bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

ロロ「四角い2つのさみしい窓」

書きかけて放置していた文章を見つけたのでそのままアップ。

 

ロロ「四角い2つのさみしい窓」@こまばアゴラ劇場

 

とても良くできたお芝居だった。

 

透明な防波堤。関係性への名付けの拒否。マガイものと本物を区別しないこと。境界線を架け橋にすること。

 

引用、見立て、演劇的な仕掛けを駆使して、あちらとこちらを隔てる境界線を、乗り越えたり、無効化したり、往復したり、重ねたりしていた。

 

舞台の上には、ギミックと、ファンタジーと、優しさが溢れていた。

ただ、切実さが不足していた。

 

「死すら別れにはならない、彼岸と此岸は分かたれてはいない、私はいつでもあなたに会える」

こういう言葉(劇中にこんな直接的なセリフがあるわけではないがメッセージは概ねこんな感じ)が感動を呼ぶのは、本当は会えないからだ。死は永遠の別れに他ならず、彼岸と此岸は残酷なまでに分かたれてしまっている。どれだけの愛があろうとも、触れることも、言葉を交わすことも適わない。死がそういうものであるからこそ、「死者は世界に偏在する」とか「忘れないかぎり、生き続ける」みたいな言葉が輝く。失ってしまった痛み、いつか失われることへの不安、そういう寂しさがあるから、喪失の肯定に力が生まれる。

 

今回の舞台では、喪失ははじめから肯定されているように見えた。これは深刻な喪失を味わっていない人の作品なのかもしれないな、と思った。

 

これは勝手な推測だけど、三浦さん、失う前に恐れていたほどには喪失が痛くなかったのではなかろうか?

恋をして、いまのこの世界があまりにも輝いて見えて、輝いているが故に、恋人を失うこと、恋心を失うこと、いま抱いている切実さをいつか忘れてしまうこと、そういうことが本当に本当に恐ろしくて、そういう切実さに彩られてロロのボーイ・ミーツ・ガール・ラブ・ストーリーは成立していたのではないか。でも、いざ恋を失ってみると、世界は終わったりしないし、日に日にしんどさも薄れていって、恋心も忘れてしまって、それでも世界は相変わらず美しくて、それってどういうことなんだろう?あれだけ奇跡だった切実さを失ったのに、なぜ?という問いが生まれて、その答えが「失われた恋にも意味はあるのだ、忘れてしまったとしても消えないのだ」なのではなかろうか。ただ、ここ最近のロロのお芝居に共通すると思うのだけれど、そこには張り詰めるような切実さはやはり存在しなくて、むしろ柔らかく優しく弛緩しており、そうだとすると、切実でない、弛緩した目から見ているにも関わらず世界が美しくてたまらないというのは、いったいどういうことなんだろう?という問いが立ち上がってくるし、ロロはまだそこに答えていないんじゃないか、と思うのです。