bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

盛岡へ

最近の僕なんかは出来事は記録に残さずただ思い出せない記憶の海に沈んで消えていくほうが美しいんじゃないかって気持ちとそれでもぜんぶ忘れてしまったあとに思い出すあの素敵さを思うと記録残しとくのも大事だよなって気持ちの狭間でゆらゆらしちゃっていろんなことがあったんだけども結局薬局なんにも書かずに日々は過ぎていってしまうから困ったものだ。めっきり秋。踏切と遮断機。季節の変わり目。体調を崩しがちなシーズンですが皆さんにおかれましてはお元気ですか。普段文字を読んでも音声は再生されないタイプなのにお元気ですかって書くときだけは井上陽水の声で再生されてしまうのはいつになったら収まるのだろう。あのCMは昭和が平成に変わるときのころのやつだから、かれこれ30年近く症状が続いていることになる。これはもう立派な呪いと言えるのではなかろうか。広告は呪。記憶は呪い。

 

そういえばこのあいだ盛岡へ行ってきた。何をしに行ったのかというと、好きなひとに自分の好きな風景を見せたかったのだ。
f:id:bronson69:20170920221743j:image
f:id:bronson69:20170920221843j:image
f:id:bronson69:20170920222036j:image
f:id:bronson69:20170925103830j:image
f:id:bronson69:20170925103932j:image
f:id:bronson69:20170925103958j:image
f:id:bronson69:20170925111202j:image
f:id:bronson69:20170925104109j:image
f:id:bronson69:20170925104206j:image
f:id:bronson69:20170925104230j:image
f:id:bronson69:20170925104924j:image
f:id:bronson69:20170925111012j:image
f:id:bronson69:20170925105002j:image
f:id:bronson69:20170925105031j:image
f:id:bronson69:20170925105105j:image
f:id:bronson69:20170925105202j:image
f:id:bronson69:20170925105257j:image
目的は存分に達したので大変に満足。予定外の楽しみもたくさんあった。朝市(盛岡にはほぼ毎日やってる朝市があるのだ)にひさびさに行ったら青唐辛子が馬鹿みたいに安くて頭に血が上り爆買いキメてしまったり、久々の福田パンで頭に血が上りただでさえデカいコッペパンを八個も購入し一日ずっとコッペパンを食べ続ける羽目になったり、平安時代から残る浄土庭園眺めてチルアウトしてたらすぐとなりで石川さゆりの野外コンサートが始まって爆音で漏れ聴こえる津軽海峡冬景色と静かな風景とのギャップに感受性がバッファオーバーフローしたり。ほんと、楽しかった。

 

この旅行のことも、きっといつかはひとまず忘れてしまうのだろうし、そうなってからなんかのきっかけでポツリポツリと思い出すのはたいそう素敵じゃないかと思うので、いつかやってくるその日を楽しみにしている。そのときはあまりヒントが多すぎないほうがきっと楽しい。だからこの日記にも説明はあまり書かない。ただ写真が並んでいるくらいでちょうどいいのだと思う。ふたりで写真を見て、そのときの服装とか、食べたものの味とか、歩いた道とか乗ったバスとか、そういう細かいひとつひとつについて、ああでもないこうでもないとほじくり返すのが楽しいんじゃないかと思う。いつか、そんなに近くではない未来にそういう日が訪れるのを心から楽しみにしている。

 

 

 

 

ロロ「BGM」

土曜の夜。下北沢スズナリ。

 

キュートで、ポップで、大人だった。三浦直之が描き続ける「一度生まれた『好き』の気持ちは、永遠に死なない」というモチーフは、今回は過去完了進行形ではなく、過去形で表現されていた。「あの頃から好きだった、もしかしたら今でも心の何処かで好きなまんまでいる」から「あの頃は好きだった」になっていた。いわゆる「いい思い出」というやつだ。我々の多くがそうであるように、舞台の上の彼らにとっても、思い出は音楽と分かちがたく結びついている。奏でられる音楽は、思い出と結びついて、自分の背中を押してくれたりするし、誰かの背中を押したりもする。そうやっていつかの「好き」の気持ちは生き続ける。既に終わってしまった恋は、カチカチの化石になって、それでも優しい熱を放ち、誰かの心をあたためてくれる。

