bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

小沢健二「流動体について」

三寒四温の意味を肌で知るような一週間。

 

今週は毎日泣いていた。別に頭がおかしくなっているわけではない。「流動体について」を毎日聴いているからだ。何度聴いても、そのたびに信じられないような気持ちになる。熱いものがこみ上げてくる。どうしてもこの感動を言葉にしておきたいので、書いてみることにする。少し長くなるけれど。

 

フリッパーズ・ギターは、「この世界にはたった一つだけ本当のことがある、それは『本当のことなんて何一つ無いんだ』ってことだよ」と笑いながら宣言するアンファンテリブルだった。彼らは本当のこと、わかり合うこと、絶対、永遠、真実、皆が信じていたそういう「大きな物語」全てを否定して、最高にカッコよく最高にパンクなやり方でポストモダンを体現してみせた。この世界には根拠なんてない、僕らの人生に意味なんてない。そう宣言して、砂漠のような廃墟の中で戯れ、戯れることで空虚さから逃げ続けた。

 

世界はこんなに空っぽなんだぜ、僕たちの人生は完全に無価値なんだぜ。それは真実ではあるけれど、そんなことを考えながら生き続けていくのは、辛いことだ。生きるに値しない人生。とても素敵ではあるけれど、暇つぶしでしかない人生。それに耐えられる人間はそう多くはない。

(余談だけど小山田圭吾は耐えられる側の人間だと思う。あの人はたぶん何やってても人生楽しいタイプ。ピエール瀧やオードリーの春日と同じ、生きる才能がある人だと思う。)

 

フリッパーズのラストアルバム「ヘッド博士の世界塔」を聴けばすぐ、すべての曲が濃密で甘い死の香りに満ちていることに気が付くだろう。気だるいダンス・ミュージック(というかモロに「スクリーマデリカ」だ)に乗せて歌われる、どん詰まりのやけくその言葉たち。彼らが解散したのは、論理的な必然だったのだと思う。

 

ソロになった小沢健二は、ファーストアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」で「神様を信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬ様に」と歌った。「ねぇ本当はなんか本当があるはず」と歌った。「意味なんてもう何もないなんて僕が飛ばしすぎたジョークさ」と、「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ!」と歌った。あれほど否定した意味を、神様を、本当を求めた。そうしなければ生きていけないからだ。信じるに値するもののない世界では生きていけないからだ。

 

発売された当初、「犬」は「宗教みたいだ」と言われたりした。この表現には揶揄のニュアンスが込められていたけど、それでも間違いとは言い切れない。宗教とは、意味や根拠のない世界に意味や根拠を与える機能を持つものだからだ。「なぜ世界は存在するのか、私は何のために生きているのか?お答えしましょう、それは神様がそう決めたからです。」このQ&Aが宗教の本質である。

 

ただし、小沢健二が求めたのは「神様を信じる強さ」であり、神様そのものではなかった。「犬」は宗教というシステムを介さずに世界を肯定しようとする試みだった。

 

彼が信じようとしたもの、それは例えば金色の穂をつけた枯れゆく草であり、白い雪のように浜辺に散らばるクローバーの花であり、降りそそぐ太陽の光や照らす月明かりであり、ラジオから流れる遠い街の物語であり、愛すべき生まれて育っていくサークルであり、君や僕をつないでる穏やかな止まらないルールであった。

それはつまり、世界そのものだった。世界が存在することの奇跡。世界の美しさ。世界の途方もなさ。その中で人々が暮らし続けてきたということ。そういう「本当のこと」を並べ上げ、自分もその中に連なるひとりなのだという事実を確認し、だから大丈夫だ、人生は生きるに値するのだ、と自分自身に言い聞かせる。「目に映る風景や人々のような美しい存在でありたい、自分もそうなのだと信じたい」と願い、祈る。「犬は吠えるがキャラバンは進む」とはそういうアルバムだった。

 

宗教と同じように、無意味な世界に意味を与える機能を持つものがもうひとつある。そう、恋愛である。

名盤「LIFE」については、もう説明するまでもないだろう。恋愛のもたらす圧倒的な肯定感と高揚感をそのまんまぶつけて何もかもを全肯定するあのアルバムの素晴らしさといったら。

 

でも、恋愛初期の高揚感は永遠には続かない。

恋は醒めるしパーティーは終わる。

 

「LIFE」の後に出されたシングルの中に、「さよならなんて云えないよ」という曲がある。「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる 僕は思う この瞬間は続くと!いつまでも」というフレーズと「本当は分かってる 二度と戻らない美しい日にいると そして静かに心は離れていくと」というフレーズが同居する歌詞は、あまりにも切なくて美しい。

この曲は、後に「美しさ」というタイトルに改題される。さらに後のこと、この曲を含む同時期のシングルを集めたアルバムには、「刹那」というタイトルが冠されることになる。

