「青春100キロ」について、考えたことを全部書いてみた
映画「青春100キロ」についてのネタバレがあります。
というかネタバレしかありません。
これからご覧になる予定の方にはオススメしません。
あと書いてたらすごく長くなりました。
誰が読むんだこれ。
最初に書いておくが、僕はAVのことはあまり詳しくない。
これから書くことは後付けの知識に基づくものがほとんどだ。
だから、僕より詳しい誰かがもっとしっかりした解説を書いてくれたらうれしい。
しかしねえ、こういう「読み解き」の遊びって、すごーく年老いたオタクの作法って感じがするね、我ながら。
「青春100キロ」、水曜日に2回目を鑑賞した。
いろいろ調べたりひとと話したりして、自分なりの感想が固まってきたので、まとめてここに書いておく。
どんな映画か、はkai-you.netのこの記事が詳しい。
ちなみに僕の1回目の鑑賞後の感想はコレ。
さて、実はこの映画の構造は、監督自らオープンにしている。
それがこのツイート。
あんまり語るのもどうか?とも思うが「青春100キロ」は魔法をかけられた少年少女の物語でもあります。お客様、映画の中に魔法を解く鍵がいくつも転がってます。それを見つけてほくそえむのも映画のひとつの楽しみです。こんなとこでしょうか?
— 平野勝之 (@hiranokatsuyuki) 2016年4月30日
少年と少女にかけられた「魔法」とは何なのか?
魔法を解くためのカギとは何か?
このあたりを中心に、「青春100キロ」について、僕の考えをメモっておきたい。
まずは、「魔法」について見ていこう。
「魔法」とは何か、魔法をかけられた少年少女とは誰なのか?
「魔法」とは、象徴的な言葉で言えば、「中出し」であり「孕ませ」である。
もう少しちゃんとした言葉で言えば、「男性の歪んだ性的欲望を増幅し続ける装置としてのAV業界」である。
AVとは、ユーザーの欲望をビビッドに反映するメディアである。
売れない企画はすぐに打ち切りになり、ヒットした企画はすぐにシリーズ化され、二番煎じが溢れかえる。
美少女、熟女、痴女、ハメ撮り、黒ギャル、男の娘…
過去、いくつもの様々な性的ファンタジーが生まれ、流行り、廃れていった。
ちなみに、そのあたりの歴史は安田理央著「痴女の誕生」に詳しい。
ユーザーの性的ファンタジーにAVが応え、AVがユーザーの性的ファンタジーを掻き立てる。
さらにゲームや同人誌といった別の性的メディアが影響を与える。
そこに女性の目線はない。
徹底して男性目線の性欲が煮詰められていく。
結果、性的ファンタジーはどんどん奇形化し、過激化する。
そのひとつの極北が「すべてリアルな本番中出し」を謳う「本中」というレーベルであり、「100人×中出し」という企画である。
どう考えても正気ではないこの企画がシリーズ化されているという事実。
これが現在のAV業界を取り巻く状況を端的に説明してくれる。
「魔法をかけられる」とは、「AVという、奇形化した性的ファンタジーに過剰適応してしまい、それが当たり前になってしまうこと」を指す。
「青春100キロ」には、「普通の人」は出てこない。
登場人物は、AVの魔法にずっぽりはまったひとばかりだ。
本中のスタッフ。
「わたしは上原亜衣より上原亜衣のことが好きだと思いますよ、最高の引退作にしましょうよ」と語り、花道として「100人×中出し」の企画を用意する智子P。
「これで最後だぞ!お前らの愛はそんなもんか!言葉とぶっかけで気持ちを伝えろ!」
と素人をあおるタイガー小堺監督。
みんな本気で、情熱的で、狂ってる。
ケイ君。
顔出ししてまで上原亜衣に中出しを望む狂ったマラソンランナー。
彼は説明不要だよな…
「恋」のためでも「愛」のためでもなく、「大ファンのAV女優に中出しする」ために100キロ走り、歯を磨き、顔出しでカラミまでやる一般人。
狂ってるよ、ほんとに。
そして、本作品で一番狂った存在、上原亜衣。
