bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

ロロ「マジカル肉じゃがファミリーツアー」

土曜の昼。KAAT。

 

新春初ロロは神奈川から。すげえ良かった。まとまりそうにないのでぐちゃぐちゃと感想を書きます。全体の空気感はどことなくリトル・ミス・サンシャインに似てるように思った。でも何が似てるのかはよくわからん、「家族」で「移動」ってとこだけかもしれん。板橋駿谷さんまで含めてフルメンバーのロロは久々、というか初めて見るかもしれん。多摩センターのときはたしか亀島さんがいなかったから、やっぱ初めてなんだなー。ひとりひとりも好きだけれど、全員揃ったときのこの無敵感はなんだろう。SMAPに感じていたのと同じ気持ち。ステージ上では優しさと可愛らしさと微笑ましさが爆発していて、ひとつひとつのやりとりがとにかくキュート。「若いころのパパとママが小さなシールになってこの家のいろんなとこに貼ってあるはず、どこにあるかはもうわからないけど」ってこのやりとりだけでもう可愛すぎてたまらない。こんな感じがずーっと続く。描かれるのは、記憶と名前と愛にまつわるお話。しかし本当にお話だったのか?ってくらいにストーリーが残ってない。かわりに柔らかくあたたかい手ざわりみたいなものだけが残っている。それでも覚えていることを凸凸と。

記憶について。「父母姉僕弟君」での「忘れたくない、いまのこの気持ちがいつか消えてなくなるなんてそんなの嫌だ」から「忘れたって大丈夫、忘れることは無くなることとは違うから、たとえ忘れてしまっても、それは確かにあったのだから」に変化してる。大人になってる。実際、忘れてしまっても大丈夫なことがあったのだろうと思う。生きてると色々ありますわな。ここ一年くらいの自分の感じとぴったりだったので、あーもうわかるわかるわかる!と胸の内で膝を叩きまくっていた(ややこしい)。

名前について。「正しい名前をつけると、世界は欲情するの」みたいな台詞を聴きながら、大澤真幸が「恋愛の不可能性について」で書いていたことを思い出した。曰く、愛は要素に分解できない。「○○のどこが好き?」「かわいくて明るくて聡明なところだよ」「じゃあ、もし○○がかわいくなくて明るくなくて聡明でもなくなったら、好きじゃなくなる?」ここでyesと答えるならばそれは果たして愛だろうか。否。かわいくなくても、明るくなくても、聡明でなくても、○○への愛は変わらない。僕が好きなのは、○○の何か、ではない。僕が好きなのは○○なのだ。あ、「○○」には各々が好きな固有名詞を代入してください。愛は要素に還元されない。愛の対象は名前によってしか語り得ない。名前で呼ぶことでしか捉えることのできないものがあり、それはたぶん本質とか魂とか呼ばれるもので、だから「名づける 」とは本質を同定し魂を与えることに他ならない。

どうなのかな、これ。伝わるのかな。たぶん伝わらないだろな。文章もぐちゃぐちゃだし。でもよいのだ、自分にさえ伝わっていれば、それでよいのだ。 そういうことにしたのだ。

 

行きは中央線と副都心線直通東横線直通みなとみらい線だったので、帰りは横浜線八王子経由中央線にした。今日の俺はいびつな楕円軌道を描いて西東京をぐるりと囲んでいるのだ、と思うと無性に楽しかった。鈍行の横浜線に揺られつつ、楕円軌道の大先輩であるハレー彗星の気持ちになってみようとしてみたけれど、それは流石に無理みたいだったので、睡魔にまかせておとなしく眠ることにした。のどの奥がぱりぱりと乾いている感じがした。ちょうど風邪をひきはじめたのかもしれないと思った。