特別な思い出は、「好き」の気持ちにだけ宿るものではない。 仲良しの友達と過ごしているときの、どうってことなくてグダグダでめちゃくちゃ楽しいあの空気感、そのときはなんにも特別じゃないのに、きっといつかきょうのことを思い出してめちゃくちゃ特別だったなって思うような時間、なんてことなくてさりげなくて思い出そうとすると思い出せない数々の出来事、小沢健二が「さよならなんて云えないよ」で「本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると そして静かに心は離れていくと」と歌ってる「美しい日」のこと、そういういつか本当に大切な思い出になるであろう時間が、舞台の上にはっきりと現出していて、何度か泣きそうになってしまった。

 

この日は大学時代からずっとつるんでる友人が一緒だった。終演後、飲みに行って、自分たちの「あのころ」の話をしたのだけれど、あまりにも思い出せなくて、そのことに笑った。そういえばあのころの僕らは「後から思い出せないようなくだらないことばかりを過ごしたい、くだらないことでゲラゲラ笑ってそれだけで消えてく毎日だったらいい」なんて話をしていた。現実にそうなってみると、ふはは、それも良し悪しだねえ、そんな話をしながら、台風の近づいてくる新宿で、ダラダラと飲んでいた。

 

 

小沢健二「フクロウの声が聞こえる」

まとまらないけど、徒然と。

 

初めて聴いたのは、「魔法的」ツアーの東京公演。まるでアッパーな賛美歌のような、祝祭的で神聖でどこまでも優しい歌に、棒立ちになってただただ涙していた。なんとか音源で聴きたい、と思っていたら、たったの一年三ヶ月で発売の運びとなり、しかもSEKAI NO OWARIとのコラボまで発表され、自分がどういう感情を抱いているのか自分でもよくわからなくなり、例えて言うなら味の素を知らないひとに味の素の味を説明しようとしているときのような気持ちでむむむとなっていたら、発売日前日の朝に音源が届けられた。

 

正直に言うと、最初は戸惑いがあった。無声音が強く感じられどこか寂寥感を覚える小沢健二の声と、のぺっとして甘いFukaseの声はあまり相性がよくないように感じられたし、セカオワっぽさの強いアレンジも、なんだかディズニー映画の主題歌のようでチャイルディッシュに聴こえた。ライブで感じた荘厳さが小さくなってしまったように思えた。

 

けれど、何度も何度もリピートしているうちに、ストンと腹落ちした。この曲のFukaseは、りーりーなんだな。小沢健二の愛息子の凛音くん。この歌は、Fukase演ずるりーりーと、健二パパの歌なんだ。「晩ごはんのあとパパが散歩に行こうって言い出すと、チョコレートのスープのある場所まで!と、僕らはすぐ賛成する」歌い出しの歌詞からしてそうでしかあり得ない。なんで気がつかなかったのだろう。そうだとすると、何故セカオワなのか、何故Fukaseなのか、全部がはっきりと理解できる。この曲が父と子のデュエットであるから、子どものような声を持つFukaseが必要だったのであり、この曲が優しいフェアリーテイルであるから、そのような世界感を保ち続けているセカオワが必要だったのだ。

 

この曲はフェアリーテイルである、とはどういうことか。それは、この曲が我が子に向けた世界のガイドブックになっている、ということだ。世界がどういう場所であるかを伝え、世界が生きるに値する場所であることを伝え、これから世界に出ていく我が子に最大限の祝福と勇気を与えること。

ヴィトゲンシュタイン曰く、世界とは可能世界の総体である。同じことを岡崎京子は「pink」でこう書いている。「この世は何でも起こりうる 何でも起こりうるんだわ きっと どんなひどいことも どんなうつくしいことも」。この世界ではどんなことでも起こり得る。想像を超える悲劇と想像を超える奇跡が同時に起こる。世界とはそういう場所である。世界はありのままに残酷で、ありのままに美しい。

この世界に起きる奇跡の中で最大のもの、それはわたしたちが存在するということである。存在には理由がない。根拠がない。意味もない。私たちは、すべてのものは、ただ存在する。世界は無根拠な存在を承認している。それは途方もない奇跡である。無条件の承認を愛と呼ぶなら、私たちは存在するだけで世界に愛されていることになる。存在が奇跡だと認識するならば、世界は奇跡で溢れていることになる。見えないどこかで鳴いているフクロウ。静かに幹を揺らすプラタナス。チョコレート色の池で音を立てて跳ねる魚。そのすべてが奇跡であり、愛であり、だから世界はありのままで美しく、その美しさはそのまま私たちの美しさでもある。その事実は、私たちを強く強く勇気づける。残酷さや悲しみに耐えるだけの力を与えてくれる。それでもどうしようもなく悲しいことや辛いことがあり、打ちのめされてしまうときは、クマさんを持って眠ればいい。誰もが自分だけの大切なクマを持っている。それは親に与えられるものかもしれないし、自分で見つけ出したものかもしれない。クマさんを抱えて(あるいは抱えられて)しっかりと眠り、しっかりと食事をとる。それさえ出来れば、あとは恐れることなどないのだ。

