bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

銀河鉄道999

さみいようさみいよう。部屋ん中にいてもつま先がしんしんして凍えそうだよう。それでも暑いよりゃずーっとずーっといいけど、つま先なんか毛布のなかに突っこんでじーっとしてりゃいいからいいんだけど、でもあれだな、風呂上がりに下着姿でぼやーっとしてっとすぐに体が冷えて冷えてどうにもならなくなっちまうのはほんと困ったもんだな。風呂上がりにぼやーっとしてんの気持ちいいんだよな。もうさ、一日中ぼやーっとしてたいよな。暑くても寒くても関係なくぼやーっとしてられる丈夫な身体がほしいよ。鈍くて頑丈でなまくらな身体。寝てるあいだに毛布はだけてお腹出ちゃっても平気な身体。おいそれとはお腹くださない、風邪もひかない、夜に歩いても寒くないしコート着て電車乗っても汗ばまない、便利で快適な身体。どしたらそういう身体になれるんだろ。メーテルといっしょに999に乗ればいいのかな。それとも波紋の呼吸でも身につければいいのか。でもあれだな、便利な身体もいいけれど、願いを叶えてくれるなら、それより広い家がいいな。今より広くて、部屋数の多い家。ベッドルームにはいまより大きなベッドを置いて、本や洋服は書斎という名の荷物置き場に格納して、リビングにはコタツを置こう。コタツは少し脚が長めの、横向きに寝転がれるやつがいい。たぶんベッドルームでは寝なくなる。せっかく片付けた書斎からお気に入りの漫画や本を引っ張り出してコタツの周りに積み上げて、機能的なコックピットのような要塞のような空間を作り出す。毎日飽きもせずコタツの周りでテレビのリモコンを探す。そういうことがやりたい。やりたいんだよメーテル。指が寒いよメーテル。親指が寒くてフリック入力が辛いよ。眠いよメーテル。おやすみメーテル

しばらく前の日曜日

日記なのに間が空いた。

 

昼過ぎに家を出て、明治神宮に向かう。そろそろ地元より東京住まいのほうが長くなるけれど、明治神宮には行ったことがなかった。明治神宮前駅より原宿駅のほうが明治神宮に近いことも知らなかった。参道の鳥居のデカさと森の深さにテンションが上がる。七五三の子どもたちがたくさん歩いている。自分の七五三のことは全く覚えていない。ただ、実家の古いアルバムには、羽織を着て志村けんの真似をしている5歳の自分の写真が残っていて、だから七五三はやったのだと思う。普段着ない綺麗な服を着て、じっとしていることを要求され、すぐに飽き、あのころ世界で一番面白い存在だと信じていた志村の真似をしていたのだろうと思う。あのころの僕の世界は志村サイズだった。志村より面白い概念が存在するとは思いもしなかった。志村が凄すぎて、大きくなったら志村になりたい、とすら思えなかった。当時の僕の夢のひとつは、ドリフの新メンバーとして志村の横に立つことだった。あとビックリマンチョコの工場で働く人になりたかった。または遊び人になって働かずに暮らしたかった。今の僕は、志村の横でもビックリマンチョコの工場でもない場所で働いている。どの夢も叶うことなく今がある。

 

明治神宮は広い。七五三の親子、花婿さんと花嫁さんの行列、外国からのお客さん、何をするでもない我々、それから神様。様々な人々が神様の懐の内でうろうろとしている。全国の酒蔵が奉納した酒樽がずらりとならんだ一角があった。松竹梅、富久娘、開運といった縁起のよさそうな酒樽に並んで、「鬼ころし」の真っ赤な酒樽が三つ並んでいた。あの樽ひとつで紙パックいくつ分だろうか。やはり酒樽にもあのストローが付属しているのだろうか。酒樽からストローで吸う酒はどんな味がするのだろうか。

 

