bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

4月と5月のモロモロ

今年に入ってからというもの、風邪ばかり引いている。年始に発熱。3月にインフル。治りかけて気管支炎。繁忙期を半死半生で過ごし回復したのは4月の終わり。5月の連休はがっつり遊んで、休み明けにまたしても風邪、咳と悪寒にゲホゲホガタガタ苦しみながら仕事をこなし、治ったかと思いきや今度は副鼻腔炎で発熱、全部の体調不良がどっかいったのは今週に入ってからのこと。はー長かった、と思ったら今度は彼女がきっつい風邪をひいた。たぶん僕から感染ったのだろう。でも僕のひいていた風邪だってもとをたどれば彼女から感染ったものだ。我々は風邪をキャッチボールしている。差しつ差されつ風邪をやっている。

 

風邪を引きつつ仕事をしつつ、何だかんだで色々と楽しんでもいる。覚えてるだけダラダラと書き出してみる。

 

ままごと「ツアー」@KAAT。

いきなり最高だった。深いレベルの共感があった。そうなんだよね、幸福も不幸もなく、ただ出来事だけがあり、我々はそれをただ受け入れ、味わうしかない。「ご賞味!ぜんぶ、ぜんぶ、ご賞味!」とカタコトでいう端田新菜さんが本当に本当に素晴らしかった。フィルターなしでむき出しで世界に向き合っているようなあの雰囲気はどうやったら出せるのだろう。それでいて繊細さも感じる。めっちゃ繊細な関西のおばちゃんみたいな、アメちゃん配りつつ誌のひとつも諳んじてみせるような、そんな感じ。ままごとは去年から見る公演すべて大当たり。自分にとっていま一番しっくりくる劇団だ。

 

小沢健二「春の空気に虹をかけ」@国際フォーラム、@武道館×2

たーのーしーかったー!!!!ボーカリストとしての小沢健二は今が全盛期なのではなかろうか。若いころより声が出てる。国際フォーラムと武道館初日は砂かぶり席中央一桁番台、武道館二日目は二階席。間近でみる小沢健二はなんかお肌もツヤツヤとして、あれ?若返った?なんかやたらとウキウキしてるし、恋でもしてんの?という感じ。満島さんはとにかくキュートでした。「ぼくらが旅に出る理由」のPVコピーとか、「流星ビバップ」のときのジャケットのポッケに手を入れたままのステップとか、泣きそうになるくらい素敵だった。36人編成ファンク交響楽団によるヒット・ソング・メドレーは多幸感でブチ上がりすぎて毎度2時間があっというま。でもほんとにグッときたのは、「東京恋愛専科」に合わせて通路で踊る3歳くらいの女の子の笑顔だったり、ずっと座っていたのにアンコールの「ドアをノックするのは誰だ?」でついに立ち上がってドアノック・ダンスを踊る中年男性二人組みの姿だったり、魔法的電子回路でぐるり一面キラキラに光ってる武道館の客席だったりする。

ただ、去年のツアーでやった大傑作新曲群を聴けなかったのが心残り。「飛行する君と僕のために」は、「超越者たち」は、「その時、愛」は、次はいつ聴けるのでしょう。気長に待つからいいけどさ。待つのは馴れてるからさ。

 

ナカゴー「まだ気づいてないだけ」@町屋ムーブ

予告されたことが起こる、ってなんでこんなに面白いんだろう。「これからこうなりますよ」と展開をすべて説明され、その通りに話は進み、いざその場面を迎えると吐くほど笑ってしまう。裏切りは一切ない。水戸黄門の印籠とか志村の変なおじさんとか、「わかってる展開が起きることの嬉しさ」ってのは本能に近い部分にある快感なのだと思う。あと、あまりにも無茶苦茶に転がっていくお話に対する補助線としての役割も大きいのだろな。予告なしで見てたらポカーンとしてしまうような展開ばかりだもの。

 

