bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

今週は咳ばかりしていた。仕事をしているときも、大人買いしたBANANA FISHを読んでいるときも、通勤電車でオードリーのANNのふかわりょうゲスト回を聴いているときも、のべつまくなしに咳ばかりしていた。風邪をひいてからはそこそこ時間も経っており、もはや特に喉が痛むわけでも気道がゴロゴロするわけでもないのだけれど、ただ咳の気配みたいなものだけが胸もとに残っており、その気配が濃くなるとゲホゲホと咳が出る。さらに三回に一回くらいの割合でゲッホゲッホと咳の発作みたいなものを誘発し、そうなると呼吸も苦しいわ音も動作も大きくなるわ、しんどさと周りの人への申し訳無さとのダブルパンチで肉体的にも精神的にもだいぶ削られてしまう。夜中にいきなり発作が起きたときなど、隣の彼女を起こしてしまうし心配させてしまうしもちろん自分もしんどいし、そんなこんなで布団に入るのが憂鬱になるほどだった。何度かそういう夜があってから、夜更けに咳が収まらないときは、なるべく静かに寝室を抜け、リビングで毛布をかぶって横になるようにしていた。発作がくると、身体をくの字に曲げて、ホットカーペットの上で心ゆくまで咳をした。苦しかったし寂しかったけれど誰かを起こしてしまう心配だけはしなくて済んだ。息つぎの間を与えてくれない咳の連撃に耐えながら、「咳をしても一人」って山頭火のあれは「咳をしても一人(だから思う存分咳き込んでもよい)」なのかもしれんな、などと思った。

 

咳は気まぐれで、まるで出ないときもあれば、咳止めの薬を飲んでもおかまいなしに出続けるときもあった。咳の発作が酷いとき、ゲホゲホエッホウエッホゲエエエエッホゲッホゲッホと絞り出すように咳をしながら、酸欠でビリビリと血走る頭の片隅で、この咳がなんのために存在するのか考えていた。引っかかるものもなく、異物感も排出すべきものも何もないのに、なぜこうも執拗に咳が出るのだろう。僕の気管支が鈍感なだけで、本当は何かがひっかかっているのだろうか。このままゲホゲホと咳をし続けていれば、いつかひっかかっている何かが出てくるのかもしれない。ピッコロ大魔王の卵のように?でも卵ではあまりに荒唐無稽だ。せめてもう少し身近なものであってほしい。ビアグラスとか、プラスドライバーとか、鍵とか指輪とか。どうせなら何かしら意味があった方が楽しい。咳きこんでビアグラスを吐き出し驚愕したその数日後、そのうち行ってみようと思っていた近所のクラフトビール屋さんが閉店していたことを知る。しばらく後、プラスドライバーを吐き出した翌日、緩んだネジを締め直さなくては、と思いながら騙し騙し使っていたテーブルが破損する。僕は気付く。もしかして、僕が吐き出しているのは、すぐにどうにかしないと手遅れになってしまう何かに関わるものなのではないか?それから数日後、発作のあとに僕が吐き出したのは、誕生日に彼女に贈った指輪と、見覚えのない鍵だった。僕は激しく混乱する。とても不吉な予感がする。いったい何が手遅れになろうとしているのか?僕はいま、何をするべきなのか?わからない、わからないけれど走り出せ、手遅れになる前に走り出せ、たぶんすぐ咳きこんで走れなくなるだろうけど、いいからとにかく走り出せー。例えばこんなお話はどうだろう。知らんがな。

 

眠れない夜を過ごすため、Netflixであいのりを見るなどした。みんなええ子やの、がんばりや、がんばりや、という気持ちで見守っていたらあっという間に最新話に到達してしまった。シャイボーイの恋はどうなるのだろう。上手くいってほしいと思いつつ、「一人になりたい」と言ってる女の子を無理やり追いかけてそれでなんとかなっちゃうみたいな成功体験は獲得してほしくないぞ、とも思うわけで、アンビバレントで引き裂かれちゃっている。かすがの表情も、喜んでんのかしんどさが極まってんのか何とも読みとれない感じだったし。スタジオでベッキーが「あれは超レアケース!女の子が一人になりたいって言ってたら一人にしてあげて!」って言ってたの聴いて救われた気持ちになった。ベッキー河北麻友子のコンビは最高だ。ノリが洋ドラの女子のそれ。河北麻友子を初めて好きになった。男子たちが分をわきまえてる感じもいい。オードリーにはいつまでもあんな感じで居てもらいたい。あともうひとりの男子の名前がどうしても覚えられない。申し訳ない。

