bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

オウム

朝のこと。

 

家を出て、大きな通りを一本渡ったところで、黃緑色の大きなオウムが死んでいるのを見つけた。異国の鳥は12階建てのオフィスビルの外の歩道で翼を広げて死んでいた。眼と嘴をいっぱいに開いて、驚いたような表情で死んでいた。通り過ぎる全員がそのオウムに気づいていた。でも立ち止まるひとは誰も居なかった。僕も立ち止まらずに駅へと向かった。罪悪感というのか、これでいいのか、このまま行ってしまっていいのか、と自問しながら、それでも立ち止まらずに駅へ向かった。通り過ぎるのが正しい対応だとは思えなかったけれど、かといってどうすればよいのかもわからなかった。埋めてあげられる場所もなく、そもそも病気かもしれぬ死体に触れてよいのかもわからず、歩き去った理由はこんなふうにいくらでもあげられるけれど、本当は兎に角そこから離れたいだけだった。オウムの纏う死があまりにも生々しすぎて受けとめることが出来なかったのだ。

 

あれは、物語や儀式といった加工を伴わない、ただの死だった。ただの死、いつもの通勤路にポトリと落ちていた剥き出しの死。予言でも予兆でも暗喩でも運命でもない、端的な死。意味を伴わない、ただの存在としての死。冷たくて、空っぽで、ただただ恐ろしい、逃げ出したくなるような、死。

 

この話はこれで終わりで、そこには教訓も学びもなく、人情も愛も文学もない。ただ、そういうことがあった、というだけの話である。剥き出しではない加工された毎日の中に急に剥き出しが現れ猛威を奮った、それだけの話である。だから眠って起きたらぼくはこのことを忘れるだろう。そして明日ではないいつかにこのことを思い出す。たぶんそういうふうになる。そういうふうにできている。

風邪治る

連休は風邪だった。

 

やさしい彼女に甘えて看病してもらい、ありがたく上げ膳据え膳を堪能していた。出かけられずやることもないので、コタツにはいって寝っ転がって、年末年始に録りためたテレビ番組を消費したり、漫画を読んだりした。作ってもらった七草粥を食べ、紅白歌合戦カウントダウンTVの年越しスペシャルをBGVに流しながら「へうげもの」を1巻から読み直したりした。引っ越しのときに紛失したのか、「へうげもの」の途中に抜けを発見し、最寄りのブックオフまで補充に行ったりもした。仕事に行けないような体調でも漫画を補充しにブックオフに行くことはできる、それが人間である。サボりではない。人間には非生産的なことをするときにだけ発揮される火事場のクソ力みたいなものがあるのだ。

 

テレビではめちゃイケスペシャルが最高だった。最高すぎて五回くらい見た。僕の好きなめちゃイケ、フィクションとドキュメント、台本と本音、虚と実がないまぜになり、そしてそんなものはどちらでもどうでもよくなる、どうでもよいと思える、そういう作品だった。中居くんとナインティナインに友情はあるのか、ホームベースを手にした中居くんの「草彅剛」というモノボケ、それが自発的なものなのか台本なのか、いや「五角形のホームに帰ってくることを待っています」なんて美しすぎるナレーションのことを考えればそれはもちろん台本に決まっているのだけれど、なんというか、スマスマ最終回に対する完璧なアンサーだった。スマスマとめちゃイケの双方に鈴木おさむが関わる鈴木おさむがいい仕事をしたのだ、と勝手に思っている。根拠はないけれど。スマスマの最終回にしたって、完全にお葬式だったあれは、SMAPへの愛ゆえにスタッフが作り上げたものだったんじゃないかと思ってる。SMAPの解散が避けられないのならば、我々が失ってしまうものがどんなに素晴らしいものだったか、SMAPを失うことがどんなに悲痛でいたたまれないことなのか、それを表現するための「お葬式」だったんじゃないか。だってほんとに悲しいことだったんだから。「愛するひとが死んだ時には、自殺しなけあなりません。」と中原中也が詩った通り、大切な人を失ったなら、我々はきちんと悲しむべきなのだ。そうしてきちんと悲しんで、それから前を向いて歩きだす、それが「スマスマ」と「めちゃイケ」で鈴木おさむとスタッフがやったことなのではないか。僕は勝手にそんなふうに思っている。

