ロロ いつ高シリーズ「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」
先週の日曜日のこと。
こまばアゴラにロロの「いつ高」を見に行く。旧作3つと新作1つの一挙上演。1作目はyoutubeで、3作目は劇場で鑑賞済み。なので今回は2作目の「校舎、ナイトクルージング」と新作の「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」を鑑賞。
どちらも最高に良かった。キャラクターも「いつ高」の世界も本当に大好きで大好きでたまらない。
「いつ高」シリーズを好きなのは、たぶん、世界の広さや豊かさを目に見える形で顕現させてくれるから、なんじゃないかと思っている。
舞台の外側を感じさせる、というのはもちろんなのだけれど、それだけではなくて、「いつ高」ではいっしょにはならないはずのものがいっしょになって重なって現れるのだ。
「別々の空間や時間をつなげる」と言ってしまうと冷えて固まった言葉な感じでしっくりこないのだけれど、「いつ高」ではそれがとても自然に、最高にチャーミングに行われる。
校庭を走る太郎は、窓際の白子に見つめられている。白子はストリートビューの中で太郎に同じ距離を走らせる。太郎はストリートビューの中で、本人も知らぬうちに、傷心旅行中の元カノと出会う。
おばけちゃんの語る10年前のクラスメイトの「楠木くん」は、将門の語るいまのクラスメイトの「楠木くん」とぴたりと重なる(逆)おとめの録音する昼休みのざわめきは夜と昼の教室を重ね合わせる。
登場人物たちは、そういうことが起こることに疑問や違和感を抱かない。起こった物事を、ものすごく素直に受け入れる。「この世界ではどんなことでも起こるのだ」ということが常識になっている。
「いちごオレ」にはいいシーンがたくさんあったのだけれど、いちばん好きなのは「じゃあ、群青くんにどんな一面があったら好きになる?」ってセリフだ。(一言一句は覚えていないけれど、こんなような言葉だったと思う。)
これ聴いたとき、ほんとにシビれた。
空間を重ね、時間を重ね、ついに「もしも」まで重ねてきた。「もしも」は現実ではないけれど、世界とは可能世界の総体であるから、「もしも」だって当然に世界の一部である。
いまここで起きていることに、空間と、時間と、想像を重ねる。広くて豊かな世界の、その広さや豊かさを、舞台のうえに凝縮して顕現させる。そんなものすごいことをやりながら、舞台の上にはどこまでもキュートで切ない世界が広がっている。
ああ、書き切れてる感じが全然しない。自分の筆力のなさが恨めしい。でもそうだよな、説明文にしたんじゃつまらないから物語を作るのだものな。自分には書き切れないようなものだから、好きなんだよな。
明日はパルテノン多摩でロロ×EMC。いわきの生徒さん達も一緒ということで、「魔法」のダンスがもう一度見れるのか、と期待している。去年から今年にかけて、そこそこ演劇を見ているのだけれど、あの「魔法」を超えるものにはまだ出会っていない。
あれはそれくらい良かった。
ああ、楽しみだな。