bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

秋の夜長

なんだか最近よくわからなくなってきた。備忘録のことである。忘れるのに備えておくべきことなんてそんなに無いんじゃなかろうか。お芝居をふたつと映画をひとつ見た、半年見ていたドラマが終わった。それは果たして備忘しておきたいことなのだろうか。よくわからない。忘れてしまうならそれはそれで構わないとも思うし、覚えておけるならそれも悪くないと思う。当てはまる言葉を探すことも言語化せずにそのままそっとしておくことも、どちらも好ましく感じる。だからまあ、なんだってかまわないのかもしれない。のほほんとつるるんとただへらへらとしておけばそれでよいのかもしれない。わからないならわからないままでわからないなあと思っておけばよいのかもしれない。そんな気がする。

 

月の綺麗な夜があった。月を見上げて歩きながら、今夜は月が綺麗だね、と言った。たしか誕生日の何日か後だった。誕生日には公園にいった。行きたいところはありますか、と聞かれ、芝生のあるところに行きたい、日の高いうちに芝生にいって、日陰と日向のちょうどいい境目に寝転がりたい、と答え、それでその通りにしたのだった。寝転がり、焼酎のお湯割りに魚粉を入れた出汁割りを飲んだ。この飲み方は最近よく行く飲み屋で覚えたのだが、なかなか再現が難しい。たぶん魚粉を奮発しすぎている。もっと化学調味料を入れるべきなのだ。こんど味の素を買いに行かなくては。しかし秋の屋外はなんて心地よいのだろう。多摩川の川原で飲んだのも最高だった。昼過ぎから暗くなるまで、川と電車とコウモリとビール。二次会含めてたっぷり八時間。何を話したのか、まるで覚えていない。ただカップルが幸せそうで嬉しかった。その前日にも別のカップルと飲んでいて、そちらも大変に幸せそうで最高だった。彼らはみなこの一年に付き合いだしたカップルで、彼らがこんなふうになるなんて、一年前には思いもよらなかった。それは僕自身にも言えることで、そうしてみるとこの一年というのは、思いもよらない素晴らしいことが次々に起こった一年だったということになる。たぶん、今回はたまたまぼくの目の届く範囲でそれが起こったということで、いつだって素晴らしいことは起こっているのだろう。例えばケーキ。伊勢丹のマ・パティスリー、高島屋のパティシェリア。新宿にいながらにしていろんな名店のケーキを楽しめる。パティシェリアで食べたあのケーキ、なんだっけな、もう思い出せないな、店名を冠したあのケーキは本当に美味しかった。甘いものといえば、人形町柳家にも行った。パリッとした皮が美味しいたい焼きの名店。赤子のころ一年だけこのあたりに住んでいたことがあるらしいのだけれど、もちろん記憶はない。やたらと回転の早い行列に並び、路上でアツアツのたい焼きとキンキンのアイス最中を交互に食べ、そのまま水天宮にいき、何人かの顔を思い浮かべつつ安産を祈願する。なるべく母子ともに健康でありますように。そのまま夕暮れの日本橋を歩く。ここ最近は夜の散歩が楽しい。涼しくて気持ちよくていくらでも歩ける気がする。最寄り駅まで彼女を送っていくはずが、もう少し歩きたくなってしまい、次の次の次の駅まで歩いてしまったりする。寝静まった街の見慣れない風景、頬をくすぐる夜風、見上げれば丸く光る月。月が綺麗なので月が綺麗だねと言えば月が綺麗だねと返ってくる。いつまでもいつまでも二人でいたい。いつまでもいつまでも歩き続けていたい。方向も時間も何も気にせず、膝が笑うくらいになるまで歩いていたい。そんでガタガタ震える膝のことで何か冗談でも言って笑いあいたい。そんなふうに思う秋の夜長である。