bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

今週は咳ばかりしていた。仕事をしているときも、大人買いしたBANANA FISHを読んでいるときも、通勤電車でオードリーのANNのふかわりょうゲスト回を聴いているときも、のべつまくなしに咳ばかりしていた。風邪をひいてからはそこそこ時間も経っており、もはや特に喉が痛むわけでも気道がゴロゴロするわけでもないのだけれど、ただ咳の気配みたいなものだけが胸もとに残っており、その気配が濃くなるとゲホゲホと咳が出る。さらに三回に一回くらいの割合でゲッホゲッホと咳の発作みたいなものを誘発し、そうなると呼吸も苦しいわ音も動作も大きくなるわ、しんどさと周りの人への申し訳無さとのダブルパンチで肉体的にも精神的にもだいぶ削られてしまう。夜中にいきなり発作が起きたときなど、隣の彼女を起こしてしまうし心配させてしまうしもちろん自分もしんどいし、そんなこんなで布団に入るのが憂鬱になるほどだった。何度かそういう夜があってから、夜更けに咳が収まらないときは、なるべく静かに寝室を抜け、リビングで毛布をかぶって横になるようにしていた。発作がくると、身体をくの字に曲げて、ホットカーペットの上で心ゆくまで咳をした。苦しかったし寂しかったけれど誰かを起こしてしまう心配だけはしなくて済んだ。息つぎの間を与えてくれない咳の連撃に耐えながら、「咳をしても一人」って山頭火のあれは「咳をしても一人(だから思う存分咳き込んでもよい)」なのかもしれんな、などと思った。

 

咳は気まぐれで、まるで出ないときもあれば、咳止めの薬を飲んでもおかまいなしに出続けるときもあった。咳の発作が酷いとき、ゲホゲホエッホウエッホゲエエエエッホゲッホゲッホと絞り出すように咳をしながら、酸欠でビリビリと血走る頭の片隅で、この咳がなんのために存在するのか考えていた。引っかかるものもなく、異物感も排出すべきものも何もないのに、なぜこうも執拗に咳が出るのだろう。僕の気管支が鈍感なだけで、本当は何かがひっかかっているのだろうか。このままゲホゲホと咳をし続けていれば、いつかひっかかっている何かが出てくるのかもしれない。ピッコロ大魔王の卵のように?でも卵ではあまりに荒唐無稽だ。せめてもう少し身近なものであってほしい。ビアグラスとか、プラスドライバーとか、鍵とか指輪とか。どうせなら何かしら意味があった方が楽しい。咳きこんでビアグラスを吐き出し驚愕したその数日後、そのうち行ってみようと思っていた近所のクラフトビール屋さんが閉店していたことを知る。しばらく後、プラスドライバーを吐き出した翌日、緩んだネジを締め直さなくては、と思いながら騙し騙し使っていたテーブルが破損する。僕は気付く。もしかして、僕が吐き出しているのは、すぐにどうにかしないと手遅れになってしまう何かに関わるものなのではないか?それから数日後、発作のあとに僕が吐き出したのは、誕生日に彼女に贈った指輪と、見覚えのない鍵だった。僕は激しく混乱する。とても不吉な予感がする。いったい何が手遅れになろうとしているのか?僕はいま、何をするべきなのか?わからない、わからないけれど走り出せ、手遅れになる前に走り出せ、たぶんすぐ咳きこんで走れなくなるだろうけど、いいからとにかく走り出せー。例えばこんなお話はどうだろう。知らんがな。

 

眠れない夜を過ごすため、Netflixであいのりを見るなどした。みんなええ子やの、がんばりや、がんばりや、という気持ちで見守っていたらあっという間に最新話に到達してしまった。シャイボーイの恋はどうなるのだろう。上手くいってほしいと思いつつ、「一人になりたい」と言ってる女の子を無理やり追いかけてそれでなんとかなっちゃうみたいな成功体験は獲得してほしくないぞ、とも思うわけで、アンビバレントで引き裂かれちゃっている。かすがの表情も、喜んでんのかしんどさが極まってんのか何とも読みとれない感じだったし。スタジオでベッキーが「あれは超レアケース!女の子が一人になりたいって言ってたら一人にしてあげて!」って言ってたの聴いて救われた気持ちになった。ベッキー河北麻友子のコンビは最高だ。ノリが洋ドラの女子のそれ。河北麻友子を初めて好きになった。男子たちが分をわきまえてる感じもいい。オードリーにはいつまでもあんな感じで居てもらいたい。あともうひとりの男子の名前がどうしても覚えられない。申し訳ない。

 

迷ったけれど、咳がひどくなったら退席することにして、範宙遊泳の「もうはなしたくない」を見に行った。咳止めを重ねがけして、龍角散を口に放り込み、膝の上に温かいお茶のペットボトルをスタンバって口元にタオルハンケチをあて、そのままの態勢でなんとかラストまで乗り切った。女優さんたちのお芝居(大人っぽい島田桃子さん、初めて見たけどとても素敵だった)や衣装、セリフ回しの巧みさなんかには本当に唸らされた、けれど肝心のストーリーの部分で納得が行かないところがあった。ラストに至る流れで、やや男性恐怖症的な登場人物が、初対面の男性に無理やり押し倒されるシーンがある。彼女は激しく怯える。他の女性は、それがたいしたことではないかのような物言いをする。怯えた彼女は部屋を飛び出す。走って逃げようとする。他の女性は逃げる彼女を追いかける。追いかけて、追いかけて、走り疲れて、「わたしたちはみんな違う、みんなおかしい」と言いながら手を繋ぎ、カラオケに行く。ここ、納得いかなかった。手、繋げないでしょ。酷いことをされたとき、そんなのたいしたことじゃないよ、と言ってくる人とは、手を繋げないでしょう。走り疲れて思い出語るくらいのことでは、手を繋げないでしょう。そんなとってつけたようなシスターフッド、嘘でしかないでしょう。やりたいことはわかる。要するに「みんな違ってみんないい」だ。人それぞれいろんな性癖があり、性指向があり、それは必ずしも理解し合えるものでもなく、また理解し合う必要もない。けれど理解し合わなくても繋がることはできる。一緒にいることはできる。私は私の、私たちの性について、もう話したくない。けれど、私はあなたをもう離したくない。それがやりたいのはわかる。でも、あれは嘘だ。タイトルに引っ張られたのだろうか。「もうはなしたくない」というダブルミーニングがきれいに決まりすぎたから、それに合うラストにしてしまったのだろうか。あの子はあのまま逃してあげてほしかった。あの子の被害感情を、そのまま認めてあげるか、認めないなら逃してあげてほしかった。

 

あとそうだ、この週末はカレーが美味しかった。高円寺のかりい食堂さんでチキンカレーと出汁ャブルな牡蠣のカレーのプレートをお昼に食べ、
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夜は西荻窪の大岩食堂でポークビンダルーと牡蠣カレーのミールスを食べた。


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ウールガイが美味しいカレー屋さんは間違いのないカレー屋さんだと思う。n数こそ6とかそんなもんではあるが、これはもう法則だと断言してよいのではないか。しかしお店でウールガイを食べるときはほぼ100パーセントの確率でカレーも一緒に食べているわけで、せっかくの法則も活用の機会がどこにも見当たらない。何とも残念な話である。