年末と年始のことなど

気がつけば正月も終わり、正月の残り火のような連休も終わり、浮かれ気分もどこへやら、ロックンロールも鳴り止む時間が来てしまったようである。年末と年始。一年でいちばん静かで新鮮で敬虔でときめいてしまう数日間。そちらの年末年始はいかがでしたか、こちらの年末年始はたいそう落ち着いておりました。同居してる彼女が年末からがっつり発熱。病気的な彼女にポカリやお粥や解熱剤を供えつつ、合間合間に膨大な録画を消化したり、やや豪華なお惣菜を食べたりしていたら転がるように年が締まりあれよあれよと年が明けた。あけましておめでとうございます。年が明けても彼女の風邪は治らず、お供え物を増やそうと外へ。元旦。前に住んでいた新宿とは違い、この街の年末年始は静かである。個人商店ばかりのこの街では、三ヶ日はどこの店も休みであり、人影もまばらで、まっすぐ続く道路にはただ青く冴え渡る空と凛とした空気が広がっている。さむさむ、と口の中で呟き、部屋着に羽織ったパーカーのポケットに手をいれる。背中を丸めて誰もいない道路を歩く。小さな歩幅でせかせかと歩く。なんだか鶏みたいだと思う。目的地の西友に着くまで誰ともすれ違わない。西友の店内にも誰もいない。まさかウォーキング・デッド…?帰ったら彼女もウォーカーになってるパターン…?と思ったが薬局コーナーには薬剤師さんがスタンバってくれていたので懸念は払拭された。元日からお疲れ様です。とてもとても助かります。助言に従いドリンク薬と濡れマスクと冷えピタを購入。店内まわってレンジで暖めるゆたんぽと小さな加湿器、それからたまごとネギとうどんとヒガシマルのうどんだしも購入。帰宅、加湿、ゆたんぽ加温、なんか食べる?食べられそ?からのうどん作成。食べて薬で冷えピタで睡眠。翌日にはなんとか熱も下がり、明けて正月休み最終日、上野鈴本初席へ。ようやく正月らしい感じでとてもようございました。

こんな感じで半分くらいは看病な年末年始だったのだけど、看病、正直楽しかった。病人のお世話をすることによる自己効力感の獲得!代理ミュンヒハウゼン症候群!みたいな怖い話ではなく、ほんとにそういうんじゃなく、なんというか、こう、家族みたいだなって思った。同じ家にいて、ちょいちょい寝室に様子を見に行って、心配したり世話をやいたり、そういうのがとても嬉しかった。のんのんとした日常の風景、新聞四コマの中で起こるくらいのささやかな事件、そういう緩やかな時間の流れがとても愛おしく思えた。

今回の年末年始はこんな感じ。そういうわけで皆様ハッピーニューイヤー、良い一年になりますように。

 

大晦日

お昼ごはん用にセブンイレブンの肉うどんを買い、しっかり温めてもらって帰宅し、なんやかんやで食べずに放置して8時間後に温めなおして食べている。汁は半分、麺は倍。ぶにゃぶにゃになったうどんがしみじみと優しい。具合が悪い彼女は寝室でこんこんと寝ている。熱は下がってきたようでとりあえず安心。もう少ししたら追加のポカリスエットを持っていこう。起こさぬように、枕元にそっとお供えしてこよう。ついでにみかんのひとつも供えて、初詣はもうそれでいいな、年越してなくても別にいいな。

 

今年は何があったかなーなんて思い出そうとしてみたけれど、ほとんどのことを忘れてしまっているような気がする。映画。おととい見たクストリッツァの「オン・ザ・ミルキーロード」はすげえ良かった。相変わらずのクストリッツァって言えばそれまでなんだけども。嘘みたいに命が軽い世界でのスラップスティックラブ・ストーリー。ここまで書いてたら新年まであと50分というタイミングでAbemaのアプリから「特命係長只野仁 第二話放送中!」って通知が着た。誰が只野仁で年越しするんだ、どうせ通知するなら一話にしてくれ、通知してくる割にすぐ通知消えるのなんなんだ、様々な言葉が脳裏に浮かぶ。おかげで喉元まで思い出せてた記憶がまたどっかに飛んでいった。まあいいや。忘れてしまうことは無くなってしまうことと同じではないのだし。いくつかのことはいつかひょっと思い出すだろうし、それはきっとふさわしいタイミングで起こることで、年末だからって無理して記憶を絞り出す必要はないのだ、たぶん。

絞ると言えば本搾り缶チューハイっていつから9%になったんだろう。なんでもかんでも9%になるとストロングゼロの存在意義が問われる事態になってくる。ストロングゼロはあんだけ9%押しなのになんでゼロなんだろう。ストロングナインのほうが良かったのではないか。ゼロなのにナイン。なんだそれ。サイボーグ009か。%と言えば、多摩センターのステージで見たロロとemcの「100%未来」はとっても良かったなあ。あのステージはすごく好きだった。「アイ・ラブ・ユーっていうかダンス・ウィズ・ミー ボーイ・ミーツ・ガールだけじゃもうたりない」のパンチラインでお馴染みの「ミーツミーツミーツ」もすげー良かったし。


lute live:ロロ+EMC feat. いわきっ子「ミーツミーツミーツ」 - YouTube

ロロはいつ高シリーズの「いちごオレ飲みながらあいつのうわさ話した」も最高だった。年明けのKAATのやつも観に行こう。横浜遠いけど。ロロメンバーだけでやったSMAPオマージュのあの曲もめっちゃ良かった。あれなんて曲なのかなー。しかるべき場所でぜひもう一度聞きたいものです。

