bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

大人になれば

週末から急に暑くなった。仕事は相変わらず忙しい。もう半年くらいずうっと忙しいので、だんだん忙しいのに慣れてきている。どうやら忙しいのコツは、ミスろうが間に合わなかろうが無理なもんは無理なんだわ仕方なかんべ、と本心からそう思うことのようだ。最近のオレなんかはもう鼻歌まじりにミスをしている。鼻くそほじりながら〆切を豪快にかっ飛ばしている。振られた仕事を請け負いながら無理です間に合いません最善は尽くしますがいつまでかかるのかも正確には見積もれませんと明言している。それでも仕事を振られ続けているので、これで何が起ころうがそれはもう振る方に問題がある。そんなふうに開き直りながらいつ終わるともしれない仕事をえっちらおっちらやっている。

 

俺はきょうもポロシャツとスラックスに身を包みひとりデスクに座っている。資料が雑に積み上がった机に座り、パソコンをカチャカチャといじって、メールを打ったりエクセルやったりしている。上役にアポをとって会議をセットし、昨対比やら法改正やらを説明しながら方針を決め、関係者に協力を仰いでみたり難色を示されたりしている。昼飯はキッチンカーで600円の弁当、21時過ぎの地下鉄は座れたり座れなかったり、終点からまた乗り換えて帰るころにはもう深夜で、彼女の作ってくれた晩御飯を食べながらテレビを見て、番組が終わるころにはもう寝る時間、歯を磨いてベッドに潜り、話したりスマホいじったりで遅くなり、翌朝は眠い目をこすりながらのそのそと起きる。シャワーを浴びて歯を磨いて、まだ寝てる彼女に行ってくんねと声をかけ、きょうも一日なんとかやってこうな、お互いがんばろな、つってハグをする。イヤホンを耳に刺し、アルピーのdcガレージか空気階段の踊り場かそのどちらかを聞きながら会社へ向かう。たまに気がつかず同じ回を二度聞いたりしている。ラジオが面白くて電車の中で普通に吹き出したりしてるのでたぶん周りのひとからしたらすげえキモい感じに見えてるんじゃないかと思う。こいつ通勤電車の何がそんなに面白いんだキメえな、みたいな感じ。でも俺はそういう人からどう見えるかみたいのはあんまり気にならないたちなので普通に笑う。運良く座れた日は座りながら笑う。座るとたいてい眠くなってくるのだが、眠気が来るのはいつもきまって会社まで残り一駅のところなので眠ることができない。どうせならもっと早くに眠くなればよいのに。一度、あんまりにもきれいでナチュラルな眠気に襲われたので、これは一駅分の時間で一晩分くらいの濃密な睡眠が得られるのでは!と思って寝てみたことがあるけれど、普通に3駅くらい寝過ごしただけだった。それからというもの眠気はただの障害物である。駅から会社までは5分、その5分の間に父親から電話がかかってくる。母親が入院するので保証人に名前と連絡先を書いてよいかと聞かれる。

いやそれはもちろん構わんけど入院てどしたの。

いや大したことはなくてね、下血して貧血で倒れて救急車乗ったのさ。

下血ってなんでまた。

いや癌とかそういうのではなくてね、捻挫して痛み止め処方されてそれ飲み続けてたら消化器に潰瘍が出きたらしいよ、心配はいらないけども検査だけはするってことで、ただ予約いっぱいで時間だけかかるからって入院せねばならねってさ。

ほんとに大丈夫なんそれ、土日そっちに顔だけでも出しに行こうか。

いや病院が郊外に引っ越すってんでこの週末はリハーサルやるから入院患者さんは全員面会禁止だから、来ても会えないってさ。

 

会社までの5分では会話は終わらず、しかし通勤時間の会社の前で立ち話も何なので、会社を通り過ぎてそのまま歩くことにする。

 

面会禁止なら行っても仕方ないね、お父さんは大丈夫なの、東京は急に暑くなったけどそっちはどうなの。

こっちも暑くなってさ、今週末いま世話人やってる神社のお祭りなのよ、母さん倒れてそれどこではねえってなったんだけど、週末は面会もできないってなったし、仕方ないから予定通り奉納カラオケやるんだよオレ、だからきょうもこのあと母さん面会行ってから歌の練習しなければならないの。

何唄うの。

オレ唄うったらあれよ、吉幾三よ。

雪国?

そう、よく知ってらな、雪国。

 

背中がジリジリと日差しに焼かれる。首すじにダラダラと汗が流れる。もう地下鉄ひと駅分くらい歩いている気がする。始業時間は過ぎただろうか。

 

とりあえずわかったよ、また折を見て電話するから、またね。

 

そう言って電話を切る。スマホの画面に並ぶ数字は始業時間を5分過ぎたことを示している。30分遅れます、上司にそうメールして近所のドトールへ向かう。窓際の席に腰を下ろし、必要以上の冷房と必要以上のアイスコーヒーに冷やされながら、少しのあいだ目を閉じる。しばらくして、背中を濡らす汗が痛いくらい冷たくなってきたころ、俺は自分がいつのまにかもうなんの言い訳もできないくらい大人になってしまっていることに生まれて初めて気がつく。とりあえず粛粛と毎日をやってるタイプの働く大人になっているのだと気がつく。そしたら急に寂しいんだか面白いんだか悔しいんだか誇らしいんだか何がなんだかわけのわからない気持ちが押し寄せてきてワッとなったので、とりあえずストローの包み紙をクシュクシュさせ、そこにコーヒーをたらし、ミョミョミョミョと伸びるのを動画で撮影したりしてみる。あーもー何もしたくねーなこのまま帰ったろうかなと思いながら、出社してからやるべきタスクのことを考えている。窓の向こうでは真っ青な空に真っ白な雲が眩しいくらいに光っている。眼の前のトレイの上ではだらしなく伸びたストローの包み紙が薄茶色に染まっている。俺は時計を確認し、もう5分くらいはこのまま座っていられるな、と思う。