 

結局、風邪は連休明けまで引きずって、きょうになってようやく回復、と言えるくらいにまでなった。まだ咳は残ってるけれど、まあそれは仕方ない。仕事帰り、彼女と新宿で落ち合い、通りすがりのお店でとんかつを食べた。年始の上野で生じた欲望にようやくケリをつけた感じ。閉店間際の伊勢丹をぶらりと流す。今週のマパテはユウ・ササゲ。焼き菓子をふたつほど買ってもらい、ヒモ気分を堪能。どうもどうも、ありがとうごぜえます。改札まで彼女を見送り帰宅、冷蔵庫に期限ギリの豚肉を見つけたのでカレー。いまは煮込み中。なので明日の我が家の食事はポークカレーです。あああ、楽しみだな。

 

 

 

 

ていねいに暮らす

引き続き風邪をひいてる。声が出なくなって、熱が出て、「死ぬ…たぶんというか絶対死なないと思うけど、いまこの瞬間の素直な感想としては死ぬとしか言いようがない…」みたいな一日があって、そこからはなんとか脱した、みたいな今日がある。

 

いわゆる「ていねいな暮らし」みたいなものに憧れていた時期がある。流行りの服じゃなく10年保つ服を自分で繕いながら着て、旬の食材を出汁からきちんと料理して、裏山に花が咲いたら花瓶にいけて、みたいなやつ。いまは当時ほどの憧れはないけれど、でもやっぱり、ちょっと憧れる気持ちはある。いざやるかっていったら、やらないんだけどさ。

 

ここ数年思っているのは、「ていねいな暮らし」をやらなくても、「ていねいに暮らす」ことができてれば充分なんじゃないかな、ということ。ことさらにクウネルな生活を志す必要はないのではないか、それよりも、自分にとっての普通の生活、30数年生きてきて出来上がった自分なりの暮らし、そういう普通の日々を、なんとなくではなく、きちんと面白がって暮らすことが大事なんじゃないかな、と思う。例えば毎朝の駅までの道のりで肌で感じる冬の空気、匂いに負けて吸い込まれた吉野家の牛丼の味、冷え切った身体がコタツの中でじんわり溶かされていく感覚、そういう毎日の場面のひとつひとつを、慌てて飲み込んだりせず、ちゃんと噛んで、噛みしめて、ていねいに味わって暮らすほうが絶対に面白い。ほっといても季節は巡るし、どうしてもすべては変化していくし、だからいまこのときはいまこのときにしか存在せず、同じ場面は二度とやってこない。すべては通りすぎてしまうから、そうであるなら、ただ通りすぎるのではなく、隅々まで味わいつくして通りすぎたい。あらゆるものに風情はあるから、あらゆるものの風情を感じたい。そんなことを思っている。

 

いまの僕は風邪をひいてしんどいのだけれど、それでも、治りの悪さに年齢を感じるのとか、正月休み明けの少し混み合う病院とか、薬局いったらインフルエンザじゃないことを珍しがられるのとか、へろっへろな身体を引きずるようにしてトボトボ歩く侘しさとか、そういうことのひとつひとつに風情を感じる。面白がってる自分がいる。

 

なにがあっても面白がって過ごしたい。少しもていねいじゃない、むしろ怠惰で粗雑でありふれた毎日を、ていねいに味わって暮らしていければいい。いつかすべてを振り返るとき、幸福とか不幸とか、そういうぜんぶを飲み込んで、味わい深い人生だった、って思えるようでありたい。それさえできれば、あとはみんなオーケーなんじゃないかと思う。

 

でもとりあえずいまははやく風邪を治したい。治ったら蒲田に行ってスリランカカレーと黒湯を存分に堪能したい。銭湯の休憩スペースで彼女といっしょにふぃーってなりたい。そういう風情を味わいたい。

