bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

ホットカーペット、時差

いつのまにか眠ってしまったようで、月曜の朝はホットカーペットの上で迎えた。カーペットに接している半身は熱を孕んでカラカラに乾いている。反対側は冷え切って固まっている。どうやら何もかけずに寝ていたらしい。半身は熱を持ちもう半身は冷え固まっている。要するにダイの大冒険フレイザードの状態だ。フレイザードのままでは会社に行けないので、まずはコップに水を汲んで飲み、それから熱めの風呂に入る。うちの風呂は狭く、僕の身体は大きいので、全身を水面下に沈める、ということができない。肩を入れれば膝が出るし、膝をつければ首が出る。智に働けば角が立つし、情に棹させば流される。無理やり浸かれば窮屈だ。とかくウチの風呂は住みにくい。それでもしばらく浸かっていると温まった血が全身を巡りだし、どうにかこうにか再起動に成功する。冷えていたほうの指をコキコキと曲げて伸ばし、そのように動かしてもフィンガー・フレア・ボムズが発動しないことを確認する。発動しなくてよかった。あれは禁呪だ。僕のような一般人が使ったら確実に寿命が縮む。ここんとこは人生が楽しいから、なるべくなら死にたくはないのだ。

 

仕事のあと紀伊国屋で本を買う。Hanakoの台湾特集と東京のレストラン特集。ここ最近はHanakoがナンバーワン好き好き雑誌である。デザインも好みだし、特集の中身も好きだ。毎号買ってるわけではないのだけれど、デザインも中身もなんだか好きなのだ。情報量は多いけれど軽やかなところがよい。押し付けがましさがないから平気で読み飛ばせるところがいい。台湾はここ何年か憧れ続けている。そんなに憧れてるならさっさと行けばいいのに、と自分でも思うのだけれど、どうにも腰が重い性分なのだ。パスポート申請のための書類をそろえるより、ホットカーペットに寝ころんで漫画を読んでるほうを選んでしまう。そんな人間なのでHanakoに加えて漫画も買った。卯月妙子の「人間仮免中つづき」と岩本ナオの「金の国水の国」。帰宅してホットカーペットに寝ころんで、前者から読んで、そのまま泣き崩れてしまう。本編もさることながら、オマケがキツかった。卯月さん、宮古の方なのか。自分は内陸の出身なので、家族や友人はあらかた無事だったのだけれど、それですらあのときは本当に辛かった。卯月さんの苦しみはいかばかりかと思う。震災のときのことは、思い出すと今でも辛くなってしまうのだけれど、でも同時に、直接の被害者でもない自分にはこんな気持ちになる権利はないのではないか、とも思ってしまうので、結果的に感情がうまく処理できなくなってしまう。

 

何とも言えない気持ちでスマホを弄っていると、海の向こうの彼女からメールが届く。いま起きた、ようやく月曜日がはじまるよ、いままでずーっと日曜日だったんだよ、信じられる、時差ってなんかものすごいね、起きてすぐ君はなにをしてるのかなって思ったよ、ねえいま何をしているの?僕はポチポチとメールを打つ。震災のときのことを漫画で読んで感情がぐしゃぐしゃになってて、だからいまメールが来たらいいのになあ、と思ってたとこだよ、助かった、ありがとう、しかしすごいタイミングだったね、ちょうどいいときにメールが届くよう時差がタイミングを調節してくれたのかな、時差もなかなか気が利くね、さすが西海岸の時差だね、洒落たことをするね。送信ボタンを押す。このメールも時差に乗って彼女に届くだろうか。慣れない海外で心細くなってくる、すこし寂しくなってくる、そういう頃合いをひ見計らって届けてくれればいいと思う。時差はこころ得てるやつだから、そのくらいはやってくれるんじゃないかと思う。こちらはそろそろ眠るので、あとはよろしく頼むよ、時差。

よく晴れた東松戸のホームにて

いま東松戸にいる。駅のホームで寒風に吹きさらされている。頭上には雲ひとつない青空が広がり、冬の太陽が短い昼間に全力を注いでいる。日差しが当たる頭と背中は暑いくらいで、それ以外の部分はキンキンに冷えている。一部分だけアツアツで、それ以外はキンキンで、ホームに並んでる自販機たちにシンパシーを感じている。