 

迷ったけれど、咳がひどくなったら退席することにして、範宙遊泳の「もうはなしたくない」を見に行った。咳止めを重ねがけして、龍角散を口に放り込み、膝の上に温かいお茶のペットボトルをスタンバって口元にタオルハンケチをあて、そのままの態勢でなんとかラストまで乗り切った。女優さんたちのお芝居(大人っぽい島田桃子さん、初めて見たけどとても素敵だった)や衣装、セリフ回しの巧みさなんかには本当に唸らされた、けれど肝心のストーリーの部分で納得が行かないところがあった。ラストに至る流れで、やや男性恐怖症的な登場人物が、初対面の男性に無理やり押し倒されるシーンがある。彼女は激しく怯える。他の女性は、それがたいしたことではないかのような物言いをする。怯えた彼女は部屋を飛び出す。走って逃げようとする。他の女性は逃げる彼女を追いかける。追いかけて、追いかけて、走り疲れて、「わたしたちはみんな違う、みんなおかしい」と言いながら手を繋ぎ、カラオケに行く。ここ、納得いかなかった。手、繋げないでしょ。酷いことをされたとき、そんなのたいしたことじゃないよ、と言ってくる人とは、手を繋げないでしょう。走り疲れて思い出語るくらいのことでは、手を繋げないでしょう。そんなとってつけたようなシスターフッド、嘘でしかないでしょう。やりたいことはわかる。要するに「みんな違ってみんないい」だ。人それぞれいろんな性癖があり、性指向があり、それは必ずしも理解し合えるものでもなく、また理解し合う必要もない。けれど理解し合わなくても繋がることはできる。一緒にいることはできる。私は私の、私たちの性について、もう話したくない。けれど、私はあなたをもう離したくない。それがやりたいのはわかる。でも、あれは嘘だ。タイトルに引っ張られたのだろうか。「もうはなしたくない」というダブルミーニングがきれいに決まりすぎたから、それに合うラストにしてしまったのだろうか。あの子はあのまま逃してあげてほしかった。あの子の被害感情を、そのまま認めてあげるか、認めないなら逃してあげてほしかった。

 

あとそうだ、この週末はカレーが美味しかった。高円寺のかりい食堂さんでチキンカレーと出汁ャブルな牡蠣のカレーのプレートをお昼に食べ、
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夜は西荻窪の大岩食堂でポークビンダルーと牡蠣カレーのミールスを食べた。


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ウールガイが美味しいカレー屋さんは間違いのないカレー屋さんだと思う。n数こそ6とかそんなもんではあるが、これはもう法則だと断言してよいのではないか。しかしお店でウールガイを食べるときはほぼ100パーセントの確率でカレーも一緒に食べているわけで、せっかくの法則も活用の機会がどこにも見当たらない。何とも残念な話である。

インフルエンザと観劇の記録

あっというま3月。穴ぐらから這い出てみれば季節は春。紅白の梅花、雪帽子の猫柳。自分の生活に書くほどのことなんて何もないぞと思いつつ、書かない日が続いてしまうとそれはそれで不安になる。なんともわがままだと思うがどうするのが正解なのかわからない。とりあえずいまは書いておきたい気分なので、備忘のやつを録します。

 

まだ2月だったころの週末。座・高円寺に神田松之丞・玉川太福二人会を見に行く。芸人人生初のダブルブッキングを華麗にさばく松之丞さん。すっかり本格派の風格。講談はこんなに素晴らしい芸なのに、一向に若手が入ってこないのは何故なのか?このあと20年も経ったら男の講談師は自分だけになるかもしれない。そんな枕。笑いながらも笑えなかった。落語家より競争率低くて狙い目だと思うのだけれど。太福さんは昨年蒲田ととで見たときと同じネタ。銭湯でのアラフィフ上司とアラサー部下の死ぬほどどうでもいいやりとりを朗々と謡いあげる。ゲラゲラ笑ったあとは友達と四文屋へ。片肘ついて牛鍋をつつきつつ「アレはもう見たかい?じゃあアレは?ああ、アレも良かったよねえ、なにしろ…」という感じの会話を3時間。あのときの我々の頭を叩いたらきっと文明開化の音がしたと思う。そんくらい「安愚楽鍋」の挿絵まんまだった。教科書に載ってるこれです。