 

この曲は、小沢健二版の「バナナブレッドのプディング」なのだと思った。大島弓子がバナナブレッドのラストで書いていたあれだ。長いけどまるっと引用。

おかあさん ゆうべ 夢を見ました

まだ生まれてもいない赤ちゃんが わたしに言うのです
男に生まれたほうが生きやすいか
女に生まれたほうが生きやすいかと

わたしはどっちも同じように生きやすいということはないと答えると

お腹にいるだけでも こんなに孤独なのに
生まれてからは どうなるんでしょう
生まれるのがこわい
これ以上ひとりぼっちはいやだ というのです

わたしは言いました。
「まあ生まれてきてごらんなさい」
「最高に素晴らしいことが待ってるから」と

朝起きて考えてみました
わたしが答えた「最高の素晴らしさ」ってなんなのだろう
わたし自身もまだお目にはかかっていないのに

ほんとうになんなのでしょう
わたしは自信たっぷりに子どもに答えていたんです

 

この世界ではどんなことでも起こり得る。世界はどこまでも広く、どこまでも深い。自分の想像の及ばないところにも世界は広がっていて、そこではフクロウが鳴いたり大きな魚が跳ねたりしている。美しいことだけでなく、恐ろしいことも起こるけれど、そのときはクマさんを持って眠ればいい。この曲は祝福の歌なのだ。父から子へ、世界が存在することの素晴らしさを伝え、これから世界に向かって扉が開かれていくことを祝福する。世界と我が子を丸ごと言祝ぐ、神のいない賛美歌。

 

それにしても今夜のMステ、最高だったな。もう何度もリピートして見てる。ボーカル二人のバランスがめっちゃ良くなってる。音源よりMステのほうがずっと好きなんだけどこれはどういうことだ。Mステバージョンで音源出してくれたらもっぺんお金出す。ああ、配信でいいんだけどなあ。やってくれんかなあ。

 

 

夏の終わり

しばらく書いてなかった。ぼやぼやしていたらずいぶん間が空いてしまった。ぼやぼやしすぎて危うく誰かのいい娘になっちゃうところだった。危ない、危ない(福田和子のモノマネで)。最近の若者は福田和子のモノマネでは笑ってくれない。悲しい。しかし人が老いるのは自然の摂理である。人は老いる。死ぬ。そして生まれる。世代は常に更新され続けている。そういうふうにできている。だからまあ、仕方ないことではあるのだ。これから福田和子のモノマネで笑ってくれる人はどんどん減っていく。そのことを受け容れるしかない。悲しいなあ。別に悲しかないけれど、ううん、悲しいなあ。

 

お盆からしばらく、東京はおかしな天気だった。低く垂れこめた濁り雲。湿った空気がひやりともぬるりとも感じられる。肌寒いな、と感じつつ、少し動くと汗が滴る。晩夏であるが、残暑ではない。残暑の暑だけどこかにいってしまい、湿度だけが残っている。残湿である。響きが良くない。粘着質で諦めの悪い感じがして嫌ったらしい。秋になるならさっさと秋になればいい。夏でもなく、秋でもなく、ただべったりとした空気と疲労感だけが漂うこの季節をなんと呼べばいいのだろう。そんなことを考えていたら、8月も終わりの今になって残暑らしい残暑が戻ってきた。去りゆく夏を惜しむような残暑。

 