 

東松戸にいるのだけれど、別に東松戸に用があるわけではなく、成田から外国へ出張に行く恋人のお見送りに来ているのである。東松戸で待ち合わせて成田空港行きのアクセス特急に乗る手はずになっている、のだけれど、肝心の恋人はいろいろあって遅延が生じているらしく、仕方ないのでひとりホームで乗るはずだった特急列車を見送っているのだった。

 

キンキンでアツアツの状態でペットボトルのお茶を手にホームに立ち何本も電車を見送っていると、本格的に自動販売機の気持ちになってくる。東松戸駅改札内ダーマ神殿があったら自販機(冷温兼用)に転職できる気がする。僕が自販機になっていたら、遅れてきた恋人はどう思うだろうか。温かい飲み物と冷たい飲み物、どちらのボタンを押すだろうか。僕は待たされた腹いせに温かいいろはすみかんをガコンと落とす。怒ってるの…?と彼女は言うだろう。これからしばらく外国に行くのに、そんな揉め方はしたくない。和解のしるしに彼女の好きな温かいお汁粉の缶でも落としてみよう。彼女はそれを握りしめて成田へ向かう電車に乗り込む。自販機の僕はホームからそれを見送る。お汁粉の缶は冷え性の彼女の手を柔らかく温めるだろうか。しばし遠くへ向かう彼女のために、ありったけの思いをこめてあっためた、とっておきのお汁粉。帰ってくるまで冷めないように、彼女の手が冷たくならないように。手をつなげる距離に帰ってくるまで、僕のかわりに指先を温めてくれるように。

 

いってらっしゃい、気をつけて。

無事の帰りを待ってるからね。

ぼんやりとした一日のこと

ぼんやりとしている。ぼんやりとしながら毎日を過ごしている。なにしろ気候がいい。世間的には冬、寒い、でも個人的には最高の適温。歩いても歩いても暑くならない。熱いものを食べても暑くならない。最高最高最&高。コーヒーカップでランデヴーとおんなじくらい最高だ。最高なので遅い時間に中華料理食べてあんまり美味しくなくってどうしても口直しに甘いものが食べたくなったらちょっと遠くのロイホまでテクテク歩くなんてこともできてしまう。できてしまうことはやってしまうに決まってるわけで、だから僕らはスピッツの「ナナへの気持ち」を鼻歌しながら深夜の明治通りを歩いている。霧雨と小雨の中間くらいの、スコットランド人なら傘をささないくらいの雨が降っている。彼女はビニール傘をひろげて、僕の身長にあわせるように、傘を持つ手を高く伸ばす。いいよいいよ、手が疲れちゃうよ。そう言ってぼくはわざと傘の外に出る。彼女との身体距離が少し離れる。ほんの一歩離れただけなのに、なんだか少し寂しいな、と思っていると、彼女は傘をたたんで、一歩の距離を詰めてくる。傘をさすほどの雨じゃないね、これくらいの雨、生粋のイギリス紳士ならきっとレインコートだけで済ますよね。それで僕らは明治通りをそのまま濡れて歩いた。寂しくないくらいの身体距離を保ちながらロイホまで濡れて歩き、平日の深夜のガラガラのロイホラ・フランスのパフェとヨーグルトサンデーを食べ、日付が変わるまで取り留めもない話をした。寝て起きたら忘れてしまうような、楽しさだけが残るような、そんな話。たっぷり話しこんで、追加で頼んだシロップたっぷりのパンケーキも平らげて、眠くなってきたころ店を出た。明日も朝から仕事かー、行きたくないなー、みたいなありがちな話をしながら、ホテホテと歩いて家に帰った。朝まで眠って、翌朝は少しだけ遅れて会社に向かった。そんなだから、その日もやっぱりぼんやりとして一日を過ごした。

 

ぼんやりとしたある日のこと。

最&高な一日のこと。

ここ最近はこんな感じ

徒然と。

 

この世界の片隅に」がよかったので原作漫画を再読。いつものようにだーだーと泣く。そのあと「長い道」を再読してやっぱり泣く。こうのさんの漫画ではこの二作がいちばん好きだ。ここで書かれているのは「生活」である。「この世界の片隅に」は戦争漫画ではないし、「長い道」は恋愛漫画ではない。描かれているのはエゲツないまでに強い「生活」である。戦争よりも恋よりも生活は強い。誰かと空間を共有すること。食べて、寝て、言葉を交わすこと。そういう生活のことを「愛」と呼ぶのだと思う。