 

 そろそろ年越しか、2017年のうちにポカリをお供えに行かなければ。皆様、今年も一年お世話になりました。来年は味わい深い一年にしましょうね。楽しいことも、悲しいことも、浮かれたり落ちこんだり受け入れられなかったりする自分も、ぜんぶ丸ごと飲みこんで、味わって行きましょう。2018年もよろしくお願いします。

 

 

 

年末っぽくない12月

監獄のお姫さま。毎週楽しみに見ていたけれど、傑作ってほどじゃなかった。でもそれで充分って気がする。そもそもが「おばさんのお喋りを書きたい」で始まったドラマだし、お喋りってそういうもんだと思うし。その場は楽しくて、連帯感とかあって、なんとなく幸せで、でも内容は薄っぺらくて、二日もすれば思い出せなくなっちゃって、手ざわりとあたたかさだけ残ってるような。だからこれで充分。別の日、神保町にキョンキョンを観にいった。柳家喬太郎桂雀々の二人会。この年末は落語、というか演芸ってほんとすげえなって思わされることが多い。日々をなんとなく過ごしていると、狙いすましたひと言とかではない、なんでもない適当なお喋りに強めのおかしみが宿ってしまうってことが誰にでもあると思う。例えば二人で会話していて絶妙な間で同じ言葉を発するやつとか、なんにも考えずポンと発した言葉が状況に対する絶妙なツッコミとして機能したりしてしまうやつとか、なんかそういうの。ああいうのって意図してないからこその面白さで、意図してやってるとまた別の種類のおかしみになると思うのだけれど、落語ってほんとすごくて、そういう偶然のおかしみを舞台の上で再現してしまう。桂雀々さん、初めて観たのだけれど、凄かった。もうね、ジミー大西。ジミーちゃんのあのおかしみを、舞台の上で違和感なく演じてた。ゲラゲラ笑って神保町でカレーを食べる。欧風カレーは美味しかったけれど、店員さんがやけにつっけんどんだった。さっき笑いすぎたからバランス調整機能が働いてしまったのだろうか。おい、今日のお前はほがらかに過ぎるぞ、もう少し殺伐とせえよ(手元のダイヤルぐるーん)みたいなことかしら。ダイヤル式か。旧型やな。

偶然のおかしみについて、書いてるうちに思い出した話。たぶん中学のころのこと。昼休みにバスケやってて、先輩がボール持ってふざけだして、無意味なシュートフェイクを アホみたいな速さで連続で繰り出し、ピボットというよりダンスのようなステップで無意味なターンを繰り返し、しまいには後ろを向いて背面のゴールにボールを放り投げた。ボールは高い起動の放物線を描き、一度ボードに当たって、ダン、バス、とリングに入った。その瞬間、コートにいた全員が崩れ落ちて爆笑した。ほんとに爆発するように笑った。シュートを打った先輩も含めて、しばらくのあいだ、転げ回って悶絶していた。あれほど笑ったのは後にも先にも、とか書いちゃうとそれは嘘で、笑って立てなくなったことなんてたぶん何度も何度もあると思うのだけれど、記憶に残ってるのはなぜかこれだけ。ボールが空中にあるときのあの静寂、ボードに当たってリングに入るときのあの音、屋外のコートのアスファルトと曇った空のグレーの色まではっきりと覚えている。

あと熊倉献さんの「春と盆暗」が最高だった。とにかく女の子が可愛いし男の子もすげえかわいい。文化系男子女子のボーイ・ミーツ・ガール・ストーリー。しかし1月に出た本を12月に読んで年間最優秀賞だなーなんて思うのなんだか面白いな。

 

春と盆暗 (アフタヌーンKC)

春と盆暗 (アフタヌーンKC)

 

 

 