思い出してつれつれと書いてみる。ドラクエ113DSでプレイ中。一応ラスボス?は倒して、いまはクリア後の世界を楽しんでいる。昔よりかんたんになった気がするのは僕だけだろうか。レベル上げやら資金稼ぎやら、そういう作業をやらなくてもストーリーを進められるようになっている。レベルがかんたんに上がるので、適当にやっていても適正なレベルになってしまう。それゆえギリギリの冒険の切迫感みたいなものはあまり感じられず、堀井雄二のセリフとストーリー、それと過去作品のオマージュを楽しむゲーム、というふうになっている。それで充分に楽しいからそれで構わないのだけれど。この先、裏ボスを何ターンで倒すか、みたいになってくと難易度が上がるのだろうか。鈴本演芸場のさん喬・権太楼特選集は今年も素晴らしかった。やはりメンバーが充実しているときの寄席は最高だ。行ったのが今年も日曜だったので、終演後に上野グルメを楽しめなかったのが心残り。美味しいインド料理やら中華やらとんかつ屋やら上野には良い店がたくさんあるのだけれど、日曜はどこも閉まるのが早いのだ。来年こそは土曜にしよう。「やすらぎの郷」の展開にマジでダメージを受けた。今日び、婦女暴行をあんなふうに描いて許されるのか。若者をしばくかっこいい老人を描く、そのためのダシとして婦女暴行を扱い、またその扱い方も極めて粗雑。被害者は事件のことを伏せたくて被害届も出さなかったというのに、施設の職員も入居者も、噂をガンガンに広めていく。それは良くないことだ、というエクスキューズは一切ない。散々噂話を広めておいて、「今後あの娘にどう接したらいいのかな、知らないふりするしかないわよね」「あたしそういうの嫌だな、みんな知ってるのに知らないふりされるの、わたしだったら辛いな」このやり取りはマジ胸糞だった。みんな知ってるっていうその状況自体がおかしい、とは誰も思わないのか。入居者の老人たちはともかく、若い職員たちまで噂してるのは何なんだ。思えば倉本聰の作中での女性の扱いは昔から本当にひどい。「北の国から」のつららちゃんとかシュウとか。倉本聰はおじいちゃんだからもう仕方ないのだとしても、テレ朝にはこれを止めるスタッフはいなかったのか。とにかく悲しくなってしまった。それに引き換えNHK土曜ドラマ「悦っちゃん」の素晴らしさよ。ロクさんはユースケ・サンタマリアの役者人生でもナンバーワンのハマり役なのではなかろうか。才能豊かなインテリの作詞家であり、ヘラヘラしたお調子者であり、それでいて一本芯の通ったイイ男でもある。これはモテる…こんなもん全盛期のヒュー・グラントやんけ…と思いながら毎週土曜を楽しみにしている。あと門脇麦小雪に似ている。小雪から般若をひいて鳥を足すと門脇麦になるのだと思う。三鷹で観たままごと「わたしの星」もとても良かった。不在を埋めあわせる、ということ。伝えられなかったこと、受けいれてもらえないこと、どうにもならないこと。それら全てを、お芝居という虚構の中で解決する。しかし、高校生のダンスシーンというのはなぜあんなにもグッと来てしまうのだろうか。去年の「魔法」に続いて、この夏もまんまと泣かされてしまった。音楽も振付けも最高だった。良すぎたので10月のフェスティバル・トーキョーのチケットも購入した。ナカゴーもあるしロロもあるし「を待ちながら」もあるし木ノ下歌舞伎もあるし、観劇予定がどんどん入ってくる。やりくりが大変だ。家を探しに下北沢へ行って、旧ヤム邸に並んでカレーを食べたりもした。
f:id:bronson69:20170829012348j:image

 これが物凄く美味しかった。美味しくて、自由だった。好きなようにスパイス使っていいんだな、と思えた。やや大げさだけれど、カレーの世界観が広がる一皿だった。あとは何をしていたのだっけ。友人との酒の席で醜態をさらして自己嫌悪に陥ったり、青野菜(しし唐、オクラ、ゴーヤ、青唐辛子などなど)を使ったカレー作りにハマったり、石ノ森章太郎佐武と市捕物控」を衝動買いして格好良さに痺れたり、そんな感じだろうか。基本的に朦朧としていた。何しろ真夏のカレーづくりは暑いのだ。玉葱やら大蒜やら生姜やら唐辛子やらの刺激物を強火で炒めるわけなので、キッチンはスパイシーサウナになる。やってるとすぐに汗だくになる。本気で朦朧としてくる。朦朧としてるうち翻弄されてしまう。彼女曰く、僕の部屋にはスパイスの香りが染みついているそうだ。自分では全然わからないんだよなあ。引っ越すとき、余計に敷金とられなければいいのだけれど。

 