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翌週。インフルエンザ。ちょっと喉イガイガすんなー咳でるなーと思ってたら全身がけいれんみたいに震えだし、あっこれ知ってる急激に高熱が出るときのやつだ、と体温計を連打すると測るたびに五分ずつ熱が上がっていく。近所の病院にすべりこむ頃には40度。加えて気管支炎も発症し、きっちり一週間仕事を休むはめに。元気なときは、もしいまインフルエンザになったら溜まってた録画を消化し本を読みNetflixをやっつけ…なんて皮算用をしていたのだけれど、いざ病人になってみると、まったくそれどころではなかった。ひたすら転がって介護されるだけの肉塊でしかなかった。介護してくれた彼女に感謝。自分も忙しいのに何くれとなく世話をしてくれて、おかげで衛生的な環境でゆっくりと静養することができた。何より心細くないのがよかった。高熱で朦朧として天井がぐにゃぐにゃに見えているときも、咳きこんで寝れなくてクッション抱えて丸まってる夜も、ひとりじゃないんだと思えるだけで本当に心強かった。ふたりはいい。ふたりがいいと思える人とふたりでいられる、というのは本当に本当に幸運なことだな、と思った。

 

どうにかこうにか回復し、隔離期間も過ぎて家から出られるようになり、土曜はほりぶん「荒川さんが来る、来た」を見に阿佐ケ谷へ。鎌田さんのお芝居はこれで3回目。フルパワーで走り抜ける混沌に巻き込まれる快感を堪能。あの快感はいったい何なのだろう。しかも終演後には何かスポーツに参加したような謎の爽快感に満ち溢れていた。まったく訳がわからない。楽しい。お芝居に影響されどうしても餃子が食べたくなったので鍋屋へ。皮の分厚い大陸風の餃子を心ゆくまで味わう。そこからrojiへ移動し、ウイスキーの品揃えの良さを賞賛しつつ、チーズとドライフルーツとサブカルゴシップみたいな話で終電まで。久々の正統派サタデーナイトをがっつりやって、明けて日曜は昼から横浜。KAATで木ノ下歌舞伎、「勧進帳」。これまでで最もスタンダードかつ洗練された内容だった。わかりやすく、しかし工夫が凝らされ、原典に忠実でありつつ普遍性があり、ラップでありモードであり歌舞伎であった。名刺がわりになり得る作品だと思う。しかし中央線から横浜は遠い、乗り換えが少なかろうが遠いものは遠い。観劇後は中華街「南粤美食」で中華。狭い厨房にはびっしりと乾物が並ぶ。スペアリブ、海老雲呑麺、干し貝柱と干し肉の土鍋ご飯を注文。全部美味しかったけれど、土鍋ご飯はやばかった。干し肉がすごい。旨味の爆弾みたいになってる。干すだけで肉はこんなにも美味しくなるのだろうか。お店イチオシの鳥の塩蒸しが品切れだったのが心残り。次回KAATに行くときは絶対にリベンジしたい。この店に行けると思えば遠い横浜も少し近くなる。良いお店にはそういう魔力がある。美食の魅力は百里を超える。いつか僕が会社をやることがあったら、べらぼうに旨い社食を作りたい。何があっても社食のために出社しようと思えるような、日替わりのためにあすの出社が待ち遠しくなるような、そんな社食を作りたい。というか今すぐそういう社食がほしい。そうでもないと仕事に行ける気がしない。要するに働きたくないのである。風邪、ほぼ治りて、仕事、したくなし。街、春めいて、仕事、したくなし。そんなような心持ちでうだうだと春の夜を過ごしている。

 

 

お買い物

どうも一週間が早いように思う。月曜の朝、目を閉じる、手を叩く、はい金曜の夜。体感的にはこんな感じ。どうも時間の流れが加速している。光速に近づいている。もしや最近の体重の増加はそういうことか、亜光速では質量が増えるって例のアレか。

 