明治神宮を出て、青山のファーマーズマーケットに向かう。屋台で何か食べようとするけれど、美味しそうなものには大行列が出来ている。会場の端っこで青森県のフェアをやっていて、売店では十和田バラ焼きを販売している。甘辛いタレの香りが食欲をそそる。ひとつ買い求め、おにぎりかなにか主食になるものはありませんか、と尋ねると、あちらの列にお並びいただいて簡単なゲームにご参加いただいた方に青森県産の新米のおにぎりを無料で差し上げております、と返ってきた。ふうむ、と「簡単なゲーム」の様子を観察する。4組の二人連れが舞台に並んでいる。二人連れの片方は舞台に開いた穴から顔を出し、こちらからは見えない体の部分をなにやら必死に動かしている。もう一人はその顔の前に立って大声で応援をしている。しばらくそうこうしていると何らかの基準によって勝敗が決したようで、顔ハメをしていた側がぞろぞろと舞台に出てくる。二人連れは無言で袖に消えていく。捌けながらおにぎりをもらう彼らの顔は、一様に敗者のそれだ。そこに勝者はいなかった。我々はおにぎりを諦め、甘辛く脂っこいバラ焼きを単体で食べた。美味しいけれど、単体で食べるには辛い味だった。心底おにぎりが欲しかった。けどあのゲームだけは絶対にやりたくなかった。まさかこんなところでこんなに強くてしょうもない葛藤に襲われるなんて。そんなこと思ってもみなかった。

 

そこから上野に飛んで、純喫茶に入った。僕はクリームソーダを注文した。彼女もクリームソーダを注文した。さほど広くないテーブルには、フォトジェニックなクリームソーダが二つ並んだ。


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何時間その店にいたのだろう。彼女は仕事をし、キーボードを叩いた。僕はクリームソーダを飲み、なくなると置いてあるスポーツ新聞を読んだ。興味のない競馬や競輪のページまで、全紙きっちり読んだ。読むものがなくなり、広島カープについて書かれた記事を改めて読んでいると、彼女がパソコンを閉じた。もういい、もう限界だ、ご飯だ、ご飯を食べよう。そして我々は閉店間際の豚かつ屋さんに飛びこんで豚かつをお腹いっぱい食べた。幸せなお腹を抱えて、秋葉原まで散歩して、それから家に帰った。

 

しばらく前の日曜日は、だいたいこんな一日だった。

無駄なこと

久々に何の予定もない土曜日だった。誰にあう予定も、どこに行く予定も、もちろん仕事の予定もない、何をしてもよい土曜日。その土曜日を、眠って過ごした。たぶんスウェットの上下のせいだ。僕はかなりの暑がりで、一昨日までは半袖のTシャツとハーフパンツを寝間着にしていたのだけれど、冬の気配に耐えかねて、昨日からスウェットの上下を寝間着に採用したのだった。衣装ケースの奥から引っ張り出したスウェットからは匂いのつかないムシューダの匂いがした。

 

半袖のときは布団に包まらないと寒くて眠れなかったけれど、長袖のスウェットは布団のように暖かく、ソファの上でもラグの上でも、うつらうつらとしてそのまま眠りこむことが出来てしまうのだった。テレビを見ているとき、スマホでネットを見ているとき、本を読んでいるとき、何をしていてもうつらうつらはすぐにやってきて、そうすると僕は見始めたばかりの何かを置いてけぼりにしてまぶたを閉じるしかなくて、眠りとともに二時間弱の時間が消えて、頬に敷物の型がつく。

 

ここまで書いてまた寝ていた。テレビでは日本シリーズが流れている。もう22時にもなるのにまだ8回だ。遠くから広島に遠征してるお客さんもいるのだろうに、大変だな。広島には行ったことがない。行ってみたいと常々思っているのだけれど、広島行きたいね、と話に出ると必ず、それならサンライズ瀬戸・出雲に乗りたい、という話になり、出雲と瀬戸とどちらがいいかという話になり、出雲大社と瀬戸内アートフェスとどっちがいいかという話になり、広島はどこかにいってしまうのだった。サンライズ広島があればこんなことにはならなかった。憧れの寝台列車。乗ったら寝れないだろうな。寝るために工夫された列車では寝れず、寝なくてもいい土曜の昼間に寝てしまう。睡眠中枢は天邪鬼である。