 

ロロのいつ高シリーズ「すれ違う、渡り廊下の距離って」を劇場で見る。椅子が低くてお尻が痛くなってしまい集中できなかった。後列のパイプイスに座るべきだった。悔やまれる。とにかく白子ちゃんが可愛かった。小林聡美が出てるほうの「転校生」って、当時16歳の小林聡美のおっぱいがモロに出てるのだけれど、あれって児童ポルノには当たらないのだろうか。グレーゾーンだからレンタルDVDが少ないのでは、なんて勝手に思ってる。お芝居のあとは中華街でお粥と点心を食べた。二人でシェアしてちょうどいいくらいのサイズの粥をひとりで食べた。粥で満腹ってのはあまり経験がないことだ。まるで「芋粥」じゃないか。食べ終えて散策しようと思ったけれど、食前からの頭痛がエゲツないことになってきて何これもうだめ歩けない、みたくなっていたら目の前に鍼灸治療院が表れたので思し召しとばかりに吸い込まれてみる。肩と首がガチガチに固まっている、と言われ、鍼治療。心地よすぎて寝てしまう。顔にもバシバシ刺されてたらしいのだけれど気づかず熟睡。睡眠のおかげか鍼のおかげか頭痛は嘘のように治まった。通いたいくらいだ、でも中華街かー、遠いなー。

 

そういえば横浜にはこのあいだも行ったばかりなのだった。仕事で横浜に行く、一時間で終わるからそのあとご飯食べよう、と彼女がいうのでホイホイとついていった。みなとみらいの駅を出て、彼女は展示場に行き、僕は展示場の隣の海辺の公園に行った。ちょうど日暮れの時間帯で、光の移り変わりを存分に堪能することができた。
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こんな感じ。海辺なので風が強くて、階段に腰掛けてじっとしていると身体の熱がどんどん奪われていくのがわかった。コートのポケットに手を入れ、身体をぎゅっと硬くして、目を閉じる。サーモグラフィのように、身体の内側の熱を赤く感じる。消化器官に沿うように赤が広がっているのがわかる。寒さは身体感覚を鋭敏にする。冬の寒さは浮き彫りにするし、夏の暑さは誤魔化してしまう。浮き彫りにするのは好きだけれど、誤魔化さないと生きていけないので、そう考えると季節の移り変わりというのはありがたいものだと思う。身体も冷え切り、すっかり真っ暗になったころ、仕事終わりの彼女と合流し、近くのビルで豚骨ラーメンを食べ、それから帰った。

 

勤労感謝の日の前日、仲良しの友達と飲みに出かけた。ワインバーで下衆な話をし、花園神社の酉の市でコップ一杯1000円の安酒(お祭り価格にしてもボリ過ぎだと思う)をかっ喰らい、日高屋で恋バナに花を咲かせた。日高屋のギョーザの旨さに目覚めた。6個で210円という価格にもビビった。これが6個で210円…?それってタダってことじゃん…?などの謎のセリフも登場した。酔っぱらうと300円以下はタダと同じに見えてしまう。もちろん富豪なわけではなく、ただ単に数が数えられなくなっているだけである。だから「100円が積み重なると1000円になる」って当たり前のことが理解できず、お会計のときに???ってなる。どちて坊やみたいになる。ちなみにどちて坊やとはこいつのことです。


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逃げ恥を毎週楽しみに見ている。星野源を好きになりたくない、と思いながら見ている。昔は星野源を嫌いだった。原則として嫌いだけどまあ何曲か好きな歌もあるよね、歌に罪はないよね、みたいなのがここ何年か。いまは「俺は津崎さんが好きなのであって星野源が好きなのではない」の状態。ところで石田ゆり子が可愛いのは今さらなのですが、石田ひかりっていま何をしてるんでしょうね。石田ゆり子の分まで老いてたりして。黒魔法チックに。

 