 そういえば花火大会にも行った。花火は見たいが人混みは苦手だ、という話をしていたら、ならわたしの地元においでよ、そりゃ少しは人出もあるけれど、東京とくらべたら無みたいなもんだよ、無だよ無、無人の荒野に花火だけが打ちあがってるようなもんだよ、浴衣着るから一緒にいこうよ、と誘われ、ホイホイと誘いにのった。自宅から電車で一時間と少し、千葉の内陸の住宅街。駅の近くで待っていると彼女から連絡。浴衣の着付けに時間がかかってる、それに道路も混んでるから遅れそう、始まるまでに間に合わないかもだから、花火の見えるところで待ってて。それで打ち上げ会場の方へ歩いていくと大きなイトーヨーカドーがあり、その駐車場のはしっこの歩道の縁石のところにたくさんのひとが腰かけていた。一人分のスペースがあったので、僕もそこに腰をおろし、カップルや中学生や親子連れに混じって夜空を見上げた。僕のとなりには、中学生らしい女の子がふたり座っていた。彼女たちは、目線を空に向けることもなく、ヨーカドーで買ったらしいフライドポテトをつまみながら同性の憧れの先輩について話をしていた。先輩がいかに美人か、いかに聡明かを語り、先輩と会話できた放課後のひとときの素晴らしさを確かめあっていた。彼女たちにとっては、花火よりそのひとときの方がよほど輝いているようだった。僕はその声を聞きながら、電線越しに花火を見上げていた。
f:id:bronson69:20170828234933j:image

それから、素敵な浴衣をきちんと着付けた彼女と合流し、花火を見上げながら住宅街を歩いて会場へ向かった。あ、ここは小学校の同級生のなんとかちゃんの家だよ、その子とはふたりで秘密の祭壇を作ったの、空き地の片隅にこっそり祭壇を作ってふたりでお祈りしたりしてたんだよ、こっちはなんとか君の家だ、ここはあのころはバレエ教室だったんだよ、そういう話をたくさん聞かせてもらった。次々に打ち上がる花火の真下、住宅街の路地裏が赤や青に照らされては消え、彼女の浴衣姿は艶かしく、まるで終わらない夏休みの夢を見ているような、そんな心地だった。

 

2017年の夏の終わりは、だいたいこんな感じで流れていった。 

夏の亀、冬の熊

暑い。だるい。間違いない。毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌んなっている。もちろん実際は焼かれてはいない、焼かれてはいないのだけれども、これだけ暑いのならばそれはもう鉄板の上で焼かれているのと同じことではないだろうか。そして何より重要なのは、「嫌んなっている」という事実だ。何を嫌んなっているのか。全てである。暑さから端を発して、いまや全てが嫌んなってしまっている。要するに夏バテだ。肉体的な消耗を経て、もう精神的にもバテてしまっている。やる気が起こらない。引きこもりたい気分で満ち満ちている。引きこもりたい。狭い空間に引きこもって、丸まったまま夏をやり過ごしてしまいたい。部屋ではダメだ。まだ広すぎる。もっとみっしりした空間がいい。亀がいい。亀になりたい。亀になって、自分の甲羅に引きこもりたい。頭と手足を甲羅に引っ込め、もっと深く深く引っ込め、そのまま奥へと入り込み、奥へ奥へと進んでいって、奥の奥のどんづまりのところで一枚の扉を見つける。扉には何か文字が書いてある。なんと書いてあるかはわからない。「この扉をくぐる者、一切の望みを捨てよ」かもしれないし、「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」かもしれない。ただ単に「使用中」とだけ書いてあるかもしれず、もしかしたら居住者の名前を記した表札が貼り付けてあるのかもしれない。何れにせよ、文字を読んだぼくは戸惑う。扉に対する態度を決めあぐねる。礼儀正しくノックをするか、隠れて様子を伺うか、開かぬように釘で打ちつけるか。迷いながら扉を見つめ、向こう側の気配を探る。想像する。開けた先の景色を想像し、その様々のどれもが想像の範囲内であることに落胆する。目をつむり、扉に背を当て、思いもよらない何かについて思いを馳せる。そうするうちに、思いはぐにゃぐにゃと形を変え、ひとりでにどこかへ向かって転がりはじめる。空想と夢の境目が曖昧になっていく。真夏の夜の夢である。

 

