bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

運命の鍋

寒い。
急に急激に寒い。
気づかぬうちに、するりと冬になっていた。

冬なので、夕飯は鍋にする。
駅の西友で鶏肉と豆腐と醤油を買う。
白菜は売り切れている。
バスに乗り、降りたところの近くのスーパーで白菜と、ついでに豆苗を買う。
家に帰る。
鍋に水を張り、酒と醤油と顆粒だしでスープを作る。
野菜を切り、肉と豆腐といっしょに鍋に入れ、蓋をする。
弱火にかけて、野菜のかさが半分になるまで炊く。
これで出来上がり。

いつもなら、鍋が出来上がるまでリビングで本でも読んでいるのだけれど、今日はなんとなく、台所に佇んでいた。
ガスコンロの前で、ぼうっと立っていた。
まだ鍋はおとなしくしている。
ガスの火が暖かかった。

スピッツの歌詞のことを考えていた。
運命の人、って曲だ。

 バスの揺れ方で人生の意味が解った日曜日
 でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ

バスの揺れ方で人生の意味が解る。
そういうことは、あるのだろうと思う。
何をしているときにだって、人生の意味が解ることはあり得る。
そういう悟りみたいなものは、たぶん得ようとして得られるものではない。
ふとしたときに訪れるものなのだろう。
座禅を組むのも、バスに揺られるのも、同じようなものなのだ。
たぶん。

でも、人生の意味なんて、解ったって大したことはない。
この歌詞のすごさは、2フレーズ目にある。
でもさ、君は運命の人だから、強く手を握るよ。
この「でもさ」が本当に素晴らしい。
バスに揺られて理解した人生の意味を、さらりと投げ飛ばす。
肝心なのは、人生の意味なんかじゃない。
人生の意味なんて解ったって何の意味もない。
それより、運命の人といることの方が大切だ。
運命の人の手さえ強く握れていれば、人生の意味なんて、そんなものはどうだっていいのだ。
この歌は、そういうことを歌っている。

そんなことを考えていたら、いつのまにか鍋が煮えていた。
鍋と蓋のあいだから湯気が立ち昇り、醤油と出汁の香りが立ち込める。
蓋を開け、火を止める。
鍋の中はグツグツと沸いている。

鍋の中をじーっと見ていたら、なんだか人生の意味に気づきそうになって、慌てて蓋を閉じた。
あぶないあぶない。
鍋は食べるもので、悟るようなものじゃない。
悟ったところで、強く握るべき手の持ち主はいないのだ。
俺の運命の人は、この部屋にはいないのだ。

鍋の煮え方で人生の意味が解った水曜日、
でもさ、鍋は食べるものだから、熱々をよそうよ。

心の中でそんな歌を歌いながら、俺はひとり、器に鍋をよそった。