bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

土曜日

なんとなく書きたいことがあるようなそんな気がして、けれど何を書きたいのかは皆目検討もつかず、とりあえずやってみっか、で指を滑らせている。西荻は夜の八時。嘘みたいに夜の八時。目が覚めたのはたしか朝の八時くらい、遮光カーテンを閉めた真っ暗なベッドでだらだらとAmazonサイバーマンデーの様子やJリーグの移籍情報なんかをだらだらと眺めていたら瞬時にお昼、のそのそと起きてお茶をいれ、くるみのベーグルにはクリームチーズとスモークサーモンを挟み、クランベリーのベーグルにはりんごバターをたっぷりと載せ、ちぎっては投げ、投げては食べ、水曜日のダウンタウン、ゴッドタン、クレイジージャーニー、いろはに千鳥と録画を消化し、よく見聞きし、わかり、そして忘れず、出かける彼女を見送り、仕事しなきゃとパソコンを開き、ファイルを開いてぼんやりと見つめ、見つめ、見つめ、スクリーンセーバーの描き出すフラクタル曲線を見つめ、このフラクタル曲線が画面の外まで伸びてきて絡めとられて身動き取れなくなったらどうしようと心配になり、スクリーンセーバーはなぜそんなことをするのだろう、セーバーとしての防衛本能なのだろうか、ぼくがスクリーンに何かするとでも思っているのか、まてよもしかしたら強すぎて制御できない力が暴走してしまっているのかもしれない、だとしたらスクリーンセーバーが危険だ、まるで3部の承太郎のお母さんじゃないか、どうしたらいいんだ、どうしたら助けられるんだ…?とここまで考えてマウスをチョッとつついたらフラクタル曲線はパッと消えてモニターに仕事のファイルが戻ってきた。スクリーンセーバーは救われた。一件落着。一段落。よかったよかった、力が抜けた、姿勢を崩して横たわり、昨日買った森田るい「我らコンタクティ」を読む。めっちゃいい。さっきまでぼんやりしていたのはここで集中力を爆発させるためだったのか…?ってくらいに没入し一息で読み終える。とにかくそれだけやってりゃ満たされるような何かに取り憑かれていることが人生をスカスカにしない唯一の方法だって気がついたのはたしか中学一年のころで、絶望的な気持ちになったのを覚えている。そんなの運じゃん、って思ったからだ。取り憑かれようとして取り憑かれるってのはなんかおかしい、好きじゃないのに好きなふりをするみたいなことだ、ほんとの好きってのは自分じゃどうしようもできない気持ちのことだ、いきなり落ちるもんなんだ、取り憑かれるのもおんなじで、取り憑かれよう取り憑かれようとすることは取り憑かれることから遠ざかるようなもんなんだ、なんだそれやっぱ運じゃん、みたいな感じ。ちなみにそんときの僕はまだ恋をしたことがなかった。若かった。若かったから、純粋じゃないと気がすまなかった。付き合ってるうちに好きになる、みたいなことが本当にあるなんて想像つかなかった。興味のなかった仕事でも、苦労して、やれることが増えていって、失敗したりうまくいったり仕事相手や仕事仲間の感情に触れたりするうち胸はってこの仕事好きです!って言えるようになったりするのだと、多くの人々はそうやって十分満たされているのだと、そんなことはなんにも知らなかった。とにかく取り憑かれていなければならない、そうでない時間はすべてスカスカで空っぽで何もない砂のようなものなのだと信じていた。スカスカの砂の世界では生きられないと思っていた。それから何年もの間、取り憑かれては我に返ることを二三年のスパンで繰り返し、いまに至るまで生きている。大人になるにつれスパンは変化していった。取り憑かれている時間は短くなり、取り憑かれていない時間が普通になっていった。おそらく取り憑かれていない時間は昔と変わらず空っぽなままなのだけれど、それを恐ろしいとは思わなくなった。空っぽな時間を過ごしているときも、世界は変わらず美しく、楽しいことも面白いことも素敵なこともいたるところに転がっていた。いまでも時おり、いてもたってもいられなくなるような時間が訪れる。悲しみであれ喜びであれ、僥倖だと感じる。訪れでしかあり得ない種類のエモーショナルな時間。天のもたらす祝福のような時間。「我らコンタクティ」にはそういう時間を過ごし続けているひとが描かれていて、それがなんだか、とても眩しい。漫画読み終えたころに彼女が帰宅、おみやげの肉まんとチーズタッカルビまんを食べ、彼女が寒い寒いと嘆くので、ホットカーペットへの接地面積が狭いからじゃない?横たわってご覧よ、暖かいよ、こうしたらもっと暖かいよ、と毛布をかけ、そのまま横に並び、そのまま意識を失う。起きて八時。いまは十時。仕事は何にも進んでいない。書きたかったことを唐突に思い出した。M1グランプリジャルジャル最高じゃなかったですか。