土曜日

なんとなく書きたいことがあるようなそんな気がして、けれど何を書きたいのかは皆目検討もつかず、とりあえずやってみっか、で指を滑らせている。西荻は夜の八時。嘘みたいに夜の八時。目が覚めたのはたしか朝の八時くらい、遮光カーテンを閉めた真っ暗なベッドでだらだらとAmazonサイバーマンデーの様子やJリーグの移籍情報なんかをだらだらと眺めていたら瞬時にお昼、のそのそと起きてお茶をいれ、くるみのベーグルにはクリームチーズとスモークサーモンを挟み、クランベリーのベーグルにはりんごバターをたっぷりと載せ、ちぎっては投げ、投げては食べ、水曜日のダウンタウン、ゴッドタン、クレイジージャーニー、いろはに千鳥と録画を消化し、よく見聞きし、わかり、そして忘れず、出かける彼女を見送り、仕事しなきゃとパソコンを開き、ファイルを開いてぼんやりと見つめ、見つめ、見つめ、スクリーンセーバーの描き出すフラクタル曲線を見つめ、このフラクタル曲線が画面の外まで伸びてきて絡めとられて身動き取れなくなったらどうしようと心配になり、スクリーンセーバーはなぜそんなことをするのだろう、セーバーとしての防衛本能なのだろうか、ぼくがスクリーンに何かするとでも思っているのか、まてよもしかしたら強すぎて制御できない力が暴走してしまっているのかもしれない、だとしたらスクリーンセーバーが危険だ、まるで3部の承太郎のお母さんじゃないか、どうしたらいいんだ、どうしたら助けられるんだ…?とここまで考えてマウスをチョッとつついたらフラクタル曲線はパッと消えてモニターに仕事のファイルが戻ってきた。スクリーンセーバーは救われた。一件落着。一段落。よかったよかった、力が抜けた、姿勢を崩して横たわり、昨日買った森田るい「我らコンタクティ」を読む。めっちゃいい。さっきまでぼんやりしていたのはここで集中力を爆発させるためだったのか…?ってくらいに没入し一息で読み終える。とにかくそれだけやってりゃ満たされるような何かに取り憑かれていることが人生をスカスカにしない唯一の方法だって気がついたのはたしか中学一年のころで、絶望的な気持ちになったのを覚えている。そんなの運じゃん、って思ったからだ。取り憑かれようとして取り憑かれるってのはなんかおかしい、好きじゃないのに好きなふりをするみたいなことだ、ほんとの好きってのは自分じゃどうしようもできない気持ちのことだ、いきなり落ちるもんなんだ、取り憑かれるのもおんなじで、取り憑かれよう取り憑かれようとすることは取り憑かれることから遠ざかるようなもんなんだ、なんだそれやっぱ運じゃん、みたいな感じ。ちなみにそんときの僕はまだ恋をしたことがなかった。若かった。若かったから、純粋じゃないと気がすまなかった。付き合ってるうちに好きになる、みたいなことが本当にあるなんて想像つかなかった。興味のなかった仕事でも、苦労して、やれることが増えていって、失敗したりうまくいったり仕事相手や仕事仲間の感情に触れたりするうち胸はってこの仕事好きです!って言えるようになったりするのだと、多くの人々はそうやって十分満たされているのだと、そんなことはなんにも知らなかった。とにかく取り憑かれていなければならない、そうでない時間はすべてスカスカで空っぽで何もない砂のようなものなのだと信じていた。スカスカの砂の世界では生きられないと思っていた。それから何年もの間、取り憑かれては我に返ることを二三年のスパンで繰り返し、いまに至るまで生きている。大人になるにつれスパンは変化していった。取り憑かれている時間は短くなり、取り憑かれていない時間が普通になっていった。おそらく取り憑かれていない時間は昔と変わらず空っぽなままなのだけれど、それを恐ろしいとは思わなくなった。空っぽな時間を過ごしているときも、世界は変わらず美しく、楽しいことも面白いことも素敵なこともいたるところに転がっていた。いまでも時おり、いてもたってもいられなくなるような時間が訪れる。悲しみであれ喜びであれ、僥倖だと感じる。訪れでしかあり得ない種類のエモーショナルな時間。天のもたらす祝福のような時間。「我らコンタクティ」にはそういう時間を過ごし続けているひとが描かれていて、それがなんだか、とても眩しい。漫画読み終えたころに彼女が帰宅、おみやげの肉まんとチーズタッカルビまんを食べ、彼女が寒い寒いと嘆くので、ホットカーペットへの接地面積が狭いからじゃない?横たわってご覧よ、暖かいよ、こうしたらもっと暖かいよ、と毛布をかけ、そのまま横に並び、そのまま意識を失う。起きて八時。いまは十時。仕事は何にも進んでいない。書きたかったことを唐突に思い出した。M1グランプリジャルジャル最高じゃなかったですか。

