bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

徒然

7月の頭は闇夜だった。ようやく梅雨めいた空気が漂いはじめ、粘り気のあるぬるい夜風が身体にまとわりついてくる。空は重たい雲に覆われ、月も星もまるで見えない。いつもならば都市の灯りを反射していつでも薄明るい夜なのに、雲が光を吸収しているのか、墨を流したように暗い。薄汚れた野良の黒猫のような色があたりを包んでいる。自転車を漕ぐのが怖くなるような暗さ。毎年こんなだったかな、と思うが昨年の夜の色のことはまるで覚えていなかった。特筆すべきことがなかったから覚えがないのか、それとも夜の闇が記憶まで黒く塗りつぶしてしまったのか。後者だったら楽しいのにな、と思う。いつもより暗い夜があり、あらゆるものが黒く覆われ、そのまま塗りこめられて消えてしまえばいいと思う。たまにはそういう日があってもいい。たまになら。

 

長い長い繁忙期は6月いっぱいで一段落し、ヘロヘロになりながらラストスパートをどうにか走りきって今がある。少し時間は出来たのだけれど、どうにもやる気が出ない。映画もドラマも本も漫画もお芝居も、どうも気が向かない。漫画を積ん読してるってのは僕には滅多にないことで、すなわちどうやら本格的に気が向かないようなのだ。ここんとこ、文化的な行動といえばYouTubeでダラダラと音楽を聴くことくらいしかしていない。どこから視聴を始めても、関連動画ホッピングを続けた結果、気がつけばゆるふわギャングか椎名林檎tofubeatsか、そのどれかのループに収束してしまう。進化の袋小路を体験している気持ちになる。「火の鳥」の未来編の山之辺マサトもこんな気持ちだったのだろうか。ゆるふわギャングも椎名林檎tofubeatsもかっこいいから何の文句もないんですけどね。

 

カルチャーの摂取をあまりしていないわりに、カルチャーについてモヤモヤと考えることはよくあって、それは「『退屈』はどこへいってしまったのか?」ってことで、こんなふうにモヤモヤを言語化出来たのもつい最近のことなので何かまとまった考えがあるわけではないのだけれど、まあそういうことなのだ。

徒然と書いてみる。退屈、諦念、そういうものが通奏低音として流れていた時代があった。岡崎京子吉本ばななよしもとよしとも、「トレインスポッティング」にピチカート・ファイヴ(というか小西康陽)にフリッパーズ・ギター、雑にまとめて言うてしまえば「渋谷系」とは退屈をテーマにした表現のことだった。夜通しのパーティよりも、パーティが終わったあとの散らかった部屋と倦怠感、それこそが渋谷系の本質だった。退屈で退屈で死にそうで死がほんとすぐ側に感じられて、退屈を紛らわせたくて音楽を聴いて頭をブンブン振り回して、酒を飲んで恋をして、その当時ぼくは北東北のイケてない高校生だったけれど、そういう世界観にバリバリに共感していた。「リバーズ・エッジ」のラストに引用されてるウィリアム・ギブスンの誌、宮台真司が「終わりなき日常」と読んだもの、その感覚は確かにあの世代に広く共有されていたものだった。

気がつけば、街中から「あの匂い」が消えているように思える。あの感覚はどこにいってしまったのだろう。僕が知らないだけで、最近の表現にもあの感覚は残っているのだろうか。それともああいうのは「メンヘラ乙」で括られて処理されてしまうのだろうか。あの感覚がなくなったのだとしたら、それは何故なのだろうか。

飲みながら友達とそういう話をしていたら、インターネットじゃないか、と言われた。あのころ、そういう感覚を持っていたひと、岡崎京子フリッパーズ・ギターを好むようなひとは学年にひとり、せいぜいクラスにひとりしかいなくて、その比率は地方でも東京でも同じで、コミュニティになんかなり得なかったし「同じ感覚で、自分より面白いひと」と知り合うなんて奇跡みたいな感じだったけど、インターネットならすぐ仲間を見つけられるから、だから、みんなハッピーになったんじゃない?と。だとすると、あの諦念も退屈も、ただみんな寂しかったってことなのだろうか。そんなような気もするし、それだけじゃないよなって気もする。よく分からない。よく分からないのは自分の中からも「あの感じ」が消えてしまっているからなのかもしれない。「終わりなき日常」は終わったのだろうか。「終わりなき日常」はそのままだけど、その中で生きていくのに適応したってことなのだろうか。その二つにそもそも差はあるのだろうか。よく分からない。

 

おっさんなので酔っぱらうとW村上(春樹と龍)の話をするのだけれど、ふたりとも「人生は無意味である、無価値で退屈で砂を噛むようなもの、それが人生である」って認識は全く同じで、それを受け入れてやり過ごすのが春樹、忘れるためにハードなセックスや暴力やドラッグにのめりこむのが龍、って区分をいつもしている。なんで人生が無価値なのかというと、まあ簡単に言えば、死ぬからだ。私たちが変わらずにいられないから、つまり、飽きるし、忘れるし、老いるし、死ぬからだ。先月見たFUKAIプロデュース羽衣の「愛死に」のテーマもまんまこれだった。あと余談だけど大島弓子の後期、単行本でいうと「ロストハウス」はこの恐怖に満ちている。ああ、このころの大島先生は自分が老いるってことにはじめて直面していたんだな、怖かったんだな、と思わせる内容。

 

何を言いたいのかよくわからなくなってきた。もともと何を言いたいのかわからないまま書き出しているので当たり前のことなのだけれど。よくわからないので、最近お気に入りのフレーズを書いて終わることにする。

 

恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。

恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを。

 

これはFUKAIプロデュース羽衣の「サロメvsヨカナーン」って曲の一節。もともとはオスカー・ワイルドの「サロメ」って戯曲の台詞。YouTubeでこればっか延々と聴き続けていた日があって、それからずっと、隙あらばこのフレーズを口ずさんでいる。時代の空気はよくわからないけれど、気がつけばずっと、死ではなく恋のことを考えている。恋だけを想うてをればよいのだ。恋だけを想っていれば大丈夫。愛があれば大丈夫。広瀬香美の言うとおり。