すこし前の休日の話。なんだかぺしゃんこに潰れた気分でいっぱいで、とにかく優しくされたくて、それで映画を見に行くことにした。「タレンタイム」ってマレーシアの映画。まったく知らない作品なのだけれど、Twitterで誰か知らない人が「世界でいちばん優しい映画」と書いており、導かれるようにチケットを取ったのだった。早起きして井の頭線に乗り、道玄坂の路地を抜けてアップリンクへ。アップリンクの最前列の椅子、大きくて座り心地はよいけれど、座面がメッシュなのでこの時期はめちゃ寒い。というかそもそも暖房効いてなさすぎ。借りた毛布で身体の前面はなんとかなったが、背面はダメだった。メッシュ越しに冷気が直でくる。結果、暑そうなマレーシアを見ながらガタガタ震える羽目になってしまった。おかしいな、優しさに触れたくてここに来たはずなのに、優しくされてる感じがしない。映画は確かに優しいけれど、映画館が優しくない。ダブルバインドだ。殴りながら優しくする男みたいな。ヤクザの手法だ。離れられなくなるやつだ。怖い怖い。

映画の後は虎子食堂で見目麗しいカレー。
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ランチタイム外れてたせいか、客は自分ひとりだった。広めのダイナーみたいな店内は化石みたいに静まりかえっていた。映画館で冷えたせいか、ぼくの首すじはガチガチに固まっており、そのせいでひどい頭痛がした。スパイスを摂取すればよくなるだろうかと思ったがそんなこともなく、痛むこめかみを押さえながら、教科書の写真の芥川龍之介みたいな不機嫌な顔でひとり黙々とカレーを食べた。

 

また別の日。近所で新たに間借り営業を初めたというカレー屋さんでランチ。
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こんな端正なミールスが1200円。しかも全品おかわり自由。追加でたのんだ牡蠣のアチャールも低温調理されたラムチョップもとても美味しかった、でも何よりすごいのは基本のミールス。シンプルで素朴でそれでいて洗練されている。比喩でなく毎日食べれるやつ。ミールス頼むときはついノンベジにしてしまうのだけれど、ここのはベジで充分だと思える。書いてたらまた行きたくなってきた。近いうちに行列店になるのではないでしょうか。あ、お店の名前は「とらや食堂」です。

ご飯のあとは井の頭公園へ行って水のない池を見た。
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湖底(池底?)をみながら池の周りをぐるりと一周した。水の湧き出すところを探したり、池と川の境目に立ったりして遊んだ。休日の公園には大道芸人やらハンドクラフト売りやらが何人もおり、セミプロよりもう少しアマよりの腕前を楽しそうに発揮していた。似顔絵を描くひとがおり、見本を並べているので見てみると、6枚の見本のうち2枚が北斗晶、2枚が佐々木健介、2枚が北斗&健介だった。似顔絵師はいままさにカップルの似顔絵を書いており、どんな絵を描いているのか気になったが、怖くなって覗きこむのはやめておいた。いつだって狂気は日常の中に潜んでいる。僕らの平坦な戦場。僕らの愛。

それから古本屋をめぐり、レイモンド・ブリッグスの「おぢさん」と「風が吹くとき」と岸本佐知子編「変愛小説集2」を買った。彼女が机をほしいというので家具屋を巡り、ついでにココナッツディスクでSaToAと台風クラブのアルバムを買った。どうも最近は買い物づいており、出かけると、いや家にいても、すぐに何かしらを買ってしまう。最近買ったものはこんな感じ。手塚治虫きりひと讃歌春日太一「あかんやつら」ウディ・アレンウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法」(ウディ・アレンの浮気を終わらせる方法についての本かと思った、そんなもんあるわきゃないよなーと思ったらやはりそういう本ではなかった)、松家仁之「光の犬」、谷口菜津子「彼女は宇宙一」、あと「左門くんはサモナー」の全巻セットも買ったし「鉄塔武蔵野線」のDVDも買ったしオートモアイさんの画集も買った、さくらももこの初期エッセイ3部作も買ったし上田とし子「フイチンさん」「お初ちゃん」も買った、フイチンさんに至っては傑作すぎたので2セット買った。1つは母親の誕生日プレゼントにする予定。母親が子どものころに読んでいたという虫コミックスが実家にあり、僕も子どものころに読んでいて、それで完全復刻版を買ってみたら、虫コミックス版の続きが載っていたのだ。それにしてもこのマンガは面白い。ストーリーやキャラクターもそることながら、このひと半端じゃなく絵が上手い。いま読んでも洗練されている。高野文子が絵柄を真似たというのも納得。最近の人だと近藤綾乃さんの描く線に似てると思った。とにかく良いので興味のある方はご覧になってみてください。アマゾンだと上巻は高騰してるのでまんだらけの通販がオススメです。定価以下で買えた。