 

ジャズの音色に乗せ「恋が失われてしまった後でもなお美しい世界」について歌ったアルバム「球体の奏でる音楽」、意味とか本当とかややこしいことを放り出して軽薄にやっていこうぜ、な「buddy」「ダイスを転がせ」なんかを経て、たどり着いた先がシングル「ある光」だ。

 

「強烈な音楽がかかり 生の意味を知るようなとき 誘惑は香水のように 摩天楼の雪を溶かす力のように強く 僕の心は震え 熱情がはねっかえる 神様はいると思った 僕のアーバン・ブルーズへの貢献」

 

「連れてって 街に棲む音 メロディー 連れてって 心の中にある光」

 

「この線路を降りたらすべての時間が魔法みたいに見えるか?いまそんなことばかり考えてる 慰めてしまわずに」

 

彼はNYで何と出会ったのだろう。恋か、ソウルメイトか、音楽か、それとも別の何かか。いずれにせよ、もう一枚のシングルを残して小沢健二は日本から消えた。神様がいると思える時間、すべての時間が魔法みたいに見える生活を求めて。

 

彼はずっと、同じものを追い求めてきたのだ。

本当のものなんて何もない、空っぽの世界の中で、どうしたら「すべての時間が魔法みたいに見えるか」、それが彼が追いかけ続けたことだった。

 

そしてそれは、生きづらさを抱えて生きるすべての文系青年が追い求めていたものと同一だった。ポストモダン的な世界観の中で、世の中をシニカルな目線で見ることしかできず、何も考えずに人生を謳歌している(かのように見える)若者に揶揄と憧れを抱き、恋愛の高揚感ですべてが解決したような気持になってみるけれどいずれ恋は終わり、「終わらない日常」の退屈の中に舞い戻っていく。あの当時にロッキンオンを読んでいた青少年はみんなみんな同じだったのだ、と言い切ってしまおう。だからみんなにとって小沢健二は特別なのだ。フリッパーズのころから小沢健二を見ていた男子は、みんながみんな、「あれは自分だ」と思っていたのだ。

 

改めて言うまでもないけれど、もちろん僕もそのひとりだ。

 

だから、「Eclectic」「毎日の環境学」を経て、2010年に帰ってきた小沢健二を見たときは、本当にうれしかった。ずいぶんと意識高い系になって帰ってきたな、みたいな驚きもあったけれど、「うさぎ!」ってあまりにも素朴なアンチグローバリズムでおいおいそれってどうなの、と思ったりもしたけれど、それ以上に、彼が「すべての時間が魔法みたいに見える」人生を歩んでいることが嬉しかった。あんなに生きづらそうにしていた小沢健二が本当に人生を謳歌している、そのことがうれしくてたまらなかった。

 

そして去年の「魔法的」だ。あれは本当にいいライブだった。結婚し、子供が生まれて、名実ともに「愛すべき生まれて育っていくサークル」「君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則」の一部となった彼は、かつて激しく憧れたあの美しい世界と完全に同化していた。世界の外側から、シニカルだったり憧れたりする目線で世界を見つめていた青年は、世界の内側に入り込み、その一部となっていた。「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない」このフレーズを聴いたときは本当に泣いた。世界との和解を完璧に表現したフレーズ。世界は相変わらず無根拠で、無意味で、底なしの海のような存在である。でもそれはもう怖くはないのだ。だってそういう底の抜けた世界の中で、現に美しい生活を営んでいるのだから。

 

さあ、そして今週のシングルリリース。朝日新聞の広告を見て、Mステに出る姿を見て、そこでやっと気が付いた。

 

今回の小沢健二は、本気で売れようとしている。なぜならば、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」からだ。彼は、この東京を、「『流動体について』がいろんなところで流れている都市」に変えようとしている。それがこの世界をさらに美しくする行為だと確信している。東京が、あのときのNYのような、「すべてのものが魔法みたいに見える」都市であるように、都市を変えようとしている。

 

これは、外側に向けての歌だ。二十年間、自分にとって世界がどう見えるか、そのことばかりを歌い続けてきた小沢健二が、初めて外側に歌を届けようとしているのだ。

 

そのことを思うと、もう、泣けて泣けて仕方ない。

あんなにナイーヴだった、生きづらそうにしていた青年が、大人になっている。自意識の問題を乗り越えて、生活を送り、子を為し、世界にコミットし、責任を果たそうとしている。あの、小沢健二が、だ。

 

こんなに感動的なこと、ほかにあるか?

 

そういうわけで、「流動体について」を聴くと、僕は条件反射のように涙腺が緩んでしまうのだ。

 

長くなったなー。でも吐き出しきった感じがする。

ひとに伝わるかどうか、共感を得られるか、それはまったくわからないけれど。

自分にとって、小沢健二とは、こういう存在なのです。