相変わらず部屋探しを続けている。スペックで検索し、スペックで比較し、相対的に優位な部屋を抽出する一連の作業を繰り返しながら、恋に落ちるのを待っている。結局、相対評価では決められないのだ。もっと探せばもっとよいスペックの部屋が見つかるかも、と思い続けることになってしまう。何しろ選択肢は無限だ。通勤圏内にあるすべての部屋が居室として立ち上がってくる。ならばもう恋しかない。好きになるしかない。理屈ではないところに行きつかなければならない。部屋を探すときはいつもそうだ。熊じゃなくてよかったな、と思う。熊だったらどうやって巣穴を探しただろう。冬眠のための巣穴。大きな樹のうろ、岩と地面の隙間、誰かが掘って使い捨てた穴。いくつもいくつも候補を巡って、しかし決めきれず、秋も深まりいい加減に冬眠せなあかんぞ、というころになって相対的に高評価の穴にいくも既に別の熊が寝ていたりして、雪の中をさまよう羽目になるのかもしれない。そうなってしまったら、かまくらを作ることにしよう。大きな大きなドーム型の雪山を作り、水をかけ、一晩待つ。雪山が凍りつき、ガチガチに固まる。それを掘り進めていく。入り口は小さく低く、室内は広く高く。壁には小さく神棚をつくり、みかんやどんぐりをお供えする。小さな入り口から大きな身体をねじこんで、壊れた部分は内側から補修し、暖かな室内で眠りにつく。もしも熊になることがあったら、そういう冬眠をしたいと思う。熊は冷凍都市での暮らし方を知っている。暖かい場所を確保して、あとはたっぷり眠ればよいのだ。

海の続き、備忘録

土曜の海の続き。結局、海にいたのは8時すぎから12時の手前まで。3時間半もぼんやりと海を見ていたことになる。2.5リットルのビール、サングリアの小びんを一本、それとブルボンのおいしいココナッツミルク。それらをすべて飲み干し、そのほとんどを汗で失い、おおよそプラスマイナスゼロの状態で浜辺を後にした。葛西臨海公園駅からバスで葛西駅に移動し歩くこと5分、前から来てみたかったインド料理のお店「レカ」へ。線路沿いの住宅街の一角。店の向かいには駐車場と謎の鳥居。

 
f:id:bronson69:20170802002306j:image

鳥居と参道と灯籠があり、社がない。バカには見えない神社なのか。それともその昔、悪い大工が「徳の高い神様にしか見えない最高級の神社ですよ、神さまにはもちろん見えてますよね」などと甘言を弄してご利益だけせしめようとしたのか。事情はわからないが、とにかく鳥居と参道と灯籠と、それから美味いインド料理屋だけがここにはあるのだ。

 
f:id:bronson69:20170802003214j:image

美味いインド料理屋は美味いだけでなく親切なので、遠方のお客様向けに、4種の日替わりカレーとチャパティに加えてビリヤニまでも楽しめるスペシャルセットがある。このビリヤニがめちゃくちゃ美味い。カレーももちろん美味しいのだけれど、でも僕がもう一度この店に行くときは、ビリヤニを単品で頼みたい。そのくらい美味しい。あとチャパティも美味しかった。半分くらい、カレーをつけずにチャパティだけで食べてしまった。この店は炭水化物のクオリティが非常に高い。大満足で食事を終え、店の片隅の物販コーナーでちょうどなくなりそうだったホールスパイスをいくつか購入し、上機嫌で帰路につく。海辺の日差しと本場のカレーでたっぷりと汗をかいたので、こりゃあとは銭湯だな昼風呂だな、きっちり仕上がったら鰹で日本酒でもキメたろかな、そんな悪だくみをしながら帰宅、気づいたら倒れて爆睡、起きたら夜で外は豪雨。新宿は豪雨。銭湯は後から考えることにして、とりあえず服を着替える。日に焼けた腕がむず痒い。しかし腕なんぞ問題にならんレベルで足の甲がむず痒い。見るとサンダルのベルトの型にくっきりと日焼け。そういえば足の甲には日焼け止めを塗り忘れていた。手足も顔も首筋もバッチリだと思っていたのに。いまなら耳なし芳一の体にお経を書いた和尚様の気持ちがわかる。そっかー、耳かー。耳なー。だよなー。あー。

 