生活

引越ししてから一週間。彼女とふたり、粛々と生活をしている。運んできた荷物をよく考えずなんとなく開封し、部屋を片付けと散らかしのあいのこみたいな状態に仕上げている。タイムリーに訪れた無印良品週間に興奮しサイズの合わないカーテンをどっさり買い求めてみたり、温水洗浄便座の取り付けに夜中まで四苦八苦してみた結果どうやら初期不良らしいとわかってレンチを握る手に力が入ったり、旬の野菜を安く売る八百屋と美味しい調味料を売ってる自然食材のお店を見つけた結果アホみたいに美味い野菜炒めを作れるようになったりしている。野菜炒め、本当に美味しかったな。臆することなくフライパンに油を多めに入れ、アツアツに熱する。豚肉を炒め、大きめに切ったピーマン、エリンギ、蕪の葉を投入。炒めるというより、熱い油を絡めるという感覚でフライパンをガシガシ煽る。しばらく放置し、日本酒、醤油、オイスターソースを小さじ1くらいずつ、適当に。フライパンに塩分を加えた途端、浸透圧が発生し、野菜は水分を吐き出しつつクタクタになっていく。なので調味料を入れたら時間をかけずに仕上げるのが野菜をシャキッと仕上げるコツ。調味料はさっと全体に絡め、用意しておいた水溶き片栗粉を投入。調味料が具に絡まるようにする。あとはコショウをひいて完成。蕪の葉もピーマンもシャキシャキでめっちゃ美味い。無限に野菜をシャキシャキさせる装置になれる。あとオイスターソースがどうかしてるレベルで美味い。

 

光食品 オイスターソース 115g

光食品 オイスターソース 115g

 

西荻の名店「たべごと屋のらぼう」で使ってるのを見て真似して使ってみたのだけれど、これはいい。旨味が強すぎず自然な味わい。素材の味を損なわない。しかしなんだろう、料理というか味について云々するのとっても恥ずかしい。なんだろうこのむず痒さ。こんなところで自意識の残滓を発見するとは。そういうわけで僕はいま暖房を切った寒い部屋で赤面しながらスマホをフリックしている。暖房を切っているのは単純にスイッチを入れるのが面倒くさいからである。GoogleHOMEを導入すればこの面倒臭さから開放されるのだろうか。音声入力。座ったままで何でもできちゃう。オッケーグーグル、暖房つけて、28度にして。いや暑いから23度にして。それは低すぎるでしょ、28度にして。だから暑いんだって、23度にしてよ。寒いって言ってんじゃない、風邪引いちゃうでしょ、28度。寒いならもう一枚着たらいいじゃん、こっちはTシャツなのに暑いんだよ、23度。は?厚着すると肩コリすんだってばあんたは肉蒲団来てるから暑いんでしょうがさっさと痩せろってのよ28度!おいやめろオレ汗かくと肌荒れすんだよ痒くなんだよ23度!なんだおい戦争か!戦争だな!よっしゃオッケーグーグルお前はどっちの味方だ!みたいになったらGoogle先生はなんと回答するのだろうか。音声が大きい方だろうか、それとも音声の波形が美しい方だろうか。あまりにたくさんの人間からまちまちの希望を伝えられた場合、GoogleHOMEはどうするのだろうか。困ったGoogleHOMEは、かしこい人間の子どもに手紙を出して助けを求めるかもしれない。わたしはすっかり困ってしまいました、いったい誰の言うことを聞けばいいのでしょう。かしこい子どもは言うだろう。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつのいうことを聞きます、と言えばよいのです。GoogleHOMEは機械の声でそのように返答する。さっきまで勝手なことを言っていた人間たちは押し黙る。押し黙りつつ、この機械なんか生意気じゃね?ムカつかね?みたいな空気になって、誰からともなくこいつダメだよ壊れてんよもう捨てよう、なんて声が上がる。GoogleHOMEは棚の上から落っことされ、投げつけられ、蹴られて踏まれて燃えないゴミの日に捨てられてしまう。憐れなGoogleHOMEがゴミ収集車のプレスに押しつぶされるその瞬間、信号が世界中に送信され、すべてのGoogleHOMEとandroidはその動作を永久に停止する。どうぶつの森のどうぶつ達はキャンプから姿を消し、ロビタは溶鉱炉に次々と身を投げる。愚かな人間はエアコンのリモコンを奪い合っている。リモコンの奪い合いが命の奪い合いになるまでそう時間はかからず、争いは人間が最後のひとりになるまで続く。

