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bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

「ラ・ラ・ランド」

「ラ・ラ・ランド」感想文。

土曜の夜。新宿TOHO。IMAX

 

オープニング。LA名物、ハイウェイの大渋滞。イライラする人々。脳裏に「フォーリングダウン」が浮かび、ブチ切れたオッサンが銃を乱射したりはしまいかと心配になる。しかし実際にスクリーンで繰り広げられるのは、ロングショットで映し出される群衆たちのダ・ダ・ダンス。これでもう心臓をぎゅっとつかまれてしまう。
僕は昔からたくさんの人たちが楽しそうに踊っている映像に弱いのだ。恋するフォーチュンクッキーのPVで涙ぐんでしまうくらい。

 

ミア・ストーンとルームメイトたちの華やかなダンス。迸る色彩。天下無敵のガールズ・パワー。心臓を掴む手に力がこもる。僕は昔から女性たちが集まった時に醸し出される無敵感に弱いのだ。20年前からずっとゴーバンズの「無敵のビーナス」を愛聴しているくらい。

 

ラストシーン。あり得たかもしれない並行世界についての美しい夢想。しかしそれは現状の否定を意味しない。
自分が選んだ現実を愛しつつ、選ばなかった可能性に思いを馳せる。もし、もう一度あの選択をやり直せるとしたら?と問われても、彼らは同じ道を選ぶだろう。同じ道を選び、同じほろ苦さを味わうのだろう。
もう心臓はぎゅうっと握りつぶされている。僕はこの手の「選ばれなかった選択肢に想いを馳せ、もう一度やり直せるとしたら?と自問自答し、やっぱりこの選択しか自分にはあり得なかったことを確認する」ようなシーンが本当に本当に大好きなのだ。小沢健二の「流動体について」やケヴィン・スミス監督の映画「チェイシング・エイミー」にも共通する選ばなかった/選び得なかった平行世界についてのモチーフ。

 

そういえば、「ラ・ラ・ランド」と「流動体について」のモチーフかぶりが話題になっている。共時性を見出すことに意味があるとすれば、どちらの平行世界も「自ら能動的に選択した結果、切り捨てた世界」であるという点だと思う。「ラ・ラ・ランド」の元ネタの一つである「シェルブールの雨傘」も「もしあの戦争がなかったら…あなたと結婚していたら…」みたいな平行世界を想起させるお話だった。けれどそれは戦争や世間や家族といった「悲劇的な運命」によって、やむをやまれずそうするしかなかったことの結果だった。そこに漂うムードは「運命に翻弄される悲しみ」だった。「ラ・ラ・ランド」や「流動体について」の平行世界は自ら選びとった結果なので、そこには後悔がない。ほろ苦い味わいはあるが、悲劇的ではない。そこについてはとても現代的なことであるなあ、と思う。

 

あと「君の名は」も同じ共時性で語られることがあるけれど、あれは違うよね。あれは平行世界の話ではなく「BTTF」や「時かけ」みたいな「タイムスリップによる歴史改変」だよね。「君の名は」に新しさがあるとしたら、それは「タイムパラドックスによるしっぺ返しがない」ってとこだと思う。ドラえもんからこちら、歴史改変とタイムパラドックスはセットになっていたと思うのだけれど、「君の名は」にはそれがなかった。やっぱ震災なのかな。震災が悲惨すぎたから、「運命は黙って受け入れるしかないのだ…」みたいな捉え方はできなかった、ってことなのかな。

 

「ラ・ラ・ランド」は僕の好物がてんこ盛りのすごく好きな映画でした。ストーリーにはちょっとご都合主義っぽ過ぎるところもあると思うけれど、そういう粗が気にならないくらい好きなところが好きすぎるタイプの映画。もう一度見たい。ダンスシーンだけ何度も何度も繰り返し見たい。部屋でひとりでサントラ聴きながら踊りたい。あー、映画館でサントラ売切れてたんだよなー。タワレコいったら売ってるかなー。