他にも回らない寿司屋をハシゴした話とかケーキの旨さに開眼してヤバいって話とか「青春ゾンビ」オススメの「木陰くんは魔女」と彼女オススメの「乱と灰色の世界」がどっちも傑作でどっちも魔女モノで魔女マンガって傑作率高いのか?みたいになった話とかいろいろあるのだけれど、長くなったのでそれはまたの機会に。

 

それではおやすみなさい。

つつがなく、よい夢を。

 

湖畔にて

今月の頭、山中湖へ行った。

 

家の近所で車を借りる。車は青いコンパクトカー。運転手は友達、助手席には友達の彼女。僕と僕の彼女は後部座席。酸っぱい飴を舐めながら、ぎゅっとコンパクトに座る。中央道を富士吉田インターで降りて、吉田うどん。

 

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ほぼ弾力のない、ゴワゴワしたうどん。讃岐うどんとは違う、すいとんをそのまま麺の形にしたような、ダイレクトに粉を感じる麺。つるつる、ではなく、ガシガシと食べるうどん。全然美味しそうに聴こえないと思うけれど、これが美味しいのだ。上に乗ってるキャベツと馬肉もまた良い。富士吉田市は馬肉を食べる文化圏なのだ。じゃあ馬肉食おうぜ、というわけで精肉店へ馬肉を買いに行く。

 

大西肉店 本店

食べログ 大西肉店 本店

 

国産の赤身をどっさり、それから中トロを焼肉用に切ってもらう。ついでに牛も適当に。そんでスーパー寄って、野菜や炭やなんやら買って、山中湖畔のコテージへ。

 

 
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湖からの眺めはだいたいこんな感じ。富士山は良い、やっぱデカいものはいい。ドカンと問答無用な感じがいい。富士山に問答を仕掛けてはいけない。何を問うても質量の塊で押しつぶされる。理屈より先に存在がある。存在はいい、ほんとにいい、存在するだけで存在は最高。

 

コテージの前でお定まりのムーブ。火をおこす。肉を焼く。道の駅で買ったフルーツを食べる。燻製を作る。酒を飲む。彼女の燻製の技術が音を立てて上達していって面白かった。技術の向上するさまは見ているだけでもワクワクするし、おまけに燻製は美味しいので、つまり最高だった。煮卵と明太子、それと梅干しが特によかった。チーズはスモークチーズだった。スモークチーズをスモークしたらどうなるんだろうね?と彼女に言ったら、知りたければいますぐスモークチーズをわたしのところに持ってきなさい、三十分で結果を見せてあげる、となんだか神のような答えが返ってきた。技術はすべて神の御業であり、技術を高めるとひとは簡単に神になる。

 

22時をすぎる頃には相当に寒くなっていた。標高1000メートルの本気を感じた。焚き火をしても身体の前面しか暖かくならない。ホットウイスキーを飲んでも身体の内側しか暖かくならない。身体の後ろ側が、つまりは尻が寒い。尻から寒さが広がっていく。ヘタレた僕らはコテージの中に避難した。ガスファンヒーターをつけ、布団に潜り込む。目を閉じるつもりはなかったけれど、それは時間の問題だった。

 

目が冷めたのは深夜三時のことだった。彼女も友達も友達の彼女もみんな暖かな部屋で眠っていた。トイレにいき、ふと思いたってそのままドアを開け、外に出た。キンと張りつめた冷気が頬を刺す。フリース一枚ではやはり寒い。けれど寒いのは嫌いじゃない。このキャンプ場には外灯がほとんどなくて、だから外はほんとうに真っ暗で、見上げると樹々の隙間から星空が見える。もっと広い星空が見たくて広場のほうに歩いていく。木の葉を踏む感触が心地よい。そのまましばらく歩いていくと、湖畔に出た。湖畔から湖の真ん中に向かって、長い桟橋が伸びている。揺れる桟橋を歩いて先端までいく。深夜の湖には動くものは何もなく、湖畔の建物から漏れる灯りと星空が山々をほのかに照らし、深いネイビーの夜空に黒黒とした富士山が浮かんでいる。揺れる桟橋に立ったまま、顔をぐいっと上げて夜空を見る。湖を渡る風が強く吹き付ける。寒さが全身の輪郭を規定する。星空が僕の大きさを縮減する。ずうっと上を見ているせいで平衡感覚が失われ、桟橋が揺れているのか自分が揺れているのかわからなくなる。怖くなって視線を下ろす。空よりも黒い湖面が見える。桟橋はまだ揺れている。