 

この間、ツタヤが久々に100円セールをやっていたので、CDを大量にレンタルした。音楽を配信で買うというのがどうも馴染まず、CDを買ったり借りたりしてリッピングして聴いている。こだわりがあるわけではなく、アップルidが謎の使用停止処分を喰らってiTunesで買った曲が聴けなくなって、それからトラウマなのである。泉まくら、ダオコ、ホームカミングス、思い出野郎Aチーム、ビデオテープミュージック、そのあたりの旧譜をごそごそと借りて、リッピングして、スマホに入れて、SMAPばかりを聴いている。やはりSMAPはいい。特に「JOY」が好きで、こればっか聴いている。「無駄なことを一緒にしようよ」こんな最高の口説き文句って他にあるだろうか。人生は余暇だからできるだけ無駄なことをしよう、後には何も残らなくていいから、ただただ楽しく人生を送ろう。どうにかなるさ人生は、明るい歌でも歌っていくのさ。SMAPの持つポジティブさ、ゴージャスな感じ、圧倒的な肯定感、これはいったい何なんだろう。「忘れかけてた魔法とはつまり」って言うけどさ、魔法は貴方たちだよ、と言いたくなる。SMAPは魔法だ。5人揃ったときだけ発動する魔法。すべての不幸せを吹き飛ばす力のある魔法。

 

無駄なことをしたい。無駄なことをあなたと一緒にしたい。起きては眠るだけの本当に無駄な一日も、あなたとふたりなら魔法に変わる。そうやって毎日を魔法に変えて過ごしていって、魔法の中で老いていけたら最高だと思う。なんかいっつもこんなことばっか書いてんな、と思うけども、ほんとにこんなことばっか考えてんので仕方ない。

 

ここまで書いてまた寝てた。一日が無駄に終わった。日ハムが優勝してた。おめでとうございます。黒田投手お疲れ様でした。たぶんこのあとまた寝ます。お休みなさい。無駄で楽しい一日を。 

好日

土曜日。今年はじめてパーカーを着た日。

 

五反田団の「pion」を観に五反田へ。最近ちょこちょこと演劇を見るようになったのだけれど、群を抜いて観客がみんなそれっぽかった。スリムで、お洒落で、黒髪で、文化系な感じ。男性はマッシュっぽい髪型が多い。ツーブロックは見当たらない。会場は古い倉庫を改装したような小屋で、その雰囲気も含めて納得感がある。見始める前からやたらめったら納得してしまった。お芝居のほうは、質だった。何かグッサリ刺さるとか、揺さぶられるとか、そういうことはなかったのだけれど、本当に面白かった。脚本、演技、演出、ぜんぶ高品質で、決して派手でも奇抜でもなく、でも寓話的かつ説得力のある、なのにきちんと伝わる、わかることができるお芝居だった。ここ最近は「わけがわからないのに凄い」ものを好んでいたのだけれど、「きちんとわけをわからせてくれるのに凄いと思える」ってのはもっと凄いことなのかもしれないな、と思った。

 

観劇のあとはテクテク歩いて品川へ向かう。誰もいない裏路地を抜け、誰もいない大通りを通る。道の反対側には森があり、少し向こうにはビル街が見える。夜空を見上げると街路樹の枝を透かして月がぼんやりと薄く光る。隣を歩く彼女に、月が出てるね、と声をかける。彼女は怪訝な顔をする。月が出てるのはあっちだよ、あなたが見ているのはたぶん街灯だよ。そんな馬鹿な、と再び顔を上げるとそれは間違いなく街灯で、白くて派手な光は雲に霞む朧月とは似ても似つかない。さっきはめっちゃ月っぽかったんだけどな。さてはあの街灯、一瞬だけ気合入れて月の演技してたな。

 