あと備忘録的にいくつか最近あったことを。ダイアログ・イン・ザ・ダークに行ってきた。真っ暗闇の中を、初対面の数名でチームを組んで、視覚障害者のガイドに従って進む、という体験型エンタテインメント(?)。なんかちょっと意識高い感じというか、研修みたいな、「気づき」を得て帰りましょうね、みたいな空気を漂わせているやつなのだけれど、そういうのは置いといて、エンタテインメントとしてとても面白かった。ドラクエやってるような気持ち。たまらないワクワクと冒険心。視覚がまったく役に立たない世界を、白杖の触覚と声による情報共有だけで進んでいく。丸木橋を渡るだけですげえ楽しいのだ。震えるほどの感動はないし、世界観が変わることもなく、新たな気づきといえば「暗闇は楽しい」くらいのものだったのだけれど、それで充分!と胸を張って言えるくらいには楽しかった。

体験の最後、少しだけ明るい部屋があった。大きなテーブルとイスがあり、腰を下ろした我々には丸いカードとペンが配布された。今回のワークショップのテーマは「出発」でした、出発という言葉でみなさんはどんなことをイメージしますか、頭に浮かんだ言葉をカードに書いてみてください。ガイドさんが言った。僕は少し悩んで、遅刻、と書き、少し書き足して、遅刻寸前、とした。遅れそうになることはままあるが、本当に遅れてしまうことはあんまりないのだ。ピチカート・ファイヴの歌に出てくるあの言葉、飛行機に間に合えばそれはそれでいいんじゃない、あのフレーズの通りにこれまでを過ごしている。いつもギリギリではあるけれど、どうにかこうにか間に合い続けているのだから、それはそれで、いいんじゃない。

 

浅草でやってたナカゴー「ていで」の初日を見た。七時半開場、仕事を終えて劇場付近に着いたのがちょうど七時半、お腹はすいているけれどしっかりした食事をとるほどの時間はない、さてどうしたものかと考えながら歩いていると、劇場の並びにかなり年季の入ったラーメン屋を発見。半オープンエアーのその佇まいに押されつつも意を決して食券を購入。冷やし中華は可もなく不可もないお味、しかし冷水機から汲んだ水は少量を口にしただけで脳が反射的に拒否する味だった。飲まれることを拒否する水。岡本太郎イズムだろうか。そういえばカウンターの椅子も傾いてグラついていたな、あれはいずれ座ることを拒否する椅子になるのだろうな。お芝居は、うん、とても面白かった。けれど、何ていうか、普通に面白かった、という感じ。なにこれこんなもの見たことない、なんだかすごいものを見てしまった、みたいな感じにはならなかった。相性なのか、集中力か、読解力か、それとも初見で文脈が共有できていないからなのか。なんだかわからないけれど、きっちり味わえていない感じがしてとても悔しい。多くのひとが味わっている美味しさを自分だけ理解できてないみたいなこの感じがとてもとても悔しい。あの水のせいだろうか。あの水を含んでしまったせいで、味覚が狂ってしまったのだろうか。うーむ。別の公演も見てみたいなあ。

 

まだ何かあったような気もするけれど、7月の終わりは、とりあえずこんな感じだった。

 

くもりガラスの夏

土曜日。フジロックに向かう彼女を見送り朝6時、部屋にひとり。二度寝する感じでもなく、何をしようか酒でも飲むかと考えて、唐突に気がつく。今日だった。年に一度くらい、何があったというわけでもなくただ海が見たくなることがあるのだけれど、今日がその日だった。気がついたら居ても立ってもいられなくなり、洗濯するつもりだった青いアロハを引っ張り出す。くしゃくしゃのアロハに袖を通し、紺色のステテコを履く。敷物とモバイルバッテリーとタオルと財布、「summer,2013」とプリントされたくたくたのトートバッグに放り込み、鍵の横にあった古い古い日焼け止めも投げ込んで、駅までおんぼろの赤い自転車を漕ぐ。早朝の光。早朝の空気。心が膨れ上がっていく。どこの海に行こうか。人のいないところへ行こう。せっかくの休みなんだから。

 

空いた電車に揺られること三十分、葛西臨海公園NEWDAYSでは生ビールを280円で売っている。せっかくなのでそれを一杯、あとロング缶を何本かとサングリア、それにブルボンのおいしいココナツミルク。よく冷えた生ビールを飲みながら浜辺へ向かう。まだ水族館も開いてない時間、公園には犬の散歩とランナーくらい、よこしまな思いを抱いているのは僕だけかな、それにしてもビールが美味い、心なしか酔うのも早い、寝起きでなんも飲んでないから吸収効率がいいのかな。いまの俺はスポンジか、はたまた海綿脱脂綿、水分そそげばなんでも吸うぞ、矢でも鉄砲でも持ってこい、できればビールも持ってこい、あとは冷やしたキュウリなんかいいな、気ぃ使わないでいいからね、あったらでいいからね。

