bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

思い出しては後悔する

木曜日。
酒が抜けずに苦しんだ一日。

夕方からずっとチキンカレーを食べたいな、でもお腹が空かないな、作るだけ作ったら満足するかな…と思っていて、最終的にラーメンと寿司を食べて今に至る。ラーメンも寿司もまったく食べたくなかったし、そもそもぜんぜんお腹空いてなかったのに、何故か炭水化物を連食してしまった。ヤケ食いでもないし飲んだ勢いでもないし何なんだろう。謎い。よくわからない。

はちきれそうなお腹を抱えてベッドに横たわっていたら、思い出した話があるので書いてみる。
きょうみたいに、ふとしたときに思い出して、その度に後悔していること。

もう10年以上もむかしのことだけれど、一年くらい同じ職場で机を並べて働いた、20歳くらい歳上の男のひとの話。そのひとはひょろりとした長身で、長い顔に丸メガネで、いつも黒い服を着ていた。あまり仕事のできるタイプではなかったけれど、とても優しいひとだった。YMOと原田知世イデオンをこよなく愛する古くからの文化系男子だった。

僕とそのひとは、大変にウマが合った。我々はよく、打合せをするふりをして、二人で会議室でだらだらお喋りをしていた。会議室はまるで大学の文化系サークルの部室のようだった。キミは若いのによくそんなことを知ってるねえ、そう言われるのが楽しくて、自分の知識をフル動員して角川映画吾妻ひでお筒井康隆の話をした。古いサブカル話をしてゲラゲラ笑ううち、そのひとの語りはだんだん熱をおびてきて、最終的に、当時の原田知世がいかに可愛かったか、YMOで本当に天才なのは高橋幸宏なのに世間はなぜ理解しないのか、この2つの話題のどちらかにたどり着くのがお決まりだった。

ウチの会社が大規模な人員削減計画を出し、早期退職を募集したとき、そのひとは会社を辞めた。辞めてどうするんですか、と聞くと、しばらくは働かずに父の介護をするよ、と教えてくれた。どうやらご実家はかなり裕福らしく、ぶっちゃけ働かなくても食べていけるレベルらしい。奥さんも仕事あるし、おふくろも歳だしね、僕は働くのは好きじゃないから、僕が辞めて介護するのが一番いいんだよ、笑いながらそう言っていた。奥さんいたんですか!初耳ですよ!と聞くと、うん、若いころにね、ぴあで知り合ったんだ、と恥ずかしそうに言っていた。一貫性のあるひとだった。

そのひとが会社を辞めたあと、しばらくして、お父さんが亡くなったと知らせがあった。喪服を着て、上司と一緒に葬儀に参列した。
九月ごろ、まだ暑さが残る時期だったと記憶している。亡くなったお父さんは何かの業界の大物であったらしい。大きな斎場だった。参列者はとても多くて、長い長い列はなかなか進まなかった。日差しの下、汗をかきながら順番を待ち、ご焼香をすませ、そのひとに挨拶をした。
久しぶりに会うそのひとは、グシャグシャに崩れていた。見かけはいつも通りパリッとしていたし、喪主として参列者にきちんと挨拶をしてはいたけれど、そんなのはただ社会性の鎧に支えられているだけで、ほんとうはかろうじて立っている、悲しくて悲しくて駄目になりそうなのをすんでのところで我慢している、それが誰の目にも明らかだった。
お久しぶりです、この度はご愁傷様でした、大変でしたね。
そう声をかけると、そのひとは、来てくれてありがとう、とだけ言って、ひどく弱々しい笑顔を作った。
落ち着いたらご飯を食べに行きましょうね、必ずですよ、約束ですよ。
そう言って別れてから、そのひととは会っていない。

いまでも思い出すと後悔する。
僕はあのとき、あのひとを抱きしめなければいけなかった。抱きしめて、ほんとうに大変でしたね、よくがんばりましたね、そう耳元で声をかけなければいけなかった。そうして一緒に泣くべきだった。あの瞬間、あのひとに必要だったのは、物理的な支えだった。誰かが彼を安心させなければいけなかった。優しくしなければいけなかった。受容が必要だった。僕にはそれがわかっていたし、上司やあの場にいた他のひとたちもみんなわかっていたはずだ。けれど誰もそれをしなかった。僕を含めて、誰も。

そのことを10年ずっと後悔している。

どう締めていいかわからなくなったのでこの話は唐突に終わる。
おやすみなさい。
良い夢を。