 

 

 

 

 台風クラブの「初期の台風クラブ」を気に入りすぎて毎日聴いている。Theピーズのバカ度が低めの曲ばかり入っているような、そんなアルバム。要するにすごく好きなアルバムだということです。こういう世界観はほんとたまらんもんがある。うだつが上がらず、金もなく、未来が見えず、安アパートの一室でひたすら時間を浪費するような生活。このままでいいのかって不安と焦燥感、でも闇雲に走り出せるほどのエネルギーも度胸もなく、楽しいことがないわけじゃない、死にたくなるほど鬱々としてるわけでもない、どうしていいかわからずに、とりあえず集まって、酒飲んで、酔って潰れて眠るだけ。そんな感じの毎日にはどうしたって詩情が生まれてしまう。なんなんだろう。あまりにもグッと来て久々に晩酌してたら勢いがついてしまい、段ボールからいましろたかしの「ハーツ&マインズ」を引っ張り出し、古本屋まで行って「独身アパートどくだみ荘」を買い、アマゾンで椎名誠の「哀愁の街に霧が降るのだ」を注文した。私は何をしているのだろう。完全にお買い物中毒な今日このごろである。

 

 

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小沢健二「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」

月初くらいの疲れ果てて文化的食事をうけつけない状態はなんとか脱して、いまは文化的過食に陥っている。文化的空腹を埋めようと(あるいはただ単に慰めを得ようと)少しでも興味を惹かれたものをホイホイと玉入れのように買い物カゴに放りこんでいる。無計画な買い物のせいで部屋はどんどん乱雑になっていく。服装の乱れは心の乱れなんてことを言うがあれは半分嘘で半分は本当、服装の乱れはただの服装の乱れだけれども心が乱れると服装も乱れる。舌が垂れると書いて乱れると読む、だから言葉は正しく使いましょう。特に意味はない言葉、ただのそれっぽい言葉遊び。

 

映画「リバーズ・エッジ」の主題を小沢健二が歌う、歌詞はこれ。こんな感じで歌詞の画像が流れてきたのはもう2週間ほど前のこと。驚いた。えっ、そんなことまで言っていいの!?みたいな、わりとセキララな思い出話だったから。関係ないけどセキララって言葉はなんか好きだ、まずもって語の響きが美しい。セキレイのようでもありキキララのようでもある。キラキラして、それでいてどこか爽やかだ。しかし漢字にすると赤裸々。赤くて裸、もひとつ裸。意味合いもえげつない。響きと意味、そのギャップもいいと思う。話を戻すと、最初は詩的な味わいよりもまず下世話な興味が先にたった。やっぱ嶺川貴子と付き合ってたのか、とか、自分が嶺川貴子でも岡崎京子には嫉妬しただろうないろんな意味で、とか、そういうことを考えてた。それ以上は想像がつかなかった。「リバーズ・エッジ」のあの乾いた砂漠のような静まりかえった質感の中でこの歌詞がどう響くのか、僕にはわからなかった。曲を聴いて、また驚いた。あまりにも、あまりにも優しかったから。心の深いところで繋がりあう友だち(それはもちろん岡崎京子だ)へ語りかけるような、親密さと優しさに満ちた歌声。「リバーズ・エッジ」はずっと、残酷な真実についてのお話だと思っていた。荒涼とした砂漠のような世界の中で、ほんの一瞬、繋がりあえたような気がして、そしてまたすれ違っていく。人と人とは分かり合えない、それを知っている人としか分かり合えない。そういう「平坦な戦場」についてのお話だと思っていた。けれど、「アルペジオ」に歌われているのは、分かり合い、繋がりあう二人の姿だ。もうはっきり言ってしまうけれど、この曲を聴いていると、山田くんと若草ハルナはそのまんま小沢健二岡崎京子にしか思えなくなってくる。そのように読み替えることが許されるならば、山田くんとハルナが小沢健二岡崎京子のように深いところで結びついていたのならば、本当の心は本当の心へと届くのならばーそれが本当なら、山田くんやハルナと同じ「平坦な戦場」を生きていたあのころの僕らにとって、どんなにか喜ばしいことだろう。あの橋の上でのハルナの涙が、山田くんとの心の共鳴が、一瞬の刹那のつながりではなく、いつまでも続くほんとうのつながりのはじまりなのだとすれば、そのようなつながりがどんな世界においてもあり得るのだと、この平坦な戦場においても平坦ではない愛があり得るのだとすれば、「リバーズ・エッジ」とは、世界の酷薄さではなく、酷薄な世界においても愛が存在し得るのだということを描くお話なのだということになる。少なくとも、ラストに「アルペジオ」がかかる「リバーズ・エッジ」は、そういうお話になるだろう。この曲ひとつで、20数年ぶりにオセロが一気にひっくり返ってしまったような気分。そんなのってねえ、もうあんまりにも素敵じゃないか。