f:id:bronson69:20170729101018j:image

海に来ていつも思うのは、海よりも空のほうが大きいのだということ。汐風、海の匂い、遠くに見える大型船、それだけでは海じゃなくて、どこまでも広い球形の空、綿のような低い雲と膜のような高い雲、強くなったり優しくなったりする光、そういう全部がひっくるめて海なのだということ。ひとのいない浜辺、イヤホンから流れる音楽、冷たさを保ったビール、遠くにはウィンドサーフィンの群体が行進する、ベンチに寝転んで空を見る、高い雲から低い雲に濃い灰色が降りているのが見える、あれはダウンバーストだろうか、それとも雲の上に夕立ちが降っているのか、もしかしたら上昇気流かもしれない、時間とともに気温は上昇していく、ロードショーは続く、真っ黒い鳩は石の上に留まる、海の真逆を向いて留まる。


f:id:bronson69:20170729102829j:image

写真を撮ると音楽が止まる。イヤホンを外し、波の音を聴く。遠くに羽田を立つ飛行機の音がする。雲の中を飛ぶ飛行機の音。姿は見えず音だけが聴こえる。音をたよりに雲の真ん中を見つめていると、遠くの雲の切れ間からひゅっと飛行機が顔を出す。飛行機は音よりも遠くを飛んでいる。早く、早く、早く遠くまで行かなくちゃ。飛行する君と僕のために。

 

 太陽が高く登る時間になっても人はほんとに疎らで、いるのは親子連れのファミリーばかり。水泳帽のおじいさんが沖合を精力的に泳いでいる。幼子は波打ち際で遊んでいる。泳ぐ準備なぞしてこなかったであろう夫婦の父親が、膝をまくり、娘を抱いて海へ入っていく。膝丈のところでほんの一瞬躊躇して、しかし迷いはなく、そのまま服を濡らして海へ行く。幼い娘の服を濡らさぬよう、けれどなるたけ海を味わえるよう、注意深く海と娘を繋げていく。母親は浜辺からそれを見ている。笑っている。娘はなにを見ているのか、僕のところからはわからない。父親は胸まで海につかっている。風が微かに吹いている。縮緬の波が水平線まで続いている。遥か遠くにゆっくりと鳥が飛ぶ。雲の切れ間から太陽が顔を出す。直射日光が肌を焼く。高く高くゲイラカイトが上がっている。どこか遠くに白煙のようなものが見え、ヘリコプターが離着陸を繰り返す。視界の隅で魚が跳ねる。海と空とその間と、見えるすべてが騒がしく、それでいて平穏である。

 

物心ついてからずっと、世界に違和感を感じていた。あらゆるものが奇妙なかたちに見え、すべてに慣れることがなかった。夢なのだと思っていた。この世界のすべてが、空も海も友人も家族も自分も、すべてが起きたら忘れてしまうような荒唐無稽な夢で、夢だからあり得ないようなかたちをしているのだと思っていた。夢を見ている自分もまた、いまの自分からは想像もつかない得体のしれない何かなのだと思っていた。いまここにいる自分と夢を見ている自分、それらはまったく結びつかないもので、お互いに想像することすらできない別の世界の存在なのだと思っていた。そうでなければこの違和感は説明がつかない、そう思いながら、エイリアンの眼で世界を見ていた。

 

海を見ていたらなぜだか急にそのことを思い出した。思い出したら、エイリアンの眼まで蘇ってきた。世界が初めて見るもののように思えた。それでも風は心地よく、空と海とはどこまでも広く、サングリアは甘く鼻腔を擽った。どうでもいいや、と思った。ここは気持ちいい。だから何でも構わない。もう少しだけお酒を飲んで、ベンチに身体を横たえて、空だけを見て、それから目をつむるなり、本を読むなりして、葛西へ行ってカレーを食べて。

 

目を覚ます。身体を起こし、あたりを見回す。寝ていたのはつかの間のことのようだった。霞がかかったように景色がかそけく見える。いやにいい具合に視界がぼやけるな、と思ったら、メガネがベタベタに汚れているだけだった。レンズを拭いたら、海辺の景色がクリアに見えた。メガネのせいで過剰に夏に見えていたのかな、と思ったけれどそんなことはないようだった。くもりガラスの向こう側、夏はきちんと夏だった。