ああ。早く治んないかなあ。

年末年始終わり

(終わっちゃったなあ年末年始。今年はほんとにあっという間だった。もっとのんびりするはずだったのに、慌ただしく通り過ぎていってしまった。僕のカラダの上を通り過ぎていった年末年始たち。まるで一夜の夢のよう。でも夢ではない証拠に体重が増えている。贅沢三昧した分はしっかり体重に跳ね返っている。納得いかない。いかないぞ。夢のようならもっと夢らしくあとかたもなく消え去るべきだ。こっそり痕跡を残すなんて、これじゃまるで原田知世版の時をかける少女じゃないか。ラベンダーの香りに紐づく微かな記憶だけを残して未来に帰るケン・ソゴル、あれと同じだ。お腹周りに脂肪を残して来年に消える年末年始。そんなのってあんまりじゃないか。ラベンダーと体脂肪じゃ比べ物にならんぞ。それでいいのか年末年始。ケン・ソゴルに負けてるぞ。)

 

(何があったか、なるべく思い出してみる。29日。仕事を納めて忘年会。2016年に知り合って仲良くなったひとたち。楽しくって、3時まで飲んで、気がついたら結構酔っぱらってた。今年も仲良くしてもらえるといいなー。飲み放題だったので、各種クラフトビールをしこたま飲んだ。あんなにクラフトビール飲んだの初めてかもしんまい(90年代スチャダラ感)。いいお店だった。何より家から近いのがいい。あと遅ればせながらの誕生日プレゼント貰ってほんとにほんとに最高だったので2017年もカレーをさらに深めていくぞ、と思った。30日。仕事を納めた彼女と合流。さ~楽しい年末年始を過ごすぞ!ってワックワク。ワックワックリズムバンド。好きだったなー。いまでも活動してんのかな。昼ごろにのそのそ起きて、お昼どうしよっかってあれこれ話して、日本橋のお多幸でとうめしじゃん?バッチリじゃん?ってなって、家を飛び出し日本橋へ。老舗らしく年末年始はお休みで撃沈。まあでも想定内じゃん、どしよか、ってあたりをブラついて行列を発見。何も考えず並んで一時間、海鮮丼と鯛茶漬けにありつく。美味しかったけどさあ、店員さんギスギスしすぎじゃね、とっとと大掃除したいのわかるけど、下水の掃除は閉店後にしてほしいよね、などの感想を語りつつ東京駅の大丸へ。東急ハンズで便利グッズの数々に感心し、最終的におせちをお重に詰める用のアルミのカップだけを買う。そこから銀座へ移動、いろんなアンテナショップをまわって食材を購入。北海道と兵庫のアンテナショップがアガったなー。ガラナとかハスカップジュエリーとかロイズのチョコがけポテチとか丹波の黒豆とかいわしのへしことか出汁パックとか紅鮭の麹漬けとか持ちきれないほど買い漁った。我が故郷のいわて銀河プラザにも行きたかったけど営業時間に間に合わず断念。31日。伊勢丹へ買い出しに行くはずだったけれど伊勢丹にたどり着く前に彼女とケンカをしてしまった。彼女を傷つけてしまった。許してもらえて、仲直りできてほんとよかった。仲直りにいたる過程では、ちゃんと話ができたし、理解が深まった感じがするのでそれだけはよかった、って言っていいのかな。もちろんケンカなんてしないほうがいい、ケンカがはじまるときはどちらかまたは双方が悲しかったりショックだったりするわけだから、そんなのは無ければ無いほうがいいに決まってる、でも残念ながら起こってしまったケンカの着地の仕方としては、うん、そう悪くはなかったんじゃないかな、という気持ち。彼女もおんなじように思ってくれてるといいなあ。いろいろあって都内を彷徨って新宿に戻ったころには伊勢丹は閉店済みで、スーパーでおせち系のお惣菜や高い牛肉を買って帰宅、からのすき焼き。近所のお寺に除夜の鐘をつきに行こうと思っていたのだけれど、すき焼きで満腹になってしまって無理だった。すき焼き美味しかったなー。ここ二十年くらい牛肉といえばステーキか焼肉だったのだけれど、去年くらいからすき焼きがグッと伸びてきている。美味しくてリーズナブルなすき焼き屋さんに行きたい。コスパって言葉はなんだか品がないような気がして好きじゃないけど、すき焼きにはコスパを求めたいと思う。じゃないとキリがない。MXTVの年越し番組、おママ選手権を楽しみにしていたのだけれど、五時に夢中チームからばらいろダンディチームの仕切りに変わってて残念だった。梅沢富美男の顔を見ながら年越しってゾッとしないな、とチャンネルいじってたらそのあいだに年が変わってしまいなんとも締まらない年越しでした。あけて1日。早起きして近所のスーパーの初売りに並ぶ。目当ては五千円のクジ。最低でも五千円の商品券、5%の確率で何かいいものが当たる。特賞はダイソンとかテレビとか。僕らの整理券は250人中の200番。クジが始まる。カランカランと鐘がなり、当たりくじが減っていく。しかし特賞は出ない。僕らの番がくる。残りの商品からすると何かが当たる確率は4%。しかし特賞が残ってる。