「史上最強の企画単体女優」と言われ、AVの頂点を極めた女優。
俺はこの娘のことをあまり知らない。
下記はhmjmのサイトに掲載されている対談から、AV監督たちが彼女について語った部分を長めに引用。
岩淵「上原亜衣が冷酷っていうか、目が笑ってないように見えましたけど、そういう編集をしてたんでしょうか?」
梁井「本来そういう人ですよね」
松尾「ああ、俺らは本人を知ってるからね」
梁井「どこをつまんでもああいう人だよね」
松尾「俺たちが知ってるのは梁井が撮った『かたりたがーる』だったり、今田が撮った『引退告白』だったりだけど、元々ああいう子だよね。上原亜衣本人の話をすると、若干日本語が下手クソっていうか(笑)」
今田「直情的なんですよ」
松尾「なんか不器用だよね」
今田「言葉を言い放っちゃうんだけど、よく話を聞いてみると、こんなこと考えてるんだってわかる。一見すると冷たく見えちゃうけど。だから上原さんはそのままで映ってましたね」
松尾「初見の人は冷たく見えちゃうのかな。いわゆるステレオタイプの「よろしくお願いしま~す」ってずっと言ってるような女の子じゃなくて、何もしてない時の目とか表情が冷めてるんだよね、ここではないどこかにいるような(笑)根底に色んな不信感?人見知り?独特なんだよね」
今田「ずっと被害妄想があるって言ってたけど、あれは上原さんっぽいエピソードだよね。怯えてる感というか」松尾「初期の上原亜衣は、梁井が撮ったんだっけ?」
梁井「四年前ですね(遠い目をして)。あのオーラはまとってなかった。普通の女子大生の姉ちゃんがアルバイト感覚で」
松尾「セックスも出来た?」
梁井「セックスもしてくれる。エロいっちゃあエロい」
松尾「そこからサイボーグ化していったんだ」
梁井「相当戦ってるんじゃないですか。孤独になっていくんでしょうね」
この映画で示される、素の感情を見せない、用心深い彼女にはまさに「サイボーグ」という言葉がぴったりだ。
上記の対談にも参加している梁井監督の撮った「かたりたがーる 上原亜衣」という作品を見ると、彼女の4年間の変化がはっきりとわかる。
髪の毛を黒く、肌を白くし、ファッションを替え、ユーザーが自分に向ける欲求のすべてに応えるべく、過激なプレイを繰り返していく。
作り笑顔が上手くなり、瞳は冷たくなる。
過酷な要求のすべてに答え、ナンバーワンを目指した結果、彼女は心を鎧で固めたAVサイボーグになった。
何が彼女をそこまでさせたのか?
「愛されたくて、この仕事を始めた」と語る裏側には、どんなストーリーがあるのか?
それが映像で語られることはない。
登場人物がみんな魔法をかけられている世界で、唯一、魔法から逃れている存在がいる。
監督である平野勝之である。
彼は「現代の奇形化したAV業界」の人間ではない。
90年代の、違う意味で狂ったAV、「ヌケないが面白いAV」の申し子のひとりである。
彼の経歴は、下記の本に詳しい。
彼は一般人ではない。
AV業界の中の人間ではあるが、現代の「奇形AV」からは遠く離れたところにいる。
むしろもっともっとぶっ壊れた、「ヌケないAV」を作ってきた男である。
だから、狂った業界人たちと同じ立場に立つでも、批判するでもなく、達観した、フラットな目で状況を見つめることができる。
オファーがあったのも撮影の4日前のことだし、仕事そのものへの思い入れだって薄いだろう。
狂った環境のなかで、身内のスタッフすらも振り回し、ニヤニヤしながら自転車旅行を楽しんでいる監督、彼だけが鳥のように軽やかで、自由だ。
あと、振り回される身内のスタッフ二名(小坂井さん、榎本さん)がキュートすぎて笑う。タイムボカンのトンズラーとボヤッキーみたいな。なんだあのズンドコ珍道中。笑いどこかっさらいまくりじゃねえか。最高だな。
さて、ここまで長々と、登場人物たちにかけられた「魔法」について書いてきた。
では、作中に散りばめられた「魔法を解く鍵」とは何なのか?