 

ああ、早くライブで聴きたい。

近況

疲れるといつも簡単にできることもできなくなる。多くの人と同じくぼくもそういう性質を持っている。疲れると集中力がなくなる。疲れると重たいものを受けつけなくなる。血の滴るサーロインステーキ、毛布みたいな生地のダッフルコート、それからぎっちりした密度のドラマ。そんなわけでanoneを見れていない。ついでに年明けからドキュメント72時間も見れてない。見れてないのに函館の回にブッダNippsが出てくるというネタバレだけを見てしまった。デミさんとNHK。似合わねえ。デミさんにとってのNHKの門はそれこそ何よりもタイトだと思うんすけどね、そのあたりどうなんすかね。anoneは見れないけれどもアンナチュラルは楽しみに見ている。あと99.9も。頭ん中にコンフリクトを生ずることなく見れるのがありがたい。キングちゃんやゴッドタンは楽しく見れているけれど、水曜日のダウンタウンはここ最近見れてない。あの悪意がいまはちょっと重たい。ラジオが楽しい。会社の行き帰りはオードリーのANNとハライチのターンを聴いている。仲良しっぽいあの空気が心地よい。あとは漫画。正月休みに見たNHKドラマの「風雲児たち 蘭学れぼりうし」がとても良かったので、引越しのときに売りさばいた「風雲児たち」を買い戻した。既刊49冊大人買い。すっかり幕末漬けである。こないだ日比谷線乗ったときは小伝馬町駅通過しただけで興奮してしまった。ここにあの牢獄があったのか…高野長英が牢名主やってたんか…みたいな。なぜ日比谷線に乗ったのかというと北千住に行ったからで、なぜ北千住に行ったのかというと、玉田企画の「あのころの話」を見に行ったからです。二年前、小竹向原で見たやつの再演。キャストは半分くらい同じ。大きくは変えてない、のだけれども、ポップになってる気がした。笑いどころがはっきりして、コント色が強くなってる。見てるだけで胃が痛くなるような気まずさが減ってはっきりした笑いが増してる。テアトロコントみたいな場で揉まれた影響だろうか。それにしてもなんて完成度の高い脚本だろう。セリフといい、展開といい、キャラクターの二面性の表現といい。大満足で劇場を後にし、徒歩でタンブリンカレー&バーへ。スリランカカレーの有名店。一度訪れてみたいと思いつつ、なかなか機会がなかった。店内もキレイでお酒の品揃えも上々、近所にあったら通うのにな…という感じ。
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これがカレー。薄暗い店内なので薄暗い写真。ダルカレーに各種副菜、写ってないけど別皿でチキンカレーと牡蠣のカレー。それぞれ単品でいただき、最終的には全部混ぜていただく。美味しい。東京で食べたスリランカカレーの中では一番美味しいのではないか。いい店だなあ。北千住いいとこだなあ。終電ギリギリまで食事を楽しみ帰宅。深夜の杉並区はキンキンに冷えている。上空に寒気、地表に残雪。上と下からたっぷりと冷やされているのだから仕方ない。オーブントースターで両面からきっちり焼かれているパンみたいなものだ。そういえば今の家の近所には美味しいパン屋さんが多い。必然的にパンを食べる機会が増え、買って5年になるオーブンレンジのオーブン機能を初めて使っている。食パンやなんかを焼くのだけれど、うちのオーブンレンジは電熱器が上にしか付いてないタイプのようで、表面はカリッと焼けるのだが、裏面はフワフワに蒸されてしまう。上からの熱に押されてパンの水分が下に寄ってる感じ。これはあえてのことなのだろうか。両面カリカリしたトーストよりこういう一度で二度美味しいみたいなパンのが好きだってひともいるのだろうか。いるか。いるのだろうな、それは。世の中いろんなひとがいる。ご飯を炊いたときにできるおこげが好きだってひとは世の中に多いみたいだけれど、ぼくはおこげが好きじゃない。やたらと硬くて、歯の溝にがっちりとくっついて噛み合わせをおかしくする食べ物、という印象しかない。でもおこげは世間では愛されている。仕方ない。そういうものだ。好みの問題だ。好みというと漫画家さんの書く線の中ではぼくは近藤聡乃さんの書く線がだいぶ好みで、「ニューヨークで考え中」の2巻も線…線たまらん…と思いながらうっとりと堪能し、この線の感じは誰かに似てるな…と考えて思い当たったのが上田トシ子先生である。子どものころ、家にあった「フイチンさん」が大好きだったのだ。ひさびさ読みたいな、と思いアマゾンやらヤフオクやろ探してみるけど何かしらんがやたらと高い。ううむ、上下巻で3000円くらいになってくれんもんかのう…と悩みつつアマゾンヤフオクメルカリの価格をチェックする毎日である。とどのつまり平和。疲れてぐったりしてanoneもデビルマンも見れずにいるけど平和。あー、二週間くらい何もしないで休みほしい。休みの日とか何もしたいでゴロゴロ転がってたい。ゴロゴロゴロゴロと同じところを転がり続けていたい。ちょうど円錐を転がしたときみたいな感じ。でも2月も3月も週末は見たいお芝居と映画と落語がありすぎる。マッサージも行きたいし銭湯も行きたいし公園にも行きたいし眼鏡も買いたい。あと皆既月食もっかい見たい。今度は地平線に近いとこのデカいやつで見たい。デカくて丸くて赤い月なんて興奮する。それもうただのエヴァンゲリオンじゃん。