そのままそうやってそこにいて、動き出せたのは東の空が少し明るくなってきたころのことだった。

 

翌日は温泉に入り、お土産用に昨日のお肉屋さんで馬刺しを買って、それから洞窟を二軒ハシゴし、日も暮れた頃に牧場へいった。暗い牧場で馬や羊を愛で、ソフトクリームを食べ、それからチーズケーキを買った。

 

帰りは物凄い渋滞だった。あまりにも長い渋滞だったので、周囲の車と顔馴染み(一方的な)になってしまい、悪態をついたり応援したりしていた。山形ナンバーのわナンバーの小型車の、初心者マークの女の子二人連れのことをみんなで応援していた。彼女たちは無事に帰れたかな。返却時間に間に合ったかな。

 

家にたどり着いたときにはすっかり疲弊していてとにかく足を延ばして横になってそのまま眠った。あれからそこそこ経ったけれど、そのときに使ったイスやテーブルやグリルやなんかはまだそのまま仕舞わずに転がしてある。ただなんとなく面倒くさくてそのままにしている。馬刺しやチーズケーキは美味しく食べたけれど、道の駅で買ったハムとベーコンが手付かずのまま残っている。そろそろ賞味期限になる。

 

 

 

この世界の片隅に

ひと晩たっても全然まとまらない。まとまらないけれど、まとまらないまま、そのまんまを書いてしまおう。

 

もう終わりにしてしまおうか、そう思う夜は何度もあった。ネクタイを手に部屋の中を見回し、どこだったら自分の身体の重さを支えられるかぼんやり考えたり、ベランダの手摺りに頬づえをついて、下に見えるアスファルトをじーっと眺めたり、そんなふうな夜は何度もあった。死のう、なんて積極的なものではなくて、このまま居なくなってしまえたらいいのに、消えてしまえたらいいのに、そういう消極的な、願い事のような思いを抱えて、何もできずに夜を過ごして、いつもと変わらぬ朝を迎える。

 

いつも思うのは、人間は簡単に死んでしまうのだな、ということだ。ホームで電車を待っているとき、高いところから下を見ているとき、いつも、いまほんの少し脚を前に出せば死んでしまうのだな、と思う。死にたいわけではないけれど、ふとした気の迷い、好奇心、風の訪れ、そういったことの何かで脚を踏み出してしまうことがあっても何ら不思議はないよな、と思う。生きるか死ぬかは一歩分の差でしかないし、何の気無しの気まぐれひとつの差でしかない。

 

いま自分がこうして生きているのは過去の自分がたまたま死ななかったからで、死んでしまっていたかもしれない瞬間、死に得た瞬間は無数にあって、そうするといまの自分は余生を生きているようなものだな、と思う。窓の下を覗いたあのとき、生と死とは完全なフィフティ・フィフティで、どちらに転んでもまったく不思議はなくて、ネットに弾んだボールがたまたま生の側に転げていまがある。人生の中には無数の窓があり、窓のひとつひとつにフィフティ・フィフティの可能性があり、たまたますべての窓で生の側のフィフティだった結果、本当に偶然にいまの自分がいる。選択のたびにルートが分岐するとすれば、それこそ無限の分岐のなか、生につながるルートはたった一本しかない。いま自分がそのたった一本のルートの上に存在している、そのことのあり得なさを思うとくらくらする。

 

死は、不意に、ランダムに、平等に訪れる。病でも、事故でも、自死でも、同じことなのだと思う。本人の意志とは違う、遠い何処かからの訪れであること、偶然の神の手によってもたらされるものであることに変わりはなく、死は端的な現象で、だから死そのものは静かに受け入れるべきことなのだと思う、生に対するそれと同じように。

 

