 

日曜は芸術劇場で「なむはむだはむ」。子供が考えたお話を、ハイバイの岩井秀人森山未來前野健太が表現する。いやー面白かった。森山未來の身体操作、岩井秀人のアドリブ力と言葉の力、前野健太の歌声と可愛げ。
舞台の作りも面白かった。通常の客席に加え、舞台の奥側にも客席を作ってある。向かい合う客席に挟まれたスペースでお芝居をする。舞台奥側の客席にいたのだけれど、明らかに見たことのない光景が広がっていて、それだけでももうアガった。

去年から演劇を頻繁に見るようになって、演劇とは感想の書きにくいものであるなあ、と感じている。なんて言えばいいのかなあ、僕が演劇をみてグッと来ているとき、何にグッと来ているのかといえば、多くは「新しさ」なのだ。自分の世界には存在しなかったもの、自分の理解の範疇を越えたもの、まだ見たことのない世界が眼前に現れ、そして消えてしまうこと、僕にとっての演劇の面白さとはこれなのだ。なのでよい演劇を見たときの感想はいつも「すげー良かったのだけれど何が良かったのかと訊かれるとうまく言葉にできない」になってしまう。探すと言語化するメソッドがありそうな気もする。でも言語化できない今の状態を割と気に入ってもいるので、まあいいか、とも思っている。なのでたぶん、しばらくこのまま。

 

観劇後、池袋の「千登里」で飲む。肉豆腐、ねぎぬた、青菜とあぶらげ煮びたし、やきとん、もう一度ねぎぬた。しみじみと美味い。隣のテーブルでは久々に顔を合わせたらしいご老体お二人がいまの自民党についてやいのやいのとやっている。あまりにも床屋政談らしい床屋政談で嬉しくなってしまう。いい店だったし、いい夜だった。

 

今週は何をしていたかな。「カルテット」の時間軸うんぬん、の話はただの凡ミスだったとのことで一安心。あんな繊細で豊かなドラマ、叙述トリック見破るような態度で鑑賞するのはもったいないよな、と思っていた。とか言いつつ録画見返したりしたけれど。
7話、「旧姓」「巻き戻った」のシークエンスの後、別荘の二階から顔を出すもたいまさこのシーン、すごく良かった。「巻き戻り」がテーマの話だったけれど、恋が始まって終わることは、恋がなかったことと同じではない。豊かな時間が、経験が、思い出が残る。恋をする前の自分と恋が終わった後の自分は同じではない。あの二階のもたいまさこ、恋をしなければ知り合うことのなかった存在、彼女にはそういうことが託されていた。暖炉で真紀さんが詩集を燃やすシーンもよかったなー。真紀さんがたまに見せる激しさ、背筋が寒くなってとてもよい。夫婦のシーンにおけるクドカンに対する共感性のなさもヤバかった。優しいし愛情もある、でも慮りがない、一方向的な愛情。ちょっとサイコパスっぽさを感じる。クドカンの前の夫を殺してる、とかそういう展開があっても驚かない。
ところでもたいまさこクドカンが出会わなかったことには何か意味があるんだろうか。

 

あとは何だろう。甘味をよく食べた。伊勢丹のマパテでブロンディールのケーキをどさどさと買い込んでみたり、赤坂のデリーモでケーキをわしゃわしゃと買い込んでみたり。ケーキはがっつり甘いのがいいか甘さ控えめがいいかで恋人と争ったりした。僕はがっつり甘い派です。ケーキ食ってんなって感じのケーキが好き。ハーゲンダッツの柔もちはまだ食べていない。もしかしたら食べないかもしれない、くらいの思い入れ。あれは超高級な雪見だいふくってことでいいのかな。雪見だいふく食べたいな。あ、それよりあれだ、美味しい和菓子屋さんの苺大福を食べたいな。

 

仕事の本を買おうと紀伊国屋に行って、ぜんぜん関係ないやつを買い込んで終わる、みたいなやつもやった。
「エスパー麻美」の新装版の装丁が可愛すぎるのが悪い。いやエスパー麻美は悪くない。ビジネス書の装丁が可愛くないのが悪いのだ。表紙だけエスパー麻美で中身はビジネス書、みたいな本があればいい。とにかく久しぶりに読むエスパー麻美は最高だった。高畑くんいいやつすぎ。9巻まで出るらしいので買い集めようと思う。もう立ち消えになったものと諦めていた「大阪ハムレット」の5巻が発売されていたのも最高だった。帰宅して読んで、あまりに良くて1巻から読み直してしまった。以前はナビィちゃんの話が一番好きだったけれど、いまはバレエの先生の話が好きだ。河内音頭にあわせてキトリを踊るエリカちゃんに感涙。ダンスを見ると泣く、みたいな回路が繋がってしまっているのだろうか。まあ何でもいいや、いいものはいいし泣けるものは泣けるのだ。