「権太楼噺 爆笑十夜」@鈴本演芸場

毎年恒例、初夏の権太楼噺。文蔵師匠や菊之丞師匠もよかったけれど、お目当ての権太楼師匠がとにかく素晴らしかった。ぼくは権太楼師匠のやる旦那とおかみさんの威勢のいいくだらないやり取りが本当に本当に好きで、あれ聴いてゲラゲラ笑ってると時間の感覚を失ってしまうときがある。過去や未来がなくなって、「いま」だけになって、そのうちに「いま」すら消えて、笑ってるうちこのまま末期を迎えるのではないか、笑いすぎて泡のようにはじけて消えてしまうんじゃないか、そんなふうに思ったりする。この日の「火焔太鼓」はダミ声婆あとしょぼくれ爺いの罵り合い(イチャつきとも言う)を思う存分楽しめる最高の演目であった。これからも本寸法に寄りすぎることなく、婆あの了見を究め尽くしていただきたいものです。夏の特別興行も行くぞ。

 

立川志の輔仮名手本忠臣蔵」「中村仲蔵」@赤坂ACTシアター

流石の名演だったけれど、妙に笑いたがるお客さんに左右を挟まれてしまい、彼らがしんみりさせる場面で声だして笑うのでいらついて仕方なかった。あといちいち声だして相づち打つのも辛かった。こういうときの対処法の正解がいまだにわからない。静かにしてもらえますか、なんて声かけるのもしんどいし。いっそ蟹でもサービスしたらよいのだろうか。こちらよろしければ、つって毛蟹の茹でたのでも渡しとけば身をほじるのに集中して静かになったりするだろうか。でもほじらずに殻ごとしゃぶるタイプだったらとなりでチュバチュバいう水音を聴き続ける羽目になるわけで、もうほんとどうしたらよいのだろう。誰か正解を教えてください。

 

FUKAIPRODUCE羽衣「春母夏母秋母冬母」@吉祥寺シアター

我々はみなメシを食いセックスをして糞をして寝る。その繰り返しにはときおり深い愛や強い憎しみが混ざる。そして万人に平等に時は流れ、老いさらばえて(あるいはそれすらも適わず)死んでいく。そのすべてを包摂し、そのすべてと関わりなく、宇宙が、世界がある。すべてのものは、ただ存在する。それが堪らなく愛おしい。

セックスを題材にしようが、死を題材にしようが、母を題材にしようが、羽衣のやっていることは基本的に変わらない。みっともなさと美しさを等価に見つめ、愛する。ジョージ秋山と同じことをミュージカルでやってる。ちなみに、ジョージ秋山と同じ、というのはぼくにとって滅茶苦茶な褒め言葉である。

 

きょうは彼女が家におらず、久々に一日を無言で過ごしている。そのせいか、やたらと長い文章を書いてしまった。普段はこのくらいの分量×二人分を会話の中で発散しているわけで、もし誰かがぼくらの食事の中にコエカタマリンを混ぜたりしたら、さほど広くもないこの部屋はあっという間に満杯になってしまうことだろう。固まった発話は袋に入れて、口を固く縛って燃えるゴミの日に捨てる。うるさいと迷惑になるので夜のうちに捨てるのは禁止されている。お気に入りの発話だけは、捨てずにそのままとっておいたりもする。でも我々はずぼらなので、テプラで日付やシチュエーションを貼り付けておいたりはしないし、アルバムにファイルしたりもしない。ただ寝室の窓辺なんかに適当に置いとくだけで、そのうちに文脈を忘れてしまう。で、たまの掃除のときに持ち上げたりなんかして、ねえ、この「わに」って何でとっておいてんだっけ?なんてハタキ片手に尋ねるのだ。なんだっけね、思い出せんね、どうする?捨てる?まあいいんじゃん、別に邪魔にはなってないし。そんな感じでよくわからない発話はいつまでもそこにある。そんな感じで毎日をやっている。