bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

小沢健二「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」

月初くらいの疲れ果てて文化的食事をうけつけない状態はなんとか脱して、いまは文化的過食に陥っている。文化的空腹を埋めようと(あるいはただ単に慰めを得ようと)少しでも興味を惹かれたものをホイホイと玉入れのように買い物カゴに放りこんでいる。無計画な買い物のせいで部屋はどんどん乱雑になっていく。服装の乱れは心の乱れなんてことを言うがあれは半分嘘で半分は本当、服装の乱れはただの服装の乱れだけれども心が乱れると服装も乱れる。舌が垂れると書いて乱れると読む、だから言葉は正しく使いましょう。特に意味はない言葉、ただのそれっぽい言葉遊び。

 

映画「リバーズ・エッジ」の主題を小沢健二が歌う、歌詞はこれ。こんな感じで歌詞の画像が流れてきたのはもう2週間ほど前のこと。驚いた。えっ、そんなことまで言っていいの!?みたいな、わりとセキララな思い出話だったから。関係ないけどセキララって言葉はなんか好きだ、まずもって語の響きが美しい。セキレイのようでもありキキララのようでもある。キラキラして、それでいてどこか爽やかだ。しかし漢字にすると赤裸々。赤くて裸、もひとつ裸。意味合いもえげつない。響きと意味、そのギャップもいいと思う。話を戻すと、最初は詩的な味わいよりもまず下世話な興味が先にたった。やっぱ嶺川貴子と付き合ってたのか、とか、自分が嶺川貴子でも岡崎京子には嫉妬しただろうないろんな意味で、とか、そういうことを考えてた。それ以上は想像がつかなかった。「リバーズ・エッジ」のあの乾いた砂漠のような静まりかえった質感の中でこの歌詞がどう響くのか、僕にはわからなかった。曲を聴いて、また驚いた。あまりにも、あまりにも優しかったから。心の深いところで繋がりあう友だち(それはもちろん岡崎京子だ)へ語りかけるような、親密さと優しさに満ちた歌声。「リバーズ・エッジ」はずっと、残酷な真実についてのお話だと思っていた。荒涼とした砂漠のような世界の中で、ほんの一瞬、繋がりあえたような気がして、そしてまたすれ違っていく。人と人とは分かり合えない、それを知っている人としか分かり合えない。そういう「平坦な戦場」についてのお話だと思っていた。けれど、「アルペジオ」に歌われているのは、分かり合い、繋がりあう二人の姿だ。もうはっきり言ってしまうけれど、この曲を聴いていると、山田くんと若草ハルナはそのまんま小沢健二岡崎京子にしか思えなくなってくる。そのように読み替えることが許されるならば、山田くんとハルナが小沢健二岡崎京子のように深いところで結びついていたのならば、本当の心は本当の心へと届くのならばーそれが本当なら、山田くんやハルナと同じ「平坦な戦場」を生きていたあのころの僕らにとって、どんなにか喜ばしいことだろう。あの橋の上でのハルナの涙が、山田くんとの心の共鳴が、一瞬の刹那のつながりではなく、いつまでも続くほんとうのつながりのはじまりなのだとすれば、そのようなつながりがどんな世界においてもあり得るのだと、この平坦な戦場においても平坦ではない愛があり得るのだとすれば、「リバーズ・エッジ」とは、世界の酷薄さではなく、酷薄な世界