二人してエイヤッとクジを引くけどあえなくハズレて商品券。特賞は誰が当てるかな、とその場に残って野次馬。ラスト40人、30人、20人。行列は減っていくけど特賞は出ない。ついにラスト3人。野次馬は盛りだくさん。店長の煽りマイクも絶好調。気合を入れてクジを引く。3、2、1、ゼロ。行列はなくなった。特賞は出ない。あれ?どしたの、これ?店長が慌てる。クジを確認。あと3枚残ってる。店員が走る。店内放送が始まる。クジの整理券をお持ちのお客様はいらっしゃいませんか、まだ特賞が残っております、このままでは特賞は当選者ナシで終了となってしまいます、整理券をお持ちのお客様はおりませんか…みんなが諦めかけたそのとき、女性の声が高らかに響く。あります!整理券、あります!見るとノーメイクに寝間着のお姉さん。たぶん整理券を貰って帰宅して寝ちゃったんだろうな。慌てて走ってきた感じ。野次馬はみんなやんややんやの大歓声。拍手でお姉さんを出迎える。いけ!引け!引いてくれ!野次馬と店長の心がひとつになる。乱れる呼吸を整え、一拍おいてお姉さんがクジを引く。一瞬、全員の呼吸が止まり、さあ、さあ、さあ、どうなった?あえなくハズレ。万雷のため息。赤くなるお姉さん。あなたは悪くない。可哀想に。そのまま特賞を残してクジは終了となりました。帰宅しておせち料理。彼女がお重を持参してくれて、それに各地のアンテナショップで買った食材を詰めてくれた。そのあいだに僕はお雑煮を作る。子どものころから食べていた、鰹と鶏の出汁のお雑煮。鶏肉と大根と人参と牛蒡、アクを丁寧に掬って醤油と塩で味付け。焼いた角餅を器にいれ、具と汁をよそい、最後に三つ葉といくらをのせる。彼女にも気に入って貰えたようでありがたかった。お雑煮とおせちで日本酒を飲んでいたらそのまま元日は終わった。2日。コタツで目覚める。かたわらに日本酒の瓶。一升瓶を半分くらいひとりで開けたらしい。二日酔いだ。喉も痛い。鼻腔の奥のあたりがヒリヒリする。あれだ、徐々に炎症範囲が下に移動するやつだ、やべえやっちまったな…と思いつつ家を出て皇居へ向かう。一般参賀。いまの陛下はすごく好きなので、お元気なうちに陛下に日の丸をパタパタしたかった。陛下と一緒に新年のお祝いをしたかった。しかしあまりに勝手がわかってなかった我々は受付時間ギリギリに到着してしまい、時すでに遅し、受付終了。ほんとに10分の差だったみたい…でもまあめっちゃ綺麗な青空だったし、一般参賀から戻ってくるひとたちはみんなとってもニコニコしてたし、新丸ビルのパレドオールで買ったピスタチオとチョコレートのケーキがちょっともうおかしいくらいに美味しかったので、いい一日だったと思う。風邪は順調に悪化。3日。咳が出てきたので咳止めを飲み、上野鈴本演芸場の初席へ。権太楼師匠の「つる」で爆笑。上手いひとの前座話って最高に面白い。小三治師匠がお元気そうで嬉しかった。小言念仏、すげーよかったなー。トリの三三師匠の「枕が長い落語家なんてろくなもんじゃないんですよ」で爆笑。帰り道、なんか食べよっか、何にする?揚げ物どう?とんかつは?でとんかつ屋さんに向かうけど、五分の差で間に合わず。もうどうしてもとんかつが食べたいとんかつの口になっちゃってたのでいろいろとやってるお店を調べるも三ヶ日の壁に挫折。最終的に家の近くのスーパーで安くなってた牛肉とお寿司、それから串カツを購入。すき焼きとお寿司と串カツで晩ごはん。食べてる最中にふと思い出したのだけれど、そういえばすき焼きとお寿司をいっぺんに食べるって小学2年生くらいのときの夢だった。うっかり夢がかなってしまった。大人ってこわいな。風邪はさらに悪化。市販薬飲んで早めに床につく。看病モードに入った彼女がなんやかんやと世話をやいてくれる。素直に嬉しい。具合悪いときにひとが一緒にいてくれて、しかも優しくしてくれる。こんなに幸せなことって他にあるかな。たくさんあるか。最高の幸せってやつは同率一位が無数にあるから困る。きのうもきょうもあしたも最高に幸せ、みたいなことが現実にあるから困る。最高に幸せ、ではないときに不幸なような気がしてしまうから困る。別に不幸じゃないのにね。不幸じゃなければたいていは幸せなんですよね、あとは読みとる側の問題なんですよね、幸せだなって思いながら過ごしていきたいものですね。4日。きょう。仕事始め。マスクして市販の風邪薬飲んで出社。あけましておめでとうございます、本年もよろしくお願いします、と言おうとして声が出ないことに気づく。仕方ないから一日ずっとひそひそ話の音量で働いてました。だからきょうの日記は()の中で書いているのです。帰りに病院いって薬もらったけど、いまは普通に熱が出て咳が止まらん感じ。明日にはよくなってるといいなー。というわけでそろそろ寝ます。皆様、2017年もよろしくお願いします。楽しくってハッピーでエモくてラブい一年にしましょうね。では、お休みなさい。)