ロロ「マジカル肉じゃがファミリーツアー」

土曜の昼。KAAT。

 

新春初ロロは神奈川から。すげえ良かった。まとまりそうにないのでぐちゃぐちゃと感想を書きます。全体の空気感はどことなくリトル・ミス・サンシャインに似てるように思った。でも何が似てるのかはよくわからん、「家族」で「移動」ってとこだけかもしれん。板橋駿谷さんまで含めてフルメンバーのロロは久々、というか初めて見るかもしれん。多摩センターのときはたしか亀島さんがいなかったから、やっぱ初めてなんだなー。ひとりひとりも好きだけれど、全員揃ったときのこの無敵感はなんだろう。SMAPに感じていたのと同じ気持ち。ステージ上では優しさと可愛らしさと微笑ましさが爆発していて、ひとつひとつのやりとりがとにかくキュート。「若いころのパパとママが小さなシールになってこの家のいろんなとこに貼ってあるはず、どこにあるかはもうわからないけど」ってこのやりとりだけでもう可愛すぎてたまらない。こんな感じがずーっと続く。描かれるのは、記憶と名前と愛にまつわるお話。しかし本当にお話だったのか?ってくらいにストーリーが残ってない。かわりに柔らかくあたたかい手ざわりみたいなものだけが残っている。それでも覚えていることを凸凸と。

記憶について。「父母姉僕弟君」での「忘れたくない、いまのこの気持ちがいつか消えてなくなるなんてそんなの嫌だ」から「忘れたって大丈夫、忘れることは無くなることとは違うから、たとえ忘れてしまっても、それは確かにあったのだから」に変化してる。大人になってる。実際、忘れてしまっても大丈夫なことがあったのだろうと思う。生きてると色々ありますわな。ここ一年くらいの自分の感じとぴったりだったので、あーもうわかるわかるわかる!と胸の内で膝を叩きまくっていた(ややこしい)。