偶然に亡くなられたひとのニュースを聴いた日の夜、偶然に生き延びたすずさんの映画を見た。確かに人生を営んでいる無数の人たちのことを思った。夜景を見渡し、見える明かりのひとつひとつの向こう側にあるだろう無数の暮らしのことを思った。食事をするひと、本を読むひと、絵を描くひと、眠っているひと、二度と目覚めぬ眠りについているひと。すべてが暮らしで、営みで、人生で、そのすべてを愛おしく思った。いつか自分のボールがあちら側に弾むまで、いつか終わりが訪れるまで、窓の向こうを覗きこみながら、生きていこうと思った。あの愛おしい無数の明かりの中で、自分も明かりのひとつとして暮らしていること、その嘘みたいな事実を抱えて、可愛い人生を生きていこうと思った。

 

ひとはそれだけで可愛いのだ。人生はすべてがチャーミングで、可愛くて、最高なのだ。生も死もひっくるめてすべてが人生だから、生も死もすべては可愛くて、ラブリーで、愛おしくて、最高なのだ。悲しくて寂しくてたまらない、もっと文章や声や笑顔を見ていたかった、それは本当にそうで、その通りで、悲しくて悲しくてとてもやり切れない、そんな気持ちになるけれど、それでもやっぱり、その人生は本当にチャーミングだったと、最高だったと言いたい、ありがとうと言いたい、お疲れ様でしたと言いたい、すべてのひとのボールはいつかあなたと同じ側に弾むから、あなたのボールは周りのひとよりほんの少し早くそちらに転げてしまったけれど、そんなことはたいしたことではないから、何も気にすることはないから、だからもうどうか安らかに、何も考えず、美しいものや可愛いものだけを見つめて、安らかにあってください。

 

夢になるといけねぇ

月曜日。

月がとても大きく見えるはずだった日。

 

早々に会社を抜け出し、雨のそぼ降る国立劇場へ。橘蓮二さんという写真家の方の出版記念の会。といってもパーティのようなものではなく、チケットを販売する普通の落語会。出演者の方々と演目はこんな感じ。

 


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一花さん、前座さんなのに(前座さんにしては、ではないですよ)面白かった!正直、落語会の開口一番を務められる前座さんって、やはりこれからの方なので、面白いとは言い難いことが多いのだけれど、一花さんは素直に面白かったです。可愛らしい女性、なのだけれど、ご隠居さんがやけに似合っていた。一朝師匠のお弟子さんとのこと、一朝師匠の育成能力ってなんか凄いですね、何がポイントなんだろう。気になる。

 

松之丞さん、お噂はかねがね、でも眼にしたのは今回がお初。噂通り面白かった。強弱をつけた自虐ネタにゲラゲラ笑わされました。後半、噺に入ってからもとても楽しかったので、侍や忍者の出てくる本格的な講談話も聴いてみたい。軽薄な伝統芸に圧迫されたい。

 

三三師匠、相変わらず綺麗。所作が丁寧で美しく、ほんの少し首を動かすだけの仕草に惹きつけられる。けして美男子ではないと思うのだけれど、やはり色気というのは所作なのだよな。ただしイケメンに限る、なんてことは絶対にないのだ。イケメンとは顔ではないよ、所作だよ所作。

 

遠峰あこさん、この方はまったくのお初。アコーディオンを引きながらの民謡、なんとなくソウル・フラワー・ユニオン、というかヒデ坊を彷彿とさせるものがあった。要するに楽しくって最高ということです。野毛の飲み屋で流しやってます、と仰ってたけど、ヘベレケのときに聴いたらたまらんでしょうね。安い冷酒飲みながら秋田音頭を聴きたいものです。

 

志の輔師匠、本日も凄かった。客席の気を自在に操る。声の大小、緩急、トーン、息づかい、仕草、表情、そのひとつひとつがメロディで、リズムで、そのリズムに乗せられてるうち、気がつくと呼吸を支配されてる。息を詰めて囁くような声に耳をそばだてる、からの急なボケ、揺れるような爆笑。なんて完璧な緊張と緩和。あー、面白かった。

 

落語初体験の彼女が落語を気にいってくれたのもとっても嬉しかった。笑ってる顔が見たくて、噺の最中、何度かちらりと横を向いた。集中を遮らぬように、気づかれないよう、ちらりとだけ。大きな眼をきらきらさせて、頬を紅くして、本当に楽しそうに笑ってて、なんというか、眼福だった。

 

それから飲み屋を二軒はしごして帰路についた。深夜になっても雨は止まなかった。68年ぶりの満月は見られなかったけれど、良いものをたくさん見れた。いい一日だった。