年末

仕事を納めて、楽しい忘年会もいくつかやって、年内の予定がみな終わった。静かな年末年始がやってきた。

 

起床する。寝相のせいで布団も毛布も足元に丸まっている。冷えた身体がゴキゴキと強張っている。ベッドからそっと抜けだし、浴槽にお湯を張る。こたつの上に出しっぱなしになっていた紙パックのお茶を飲む。喉をとおる冷たさを心地よく感じる。やはり冬はいい。特に東京の冬はいい。いろんなものが勝手にちょうどよく冷えてくれる。地元の東北ではこうはいかない。実家で飲み物を出しっぱなしにしていたら、朝には氷が張ってしまう。だから飲み物は必ず冷蔵庫にしまわなければならない。冬の北国では冷やすためではなく、凍らせないために冷蔵庫を使うのだ。

 

お湯が溜まったよ、とアラームがなり、漫画をもって風呂に入る。志村貴子の「こいいじ」を5冊。きっちり5冊読み切るころには身体はすっかり温まっている。そのあいだ湯船に浸かることを許されなかった両腕は金属みたいに冷たくなっている。本を脱衣場に投げ、機械と化した左右のアームを湯船につける。二の腕に鳥肌がたち、ぞわぞわとする感じが背中から尾骨にかけて広がっていく。毛穴が緊張して、それからゆっくり開かれていくのがわかる。しばし目を閉じてその感覚を楽しむ。ロボットアームが生体部品へと換装されていく。

 

目を開ける。裸眼のぼやけた視界の向こう、湯船のふちに乗せた足が見える。左足の小指がピクピクと動いている。ぼやけた裸眼の錯覚か、ただの不随意運動か。それともいつか野外鑑賞会で見た映画のように、脳の視覚中枢にあるスクリーンが風ではためいているのだろうか。

 

視覚の変化は楽しい。子どものころから、「世界がまるで違って見える」ってやつが好きだった。マインドの話というより、どちらかというと物理的な話。例えば、教室の机に乗ったときに見える景色とか、街を歩くとき、わざと高いところばかり見上げながら歩くとか。わざと道に迷うのも好きだった。自転車で少し遠くに行って、知らない道を方向感覚がなくなるまでぐるぐると回る。自分がどこにいるのか、どっちを向いているのか解らなくなる。視界のすべてが初めてで、いつもの景色にへばりついている意味や文脈が少しだけ軽くなる。いつも感じてる違和感や息苦しさがちょっとだけ楽になる。けれど知らない景色が知ってる景色になるまでの時間はほんの僅かでしかなく、子どもの僕はそのあいだに精いっぱい深く呼吸をするのだった。