名前について。「正しい名前をつけると、世界は欲情するの」みたいな台詞を聴きながら、大澤真幸が「恋愛の不可能性について」で書いていたことを思い出した。曰く、愛は要素に分解できない。「○○のどこが好き?」「かわいくて明るくて聡明なところだよ」「じゃあ、もし○○がかわいくなくて明るくなくて聡明でもなくなったら、好きじゃなくなる?」ここでyesと答えるならばそれは果たして愛だろうか。否。かわいくなくても、明るくなくても、聡明でなくても、○○への愛は変わらない。僕が好きなのは、○○の何か、ではない。僕が好きなのは○○なのだ。あ、「○○」には各々が好きな固有名詞を代入してください。愛は要素に還元されない。愛の対象は名前によってしか語り得ない。名前で呼ぶことでしか捉えることのできないものがあり、それはたぶん本質とか魂とか呼ばれるもので、だから「名づける 」とは本質を同定し魂を与えることに他ならない。

どうなのかな、これ。伝わるのかな。たぶん伝わらないだろな。文章もぐちゃぐちゃだし。でもよいのだ、自分にさえ伝わっていれば、それでよいのだ。 そういうことにしたのだ。

 

行きは中央線と副都心線直通東横線直通みなとみらい線だったので、帰りは横浜線八王子経由中央線にした。今日の俺はいびつな楕円軌道を描いて西東京をぐるりと囲んでいるのだ、と思うと無性に楽しかった。鈍行の横浜線に揺られつつ、楕円軌道の大先輩であるハレー彗星の気持ちになってみようとしてみたけれど、それは流石に無理みたいだったので、睡魔にまかせておとなしく眠ることにした。のどの奥がぱりぱりと乾いている感じがした。ちょうど風邪をひきはじめたのかもしれないと思った。

年末と年始のことなど

気がつけば正月も終わり、正月の残り火のような連休も終わり、浮かれ気分もどこへやら、ロックンロールも鳴り止む時間が来てしまったようである。年末と年始。一年でいちばん静かで新鮮で敬虔でときめいてしまう数日間。そちらの年末年始はいかがでしたか、こちらの年末年始はたいそう落ち着いておりました。同居してる彼女が年末からがっつり発熱。病気的な彼女にポカリやお粥や解熱剤を供えつつ、合間合間に膨大な録画を消化したり、やや豪華なお惣菜を食べたりしていたら転がるように年が締まりあれよあれよと年が明けた。あけましておめでとうございます。年が明けても彼女の風邪は治らず、お供え物を増やそうと外へ。元旦。前に住んでいた新宿とは違い、この街の年末年始は静かである。個人商店ばかりのこの街では、三ヶ日はどこの店も休みであり、人影もまばらで、まっすぐ続く道路にはただ青く冴え渡る空と凛とした空気が広がっている。さむさむ、と口の中で呟き、部屋着に羽織ったパーカーのポケットに手をいれる。背中を丸めて誰もいない道路を歩く。小さな歩幅でせかせかと歩く。なんだか鶏みたいだと思う。目的地の西友に着くまで誰ともすれ違わない。西友の店内にも誰もいない。まさかウォーキング・デッド…?帰ったら彼女もウォーカーになってるパターン…?と思ったが薬局コーナーには薬剤師さんがスタンバってくれていたので懸念は払拭された。元日からお疲れ様です。とてもとても助かります。助言に従いドリンク薬と濡れマスクと冷えピタを購入。店内まわってレンジで暖めるゆたんぽと小さな加湿器、それからたまごとネギとうどんとヒガシマルのうどんだしも購入。帰宅、加湿、ゆたんぽ加温、なんか食べる?食べられそ?からのうどん作成。食べて薬で冷えピタで睡眠。翌日にはなんとか熱も下がり、明けて正月休み最終日、上野鈴本初席へ。ようやく正月らしい感じでとてもようございました。

こんな感じで半分くらいは看病な年末年始だったのだけど、看病、正直楽しかった。病人のお世話をすることによる自己効力感の獲得!代理ミュンヒハウゼン症候群!みたいな怖い話ではなく、ほんとにそういうんじゃなく、なんというか、こう、家族みたいだなって思った。同じ家にいて、ちょいちょい寝室に様子を見に行って、心配したり世話をやいたり、そういうのがとても嬉しかった。のんのんとした日常の風景、新聞四コマの中で起こるくらいのささやかな事件、そういう緩やかな時間の流れがとても愛おしく思えた。

今回の年末年始はこんな感じ。そういうわけで皆様ハッピーニューイヤー、良い一年になりますように。