品川まで出てインド料理。エビとココナツのカレー、マトンビリヤニ、ピーマンのタンドール焼き、それからドライフルーツやココナツの入った甘いナン。このナンがとても良かった。かなり甘いんだけど、クミンとココナツの感じとドライフルーツの香りがよくて、思いのほか爽やかだった。ボリュームがすごくて、ナンは半分持ち帰った。食べすぎたせいか、帰りの電車では二人ともやたらと眠くなり、彼女は僕の左肩を枕にして眠った。左肩は彼女のチークで薄桃色に染まった。帰る道すがら、それをやたらと気にする彼女が可愛かった。

 

日付が変わるころ、ひとり仕事をする彼女を置いて飲みに出かける。初めましてのひと、お久しぶりのひと、おっす元気?のひと、色んなひとと取り留めもない話をした。暴力と達磨一家と東京ドームでのライブの話。けれどそのライブは出演者も観客もすべて自分で、自分の坩堝で、最終的にステージの上の自分は自分を捨てて単身アメリカに向かうのだそうだ。何のことかわからないけれど、飲み屋話とはそういうものだ。朝まで飲んで、外に出るとまだギリギリ夜だった。じゃあまた、と簡単に挨拶をし、家まで自転車を漕ぐうちに、ほんの少しずつ朝の気配が濃くなっていった。帰ると彼女はまだ起きて仕事をしていて、だから僕は眠る前におはようを言うことが出来た。

 

こうやって思い出して書いていると、すごく好きな感じの一日だった、ってことを再認識する。うん、すごくいい一日だった。好きな日だった。いい一日だった。

 

 

うだうだ

そうじゃなくてさ、愛ってやつは、コレクションじゃない、ましてやファッションじゃないでしょ。それはそうだと思う。でも、愛はおしゃれじゃない、って言われるとそうなのかな、って思う。お洒落な愛はあるんじゃないかなって思うし、愛がラブリーでキュートだったら困ることは何かあるの、って思う。ぺこ&りゅうちぇるのそれが愛じゃないって言われたら悲しいし、お洒落じゃないって言われたら???お洒落???って?なに????ってなる。そのあたり岡村ちゃんや小出くんはどのようにお考えだろうか。

 

秋なので秋に聞きたい音楽を求めてスマホに入れてる音楽を衣替えしている。きょうはスカートやスピッツホフディランを聴いていた。ホフディランの「恋はいつも幻のように」はとても秋らしくていいと思った。小沢健二の「球体の奏でる音楽」もいいし、フリッパーズ・ギターの「カメラトーク」もいい。やっぱあれッスよ、秋はベレー帽っスよ、ね、岡崎センセ、という気分だ。あとJ/Gの「あなたは煙草、わたしはシャボン」もいい。ラブサマちゃんの曲のカバー。J/Gは何を聴いてもよい。サンクラでJohnGastroって検索したら出てくるので物好きなひとはどうぞ。

 

寒いところが好きなので寒くなると北の故郷に帰りたくなる。コートを着て街を歩き熱くなってコートを手に持ったりしたい。橋の上で脚を止め、川をのぞきこんで遡上する鮭を眺めるなどしたい。川原に降りて遊歩道を歩いて、力尽きた鮭が川岸に浮かんでいるのを探したい。川がゆるくカーブする、その内側の岸辺で、すべすべした平たい石を拾って、なるべく身体を低くして、水面と水平に石を投げたい。石が水面を跳ねて転がるように上手に投げたい。ムキになって石を投げて、投げた拍子にポケットに入れてたスマホを浅瀬に落とすなどして、ヤケになってスマホを水平に投げたい。スマホが水面を跳ねていくところが見たい。動画を再生しながら、音楽を鳴らしながら、着信を受けながら沈んでいくスマホが見たい。

 

故郷を見せたい。好きなところだけを見せたい。好きな街なみ、好きな景色、好きな川、好きな山、好きな蕎麦屋さん、好きなパン屋さん、凛と冷えた好きな空気のなかをふたりで歩いて、たくさん話して、それから温泉なんぞに泊まったりしたい。温泉なら真冬のほうがいいかな。雪景色に白濁した露天風呂。ただし湯船以外は凍ってるので湯船に辿り着くまでに足の裏は凍傷になる。

 

