bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

若葉のころ

密集した木造住宅と細く曲がりくねった路地とで名高い我が区だけれど、いま住んでいるあたりの道はやたらとまっすぐ伸びている。引っ越しのときに不動産屋から聞いた話によると、明治のころのこのあたりの村長さんが先見の明があるひとだったそうで、いくつかに別れていた村落をまとめ上げて区画整理はするわ駅は作るわ特産品は作るわ八面六臂の大活躍で、このあたりの道がすーんとまっすぐなのはすべてその人のおかげらしい。我が家の大家さんはその子孫で、そのご自宅はとにかく広く、豪邸というわけではないのだがどことなく威厳のようなものがある。偉かったというその村長さんの偉さが家やら土地やらに染み付いているような気がする。しかし偉さというのは猫や幽霊のように家につくようなものなのだろうか。偉さが憑いた家の中では人はどのように暮らすのだろうか。影響されて尊大になるのか、圧倒されて卑屈になるのか、どちらなんだろう。いつか大家さんに会うことがあったらよーく観察してみようと思う。

 

連休の中日の朝、サンダルを突っかけて家を出る。近所の薬局まで、咳止めを買いに行く。空は晴れわたり、日差しにはほんの少し夏の気配が漂う。まっすぐな道の向こうには、大きな欅がツヤツヤと深緑色を光らせている。休日の朝らしく、駅に向かって色々な人が歩いている。歩くスピードは属性に由来しているように見える。お年寄りはお年寄りの速度で、若者は若者の速度で。ホテホテと歩く自分はその中間の速度帯に属し、若者には追い抜かれ、お年寄りは追い抜くことになる。家族連れは子どもの年齢による。ベビーカーを押す人はゆっくりだし、ひとりでに走り出す年ごろの子どもを持つ両親は駆け足で後を追う。ひときわのんびり歩いていたのは男の子を肩車した父親で、あれは何歳くらいなのだろう、男の子の小さな身体は父親の肩と後頭部にぴったりとはめ込まれている。カンガルーが袋で子育てをするようにニンゲンのオスは後頭部で子育てをするのです、なんて説明をしたら信じる人もいるかもしれないくらいにぴったりとはめ込まれている。肩車の親子を追い抜きながら、その高さに驚く。肩車されている男の子の目線は、身長に換算すればたぶん2メートルの人のそれと同じくらいなのではなかろうか。その高さからは街並みはどのように見えるのだろう。男の子は、いま見えている景色のことを、はたしていつまで覚えていられるのだろう。

 

昨日は友達と飲んでいた。一軒目でたっぷりと飲んだ後、駅前の西友に行き、千円の椅子を買って公園に行った。川沿いに椅子を並べて、街頭に照らされた桜の葉が薄ぼんやりと光るのを眺めながらバドワイザーを飲んだ。満島ひかりや映画の話をし、それから中学生のような下品な冗談で笑った。公園の周りは住宅街なので、迷惑にならぬよう声を潜めて大いに笑った。もう間もなく父親になる、ひと回りも年下の友人に、もう間際だね、なにか変わった?と尋ねると、わかんないすね、生まれてみないとわかんないすよ、と言う。何事もそんなもんなのかもしれんね、とふわふわした返事をし、バドワイザーを飲む。久々に飲むバドワイザーは全身をつらぬく不味さで、これ滅茶苦茶不味くない?と口に出すと、言い出しにくかったんすけど僕もそう思ってました、とくる。しかし他のビールを買いに行くのも面倒くさく、ブチブチと不平を言いながら、我々はそのままバドワイザーを飲み続けた。安い折りたたみの椅子に座り、静まりかえる木々と住宅街を眺め、夜風に吹かれて飲むビールは本当に最高だったけれど、味だけが最高に最低で、それがなんだかおかしくて、声を抑えてゲラゲラと笑った。こんだけ不味いビールが楽しいんだから何があってもまあどってこたないよな、と思ったけれど、なんとなく口には出さなかった。見上げると、満月より少し欠けた月が、欠けた分を補うような明るさで地上を照らしていた。

 

咳止めと頭痛薬を買って家に帰ると、ちょうど彼女も起きたところだった。お茶をいれ、フランボワーズクリームを挟んだソフトフランスがひとつだけあったので、半分に折って分け合って食べた。薬を飲んで仕事に向かう彼女を見送ったらなんとなく横になりたくなって、居間にそのまま寝転がった。このまま眠ってしまうかもしれないな、と思ったけれど、それならそれで別によかった。とにかくいまは連休なのだから、連休に身を委ねてしまえば、あとはもうそれでよいのだった。