 

会社からの帰り道、山桜が満開を迎えているのを見つける。夕暮れ時の紫色の光に、萌木色の葉と桃色の花弁が艶めかしく照らされている。そういえばだいぶ日が長くなった。またひとつ季節が巡ろうとしている。冬が終わる。春になる。

 

 

「ラ・ラ・ランド」

「ラ・ラ・ランド」感想文。

土曜の夜。新宿TOHO。IMAX

 

オープニング。LA名物、ハイウェイの大渋滞。イライラする人々。脳裏に「フォーリングダウン」が浮かび、ブチ切れたオッサンが銃を乱射したりはしまいかと心配になる。しかし実際にスクリーンで繰り広げられるのは、ロングショットで映し出される群衆たちのダ・ダ・ダンス。これでもう心臓をぎゅっとつかまれてしまう。
僕は昔からたくさんの人たちが楽しそうに踊っている映像に弱いのだ。恋するフォーチュンクッキーのPVで涙ぐんでしまうくらい。

 

ミア・ストーンとルームメイトたちの華やかなダンス。迸る色彩。天下無敵のガールズ・パワー。心臓を掴む手に力がこもる。僕は昔から女性たちが集まった時に醸し出される無敵感に弱いのだ。20年前からずっとゴーバンズの「無敵のビーナス」を愛聴しているくらい。

 

ラストシーン。あり得たかもしれない並行世界についての美しい夢想。しかしそれは現状の否定を意味しない。
自分が選んだ現実を愛しつつ、選ばなかった可能性に思いを馳せる。もし、もう一度あの選択をやり直せるとしたら?と問われても、彼らは同じ道を選ぶだろう。同じ道を選び、同じほろ苦さを味わうのだろう。
もう心臓はぎゅうっと握りつぶされている。僕はこの手の「選ばれなかった選択肢に想いを馳せ、もう一度やり直せるとしたら?と自問自答し、やっぱりこの選択しか自分にはあり得なかったことを確認する」ようなシーンが本当に本当に大好きなのだ。小沢健二の「流動体について」やケヴィン・スミス監督の映画「チェイシング・エイミー」にも共通する選ばなかった/選び得なかった平行世界についてのモチーフ。

 

そういえば、「ラ・ラ・ランド」と「流動体について」のモチーフかぶりが話題になっている。共時性を見出すことに意味があるとすれば、どちらの平行世界も「自ら能動的に選択した結果、切り捨てた世界」であるという点だと思う。「ラ・ラ・ランド」の元ネタの一つである「シェルブールの雨傘」も「もしあの戦争がなかったら…あなたと結婚していたら…」みたいな平行世界を想起させるお話だった。けれどそれは戦争や世間や家族といった「悲劇的な運命」によって、やむをやまれずそうするしかなかったことの結果だった。そこに漂うムードは「運命に翻弄される悲しみ」だった。「ラ・ラ・ランド」や「流動体について」の平行世界は自ら選びとった結果なので、そこには後悔がない。ほろ苦い味わいはあるが、悲劇的ではない。そこについてはとても現代的なことであるなあ、と思う。

 

あと「君の名は」も同じ共時性で語られることがあるけれど、あれは違うよね。あれは平行世界の話ではなく「BTTF」や「時かけ」みたいな「タイムスリップによる歴史改変」だよね。「君の名は」に新しさがあるとしたら、それは「タイムパラドックスによるしっぺ返しがない」ってとこだと思う。ドラえもんからこちら、歴史改変とタイムパラドックスはセットになっていたと思うのだけれど、「君の名は」にはそれがなかった。やっぱ震災なのかな。震災が悲惨すぎたから、「運命は黙って受け入れるしかないのだ…」みたいな捉え方はできなかった、ってことなのかな。

 

「ラ・ラ・ランド」は僕の好物がてんこ盛りのすごく好きな映画でした。ストーリーにはちょっとご都合主義っぽ過ぎるところもあると思うけれど、そういう粗が気にならないくらい好きなところが好きすぎるタイプの映画。もう一度見たい。ダンスシーンだけ何度も何度も繰り返し見たい。部屋でひとりでサントラ聴きながら踊りたい。あー、映画館でサントラ売切れてたんだよなー。タワレコいったら売ってるかなー。