寒くなって鍋が美味しい。きのう作ってもらった味噌と酒粕のお鍋、あれは最高に美味しかった。具は鶏に牛蒡に白菜、それに芹。小ねぎをたっぷり、さらにかぼすをぎゅっと絞っていただく。濃厚で、暖かくて、爽やかで、なんかこう洗練されていてスタイリッシュで最高だった。あと鍋のあとのハーゲンダッツも美味しかった。温かいもの冷たいもの、しょっぱいもの甘いもの、対極のコンビネーションは最高である。映画でいうと「ラッシュアワー」とか「48時間」とかか。なんで映画で例えたのか。わからん。

 

眠いぞ眠い。とにかく眠い。

 

鍋、塊肉、誕生日

この間、大学時代の友人と、ここ数年ずっと行きたいと思っていた大木屋に行き、塊肉を焼いた。大きいものは単純にテンションが上がる。海鮮サラダ、塊肉、海鮮、塊肉、もんじゃ、もんじゃのコース。なぜもんじゃが二回もあるのか理解に苦しんだ。お腹はもっと苦しかった。塊肉は美味いのだけれど。二度目はないなー。でも数年越しの宿題をやっつけたようで嬉しかった。大木屋のあとは新宿に移動。地下のバーでウイスキー。古くて安くてピシッとしていて大衆的でとても良い店。近況を報告しつつ飲む。みんな変わらんな。仕事してんだかしてないんだかわからんようなところが変わらん。飄々としている。バリバリやってます、みたいなやつはひとりもいない。そういうタイプじゃないからいまだに仲良くしてるんだろうな。

 

この日の集いの名目は僕の誕生日祝いだった。我々が集まるときは誰かの誕生日を名目にすることが多い。特にプレゼント等は送らない、ただそいつの飲み代を安くするだけ。本チャンの誕生日は、恋人がお祝いしてくれた。美味しい手料理と、ジャン・ポール・エヴァンのチョコレートとラズベリーのケーキ。プレゼントは僕には分不相応なくらい素敵で高価な鞄。包みを開いて驚いていると、彼女は僕に、ねえ早く持ってみせて、と言った。新品の鞄に適当にものを詰めて、上着を羽織って鞄を持つ。手に持ったり、肩にかけたり。彼女は僕の周りをくるくる回って、うん、思ったとおり、と笑った。流石に高すぎるかなと思って迷ったんだ、でも見つけちゃったから、絶対に似合うと思うやつ見つけちゃったから、もうこれしかない!って思い切ったんだ、イメージどおりだよ、すごく似合ってるよ、これにしてよかった。嬉しそうに眼をキラキラさせて話す彼女を見ていると、分不相応に感じていたその鞄が、自分に似合っているような気がしてきた。僕の思う僕のイメージと、彼女の思う僕のイメージはたぶん違っていて、彼女の思う僕のイメージのほうがたぶん素敵で、ならば僕は彼女の思う僕のイメージに僕を近づけていきたいと思う。彼女の思う僕が本当の僕であればいいと思う。素敵な鞄に似合う素敵な僕でありたいと思う。

 

鍋が美味しい季節になった。きょうは鶏つくねとクレソンと牛蒡の鍋を作って食べた。鍋は良い。出汁をとる、という行為が良い。土鍋に水を貼り、昆布をいれ、火にかける。そうして沸騰するまでの間に、味付けの方針を考える。実際には何を作るか決めて買い物をしているのだけれど、いまならまだ引き返せるぞ、どうする、どうする、と考えるのが好きなのだ。カレー作りでスパイスをテンパリングしているときに似ている。まだ未分化の、選択肢を豊富に抱えた状態、料理モラトリアムな状態が好きなのだな。未来が決定してないのがいい。決定してしまうとつまらない。後は作業だもの。ああそうだ、俺は作業が嫌いなのだな。仕事と同じだな。

 