 

風呂からあがり、水を飲み、着替えて外に出る。見上げると完璧な青空。一年の終わりよりはむしろ始まりに相応しいような、そういう空だ。これからどこかでお昼ごはんを食べて、そのあと銀座にいき、あちこちのアンテナショップをまわって年末年始用の食材を買う。黒豆や栗きんとん、かまぼこにいくら、それから日本酒。ほやの塩辛や三升漬けや千枚漬け、その他とにかく目についた美味しそうなものを買う。頭を空っぽにして動物的に買う。餅も買おう。くるみ餅を作るためにすり鉢も買おう。雑煮をたくさん作りたいから大きな鍋も買おう。美味しいものをたくさん買って、あとはのんびりと過ごすのだ。テレビを見て、近所の神社にお参りして、こたつでお酒飲んでいつのまにか寝ちゃって、汗かいて起きてお風呂はいってまた飲んだりするのだ。

 

ふと気がつくと、いまの僕はいつでもどこでも深く息を吸うことができる。馴染んだ景色のなかで、まあまあ軽い気分で過ごせるようになっている。経験を積んで成長したのか、それともただ鈍感になったのか、どっちかわからないけどもまあそれもどっちだって構わない。そこにあるのはただの変化で、ただそんなふうになったってだけのシンプルな事実で、そうであるからにはそれをただ受け入れること以外にできることなどないのだ。

 

 

クリスマス・イブ

12月24日。クリスマスイブ。

 

イブなので外に出ることにした。乗り慣れた小さな赤い自転車に乗って昼間の歌舞伎町へ。イブの歌舞伎町はドンキで買ったようなサンタ服の呼び込みがたくさん。ラーメン二郎の行列はいつもより少なめ。二郎歌舞伎町店、改装して普通に美味しくなったらしい。行ってみたいと思うのだけれどどうも足が向かない。二郎、ブタとヤサイは好きなんだけどラーメンがそんなに好きじゃない。麺抜きがあればいいのにな。量的にもちょうどいいだろうに。

 

二郎をすぎてラブホ街へ。まだカップルは多くない。夜はずいぶん混むのだろうな。大きなカバンを持った女性がひとりでホテルから出てきて歩きながら電話をかけている。お仕事中だろうか。僕も帰ったら片付けなければならない仕事がある。ハッピーホリデーの連休だけど、働いてるひと、たくさんいるのだろうなあ。みなさんどうも、お互いお疲れ様ですね。もうひとふんばり、がんばりましょうね。

 

大久保通りのコリアンタウンを抜けて、新大久保のイスラム横丁へ。クミンパウダーにコリアンダーパウダー、ガラムマサラマスタードシード、ブラウンカルダモンとフェネグリーク、ココナッツミルクを何缶か、あとバスマティライスも購入。スパイスはテンションが上がる。これだけ買って2000円。安い。興奮して鼻息が荒くなる。興奮したせいか小腹が空いたので店先で焼いてる鶏の串焼きを購入。軽めのスパイス風味。マサラ・ミーツ・京都みたいなあっさり感。軽く胃を温めて帰宅。

 

イブなのでさっそくカレーを作る。大きめにスライスした豚の肩ロース肉。あらかじめコリアンダーパウダーとにんにくとしょうが、それに赤ワインビネガーでマリネしておいたもの。カシアとマスタードシードベイリーフクローブを油で熱し香りを出す。刻んだ玉ねぎを黒くなるまで炒める。焦げを恐れず強火でやるのがコツ。にんにくとしょうがをいれ、トマト缶。強火で水分をとばす。食べごろのもんじゃくらいのテクスチャーになったら肉を投入。同時にスパイス。チリペッパー、ターメリックコリアンダーパウダー、クミンパウダー。肉の表面が色づいたら、赤ワインビネガーと水。あとは煮込めばポークビンダルーの出来上がり。

 

イブなのでもうひとつカレーを作る。作り方は前に書いたことがあるので省略。玉ねぎと鯖缶をスパイスと油でエイヤっとやってココナッツミルクを入れ、最後に角切りのトマトを加えて少しだけ煮込んで完成。サバカレー南インド風。