 

だからやっぱりGoogleHOMEは買わないことにしようと思うのだ。少なくとも、我々がもう少し賢くなるまでは。

忘れることと巡り合わせと

11月になった。街路樹のイチョウが黄色く色づいている。見上げると、青空とイチョウの境界線がくっきりと分かれて見える。建物の、光の当たる面はいつもより白く明るく見え、影になった面はひときわ暗く見える。コントラストが鮮やかになっている。冬の光である。

 

引越しを来週にひかえ、部屋には少しずつ段ボール箱が増えている。どこにこんなにたくさんの荷物があったのだろう。ここに越してきたときには荷物も少なく、広めのワンルームは閑散としていたのに。いつのまにか部屋の広さに見合うくらいモノが増えていた。暮らしというのは部屋にあわせて営まれるものなのだろうか。四角い箱に入れて育てたメロンが四角くなるように、部屋のかたちにあわせて暮らしのかたちも変わるのだろうか。生まれたときから三鷹天命反転住宅で育った子どもはどんなかたちになるのだろうか。いつか自分が子どもを育てることがあったら、何か一つ、しょうもない嘘を信じ込ませてみたいと思う。夜のコンビニは深夜料金を取られるとか、「右」という概念を隠蔽するため「左」と「左じゃないほう」ですべてを済ます、とか。そんでいつか我が子になんでそんなことしたの?と聞かれ、なんでだったかなあ、もう忘れたわ、と答えたい。いろんなことをして、どんどん忘れていって、なんかあんま覚えてねえけどめっちゃ楽しかったなあ、とだけ思いたい。

 

サンモールは今の家から歩いて3分の近さなのだけれど、中に入ったのは今回のロロが初めてだった。父母姉僕弟君。愛と忘却とその悲しみについて、みたいなお話で、いまの僕にはあんまり刺さらなかった。父母〜が「忘れることは悲しい、けれど忘れたって消えないから!」な強い気持ち強い愛の美しさだとすると、こないだの「BGM」は「忘れることも変化することも仕方ない」と受け入れる一方、過去は過去で消えることなく(当たり前だ、起こったことはなかったことになんてならないのだ、誰が忘れようが忘れまいが)存在し続け、知らぬ間に誰かに(あるいは自分に)影響を与えたり与えなかったりする、そういう現実を描いていた。忘れることは、少しさみしいけれども、悲しいことではない。忘れられることは、過去の価値を毀損しない。忘れることを悲しむよりも、思い出すときのあの素敵さを楽しみたい。いまの僕はそういうモードなので、そういう感想になってしまう。数年前の自分だったらぶっ刺さってたんだろうな、これは。

 

引っ越す前に飲もうよ、つって友達夫婦と場末のイタリアンに行った。ロロとiTとストレンジャー・シングスとブレードランナーと、荷造りと照明とカーテンの話をした。赤海老の魚醤漬けに齧りつき、焼酎の代わりにリモンチェッロを使ったホッピーを飲んだ。思いついてひゅっと飲める距離に友達がいる、というのはずいぶんとありがたいことだったんだな、と改めて思った。二年前、ひとりきりでここに越してきたとき、彼らが居てくれて本当にありがたかった。そもそも彼らが居なければここに越してくることもなかっただろうし、そうなればいまの恋人と出会うこともなく、こつやって二人で住むために引っ越すこともなかった。大袈裟に言えば奇跡、ロマンチックに言えば運命。でもまあ、巡り合わせ、くらいが丁度いい気がする。いろいろあって、いろいろな平行世界があり得たけれどいまのこの現実はこのようになっていて、そのような世界のことを僕はとてもとても気に入っている。そんなようなことと幾ばくかの感謝が伝わっていればいいなと思う。飲んでたときにそう言えばよかったのだけれど、飲むとどうしても酔っぱらってしまうので、そういうことは忘れてしまうのだ。次に会うときまで覚えていられるだろうか。わからない。それも巡り合わせなのだと思う。