bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

小沢健二「 so kakkoii 宇宙」

小沢健二。アルバム。

 

小沢健二については、信者と言ってもいいような大ファンを自認していることもあり、とても言いにくいのだけれど、今回のアルバム、この感じにはあまり乗れないな、というのが正直なところ。大好きなのは変わらないけれど、なんていうか今回は、俺にはちょっとキレイすぎる。まともすぎる。前向きすぎる。

 

いやそりゃさ、「今ここにあるこの暮らしこそが宇宙」だと思うよ、俺も。

なんて素敵なんだろうと、なんて奇跡なんだろうと思うよ、俺も。

論理的に考えれば、そうでしかあり得んよ。

そりゃそうだよ。

 

でもさあ、その「暮らし」って、どんな暮らしなんだろね?

「今ここにあるこの暮らしではすべてが起こる」

なんて言うけどさ、ここで言うその「暮らし」には、別にキレイでもステキでも前向きでもない、どってことない俺の「暮らし」は、含まれてるのかね?

やらなきゃいけないとわかってることをダラダラと先延ばしにしてほうぼうに迷惑をかけてしまい卑屈な謝罪を述べながら自己嫌悪に陥るみたいな、そういうのは「すべてが起こる」に含まれているのかね?

なんてことを思ってしまう。

 

ヨレヨレのスーツ着て、誰も幸せにしないような類いの、誰がやってもいいような仕事を吐きそうになりながらモタモタとこなし、働きたくねえなあ、努力しないで大金転がりこんでこねえかなあ、と思いながら深夜に牛丼を掻っ込み、休日は散らかった部屋の真ん中に座りこんで何から手をつければよいかもわからず呆然としているうちに日が暮れて、何が食べたいのかすらわからず日高屋で工業製品的な麺をすすって終わっていく、そういう俺の「暮らし」は、はたして「so kakkoii 宇宙」の構成要素に含まれているだろうか?

 

俺の暮らしは決して素敵ではないけれど、かけがえがない、替えがきかない、他の誰とも代わることができない、まさに文字通り入れ替え不可能なもので、だから俺は俺の人生を、俺の世界を、深く憎んだり愛したり何も思わなかったりしている。この人生は、この世界は、無限の可能性の中からたまさか俺に与えられた、あるいは選んだ、はたまた選ばされたもので、とにもかくにも好むと好まざるとにかかわらず俺は俺のこの人生を生きており、俺はそのことをロマンティックに感じているし、この俺の人生の唯一性を美しいと思っている。

 

世界が無限の可能性の総体であること。その無限の世界の中で「俺」という存在が他の何とも入れ替え不可能な特権的な存在であること。実はこの世界に存在するひとりひとりがそのような特権的な存在であるということ。それらのことを認識するならば、私たちの世界は、人生は、生活は、暮らしは、当然にすべてが奇跡だし、何もかもが美しい。どんなに悲惨なことも、どんなに醜いことも、すべてが奇跡としてそこにある。

 

私たちはわかりあえないけれど、生きることに意味はないけれど、この世界ではとてもとても残酷なことが起こるけれど、それでもこの世界は、美しい。少なくとも、生きるに値するくらいには。

 

まともで前向きで清潔な暮らしは、それはもちろん美しいよ。愛し子に恵まれた生活は、それは奇跡なのだろうと思うよ。でも俺は、うだつのあがらない俺の生活を、それと同じくらい美しいと思う。弱くて情けなくて正しくもない毎日を奇跡だと思う。小沢健二が「嘘」とか「幻想」とか呼ぶような、システムの中で営まれるすべての人の暮らしを、愛おしく思う。

 

私たちは、世界の中に存在している。世界とは、可能性の総体、起こりうることのすべてである。私たちは、根源的かつ未規定な世界の中に、理解可能なものの総体として社会を作り、その中で生きている。社会の中で生きる私たちは普段、世界から隔離され、阻害されている。それでも世界は常にそこにあり、折りにふれ私たちの前に顕現する。ローラースケート・パークの歌詞の通り、「嘘」と「幻想」に覆われた暮らしにだって、太陽の光は降りそそぐ。どんな毎日を送ってたって、神様がそばにいるような時間は訪れる。世界は、そういうふうに出来ている。

 

小沢健二はそのことをよく知っていると思うし、これまでの彼の歌はそういうことについての歌だと思っている。俺はずっと、そういう宇宙のことやそういう歌を唄う小沢健二のことを、so kakkoiiと思い続けている。