クイズ☆タレント名鑑が復活してくれて嬉しい。名前がスター名鑑になった意外はほぼそのまんま。口が悪くてゲスくて面白い連中の飲み屋話をずーっと聞いてるような感覚。たぶん30歳より下の人は意図的に置いてけぼりにしてる。北野印度会社とか統一教会飯星景子とか年寄りしか知らんし。でも知らなくてもよいのだ、昔のとんねるずなんか、視聴者が知り得ない楽屋話を説明もせず延々やっていて、それがバツグンに面白かったのだから。「面白いひとが面白おかしく喋って盛り上がってる」という光景は、話の中身がわからなくても面白いのだ。センスと回転と熱量、三拍子揃った様を毎週楽しめるのだと思うととても嬉しい。

 

秋が駆け足で過ぎていく。

ここ最近はこんな感じ。

 

 

ぼんやりとふりかえる

空が高くなり、雲が薄くなり、夜が冷たくなり、朝が遅くなった。秋になった。一年でいちばん好きな季節がやってきた。

 

ここ最近は何をしているのかなあ。仕事を適等にしている。本はあまり読んでいない。音楽もそれほどちゃんと聴いてない。テレビはバラエティをだらだらと見ている。校閲ガールも逃げ恥も録画だけして見ていない。dアニメとNetflixに加入した。けれどまだ何も見れていない。美味しいものを食べすぎて体積が増えたのでダイエットを始めた。頻度は少し落ちたけれど、それでもカレー作りは続けている。こないだの休日は、友達と公園でピクニックをした。食べ物を持ち寄り、お酒を飲んでカードゲームを楽しんだ。あれは最高だったなあ。やはり秋は外に出るべきだ。インドア派のみんなも外に出よう。動画も本も外で見よう。アウトドアでインドアしよう。秋はどこもかしこも家になるのだ。

 

この間は恋人と花火を見に行った。生まれて初めて花火の有料観覧席のチケットを買った。連続で打ち上がる花火を至近距離で見ていると、祭りなのか戦争なのかよくわからなくなってくる。写真を撮ろうとスマホを構えると、画面に映る光景はサマワファルージャと大差ない。光。煙。破裂音。人間を萎縮させる、美しい特殊効果。お酒を飲んで、少しウトウトして、もたれあって眼を閉じる。まぶたを通して光の明滅を感じる。川風が身体から熱を奪う。ひざ掛けの下で握りあった掌にすこし力を入れる。掌と身体の側面、くっついている部分が温かい。温かさがじんわりと拡散して、それが心地よくて、ほんの少し寝てしまう。時間にしてほんの数分、体感的にはたっぷり三十分。ハッとして眼を開けると、夜空を埋め尽くす沢山のしだれ柳。それがいくつも打ち上げられ、夜空に美しい余韻をいくつも作り出し、そうして光って消えていく。

 

恋人とはなるべくたくさん一緒にいる。何をするでもなく、部屋で過ごし、ご飯を作ってもらったり、銭湯に行ったりする。それで話しをたくさんする。真面目な話も、適当な話も、たくさん。単純接触は感情を増幅する。苦手なひとはもっと苦手に、好きな人はもっと好きになる。だから話せば話すほど、僕は彼女を好きになる。好きになるのは楽しい。楽しくて楽しくて、ほかのいろいろが疎かになるくらい。困ったね。

 

眠たい日と眠れない日を繰り返している。昨日は眠れない日で、そのせいかきょうは昼からとても眠たかった。いまも眠い。眠気のなか、浮遊感のなかでこれを書いている。ぼんやりとしている。はんぶん寝言を言ってるみたいだ。彼女が歌うクリープハイプを聴きたい。トナカイはみんな雌だと誰かが言っていた。でもそんなはずはないと思う。伊勢丹でクリスマスケーキを予約した。紅葉を見に山中湖へ行く計画を立てた。スペアリブを焼いて食べた。2ヶ月床屋に行ってない。早く髪を切りたい。可愛いLINEスタンプがほしい。お金がほしい。広い部屋に住みたい。腰が痛い。台所に焼けた豚肉の匂いが残っている。お腹が痛くなる予感がある。お湯を沸かしたい。白湯を飲みたい。心ゆくまで眠りたい。あなたとふたりで眠りたい。