bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

晩夏か初秋か

八月が終わり、九月になった。今の時期をなんと表現すればいいのか、よくわからない。昼間の太陽や夜の湿度にはまだ夏を感じ、日陰の空気や酔った頬に当たる夜風に秋の気配を感じる。セミの声と虫の声をステレオで聞いている。まだ夏だね、ともう秋だね、をその場の気分で使い分ける、その適当さはけっこう好きなのだけれど、でもなんだか釈然としない気持ちにもなる。

 

どうせならこの曖昧な季節をきっちりと味わおう、ということで近所の寿司屋に行った。季節のものがしっかり揃えてあって、飲んでつまんで切ってもらって握ってもらってをフルコースで楽しんでも5000円で済んでしまう、そんな素敵な店である。大都会のはずれ、都会の喧騒から少し離れた住宅街にひっそりと店を構える、そんな寿司屋だ。僕はこの店が大好きで、粋で贅沢な心持ちになりたくなったらここに行くことにしているのだ。

 

九時すぎに暖簾をくぐると、客は自分たちだけだった。遅い時間の訪問を詫ながら、やや早いペースで瓶ビールを飲む。ツマミは白子だそうだ。フグの白子を焼いたやつかな、と思っていたら、まさかの真鱈だった。やや赤味をおびた、ナマの白子。冬に食べるものと違って、ドロッとした濃厚さがなく、思いのほかあっさりとしている。ビールをやっつけ、日本酒に切り替える。そのままお刺身。新子、カラツブガイ、石鯛、新烏賊。石鯛の上品さと旨味の強さ、スダチを絞ったカラツブガイの磯の香りの鮮烈さがヤバかった。そのまま握りへ。秋刀魚と雲丹が特にイカれてた。新モノのはずの秋刀魚の発育の良さといったら、しばらくぶりに会う親戚の子どもくらいのものがあった。雲丹は割愛。アレは麻薬。

 

店を出て、蕩けた夜の空気の中を泳ぐように街を彷徨う。線香花火がやりたくていくつかのコンビニをまわり、けれど花火はどこにもなく、代わりにたくさんのプリンを手に入れる。求めてるモノは手に入らず、求めていなかったモノばかり手に入り、手に入れてみるともともと何を求めていたかなんて気にならなくなったりする、人生なんてそんなもんだよね、なんてわかったようなことを言ってみるけれどもちろん何もわかってはいない。ただそれっぽいことを言ってみたまでである。それでもなんとなくそんなような気分になったりするので、言葉の力というやつは侮れない。結果として、たくさんのプリンはやや象徴性を帯びた存在になった。何らかのメタファーとしてのプリン。何だそりゃ。知らんわ。

 

帰宅して、プリンはやはりプリンでしかないことを確認する。水を飲み、美味しさの記憶を反芻する。いまの季節をどう表現するべきか、正しい答えはわからないけれど、秋刀魚と雲丹とカラツブガイが美味しい季節、ということで暫定的に正解としておきたい、そんなふうに思った。

 

気怠い夜風を浴びて眠る。

九月の頭はこんな感じ。