それは、音楽だと思う。
劇中歌として使用された、アバンギャルド系AV監督・GOLDMANの曲。
それこそが鍵なのではないか。
エンディング含め、この劇中では4曲が使われている。
僕はCDを買って何度も聞いているけれど、4曲すべて、同じテーマを歌っている、と思ってくれてかまわない。
エンディング曲の「ロックンロール・オナニーマシーン」の歌詞があまりにもそのものズバリなので引用する。
「オナニーばかりしていると 頭が悪くなっちゃうよ
オナニーばかりしていると 心がむなしくなっちゃうよ
オナニーばかりの人生じゃ ほんとにさみしくなっちゃうよ
誰でもいいから愛をくれ 誰でもいいから愛をくれ」
つまり、そういうことなのだ。
この作品には、挿入や射精はたくさん存在するが、男女の心の触れ合いとしてのセックスは、ひとつも存在しないのだ。
中出ししてようがなんだろうが、すべてが女体を使ったオナニーなのだ。
上原亜衣の周囲を幾重にも囲んだ素人男優が「亜衣ちゃん好きだ!」と叫びながらオナニーをし、上原亜衣の股間に次々とぶっかけをする。
上原亜衣は、精液を自らの体で受け止めて、「こんなに愛してもらって幸せだ」という。
100キロ走ったケイ君は、望み通り上原亜衣に中出しを決める。
上原亜衣は、泣きながら、「彼が最後の人で良かった、いちばんしっかり目を見てくれた」という。
ケイ君の感想は一言、笑顔で「最高です!」これだけ。
普通に考えて、そこに愛はない。
こんなものが愛であるわけがない。
けれどAV女優にとって愛とは人気であり、人気AV女優であるとはオナニーをたくさんしてもらうということだ。
だから、上原亜衣は間違っていない。
上原亜衣は、自分の置かれた環境で、精一杯の情熱を燃やしているだけなのだ。
間違っているのは、セックスをオナニーにしてしまっているのは、行きつくところまで行ってしまった、AVという狂った世界だ。
一般社会とは隔絶された、まるでSFのような狂った世界で、狂った世界に適応した人間たちが、精一杯に情熱を燃やし、泣き、笑い、青春を生き、結果としてすれ違っていく様を描いた映画。
それが「青春100キロ」の正体なのだ。
最後に、監督を褒めたたえて終わりたい。
この映画、kai-youのレビューが公開されたあと、少し炎上気味になった。
「女性を性的に搾取するような行為に無批判な映画はいかがなものか」
「中出しとか孕ませとか、カジュアルに使っていい言葉じゃないだろう」
ご意見ごもっとも。
けれど、ここまで読んでくれた物好きなあなたならもうわかっているだろうが、そういう、狂った業界を批判する目線は、常に劇中に存在していたのだ。
映画の中に、「魔法を解く鍵」まで用意した監督だ。
もっと直接的に、「本中」スタッフを狂った悪者にして、「ケイ君」を上原亜衣に恋するまっとうな若者として描けば、誰からも文句の出ない、奇形AV批判の物語ができあがったはずだ。
でも監督はそういう編集をしなかった。
「ゲラゲラ笑える痛快娯楽作」に仕上げ、鍵を埋め込むに留めた。
いや、ほんとに笑えるんだよ。
何度も劇場揺れたもの。
なぜか。
おそらく理由は二つある。
ひとつには、これが上原亜衣の引退作品であり、頼まれた「仕事」であるということ。
どんなに異形のものでも、たくさんの人の、上原亜衣自身の思いの詰まった大事な大事な引退作だ。
それを直接的に批判するような作品は、やっぱり作るべきじゃないと判断したのだろう。
スタッフも女優も人間だもの。もちろん監督も。
もう一つの理由、きっとこちらのほうが大きいんじゃないかと僕は思うけれど、それは、平野勝之の映画監督としての矜持だ。
キューブリックやペキンパーを愛する映画監督・平野勝之にとって、映画はまず第一に「娯楽」でなくてはいけない。
面白くなければ意味がない。
かっこよくなければ存在する資格がない。
だから、まずは、「ローファイ・ロックに彩られた爆笑痛快娯楽作」として鑑賞できるよう、映画を仕上げた。
そのうえで、多元的な見方ができるよう、「鍵」を仕込んだ。
画一的な見方しかできない、見方を定められた作品と、重層的な見方ができる作品、映画として豊かなのはどちらだろうか?
そんなの後者に決まってる。
全体を覆う「魔法」に気づかず、細かい笑いのシークエンスに感情をゆだねれば、ただの痛快娯楽作。
「魔法」と「鍵」の存在に気づけば、笑いながら、空恐ろしさともの悲しさを感じることもできる。
優れた「映画」とは、そういう奥行きのある作品を言うのだろう。
4日前のオファーでこういう傑作を作り上げた平野監督に敬意を表して、この長い記事を閉じようと思う。
あと、闇深そうなAVモンスター・上原亜衣さんにも、お疲れさまでしたと。
あ、あともうひとつ、座談会付き上映のときにおまけで流れるGOLDMAN監督作「青春1メー トル」は本気で傑作なので未見のひとは何とかして見たほうがいいです。
笑いすぎて死ぬかと思った。
以上、「俺はこう思った」でした。
それでは、長いばかりで野暮な文章、終わり!