 

それから部屋の掃除なんかもチャッチャッとやって、イブなので銭湯に行く。Tシャツにフリース一枚で外に出る。流石に寒い。でもこうやってガンガンに冷えたほうが風呂がよくなる。スイカに塩みたいなものだ。でもあれですね、いざ風呂に入ってみると、身体を洗ってるうちに温まってしまって、湯船につかるときの感動はあんまりないですね。身体も水で洗うべきだったのかな。湯船にしばらくつかって、それからサウナへ。内臓が熱を持つまで留まって、満を持して水風呂。この一年ですっかり水風呂が好きになってしまった。毛穴と毛細血管がぎゅっと閉じていく感じがたまらない。ギンギンに冷えた状態で風呂やサウナに入り、毛穴と毛細血管がじわ〜っと開いていくのもいい。それを繰り返してなんだかよくわからなくなるのも好き。自律神経としてはどう思ってるのだろう。ありがたいのか、パニックなのか。

 

銭湯からの帰りは薄着が心地よい。指先が冷える前にちょうど家まで帰りつく。明石家サンタをみたり、大島弓子の「ロングロングケーキ」を読み返したりしながらダラダラと仕事をする。のんびりと仕事を終わらせ、寝ようとして、うとうとしたり目が覚めたり、なんだかんだで夜が開ける。クリスマスの朝が来る。

 

きょう、恋人が日本に帰ってくる。今夜、八時になれば、サンタがうちにやってくる。それが待ち遠しくてたまらない。

 

わたしもあなたも、ありったけ幸せでありますように。

メリークリスマス。

暖かな冬の夜

朝からなんとなくどろんとしていた。何が、というわけではないけれど、なんだかはっきりしなかった。いつのまにかシャツを着て、いつのまにか靴紐を結んでいた。ぼうっとしたまま電車に乗り、ぼうっとしたまま働き、そのまんまで一日が終わっていった。

 

ところで仕事をしながらふと思いついたのだけれど、ムヒってもしかして無皮ってことなのだろうか。痒くて掻きむしって皮膚が全部めくれあがる、みたいな。痒い?心配するな、皮がなくなれば痒みもなにもなくなるだろう…?みたいな。そういうことなのかなあ。そうだったら怖いなあ。

 

仕事は終わっていないのだけれどまあいいかという気持ちになって会社を出る。暖かい空気。強い風。まるで春の嵐のような。コートとセーターを会社に置いてきたのは正解だった。まだ雨は降ってこない。少し歩きたくなって、駅とは反対の方向に足を向ける。ぬるい水のようなぼんやりと戸惑った空気の中をゆっくりと進む。イヤホンを耳に入れる。小沢健二の「春にして君を想う」。耳に吐息のかかるような、囁くような歌声。

 

やりたいようにやった一年だったな。ようやくはっきりしてきた頭でそんなことを思った。とにかく自分に素直に過ごした年だった。好きなことだけをやった。好きなものを見て、好きな音を聴いて、好きな服を着て、好きな人とだけ遊んだ。お気に入りのソファに座り、ヒゲを生やし、かわいいトートバッグを持って、毎日のようにカレーを作った。とにかく楽しく、心地よく過ごすことが重要だった。そうこうしているうちに、大切にしたいひとと出会い、大切にすることを許され、大切なひとになった。ふたりで過ごす時間が増えるにつれ、また好きなものが増えていった。なにしろ何をしていても楽しいし、どこに居ても心地よいのだ。

 

気がつけば、身の回りが好きで溢れている。モノも、ひとも、時間も。まだまだ楽しいことがたくさん待っている。耳元で小沢健二が歌ってる。君と行くよ、歳をとって、お腹もちょっと出たりしてね、そんなことは恐れないのだ、静かなタンゴのように。いまよりお腹が出るのはちょっと恐ろしいけれど、それ以外は概ねオザケンの言うとおり。春のような冬の夜、クリスマス色の暖かい街。まだ雨は振り出さない。もう数日で恋人が帰ってくる。会ったら何を話そうか、来年はどこに行こうか。あれやこれやを考えながら、家までの道をゆっくりと歩く。少し汗をかきながら、一歩ずつ、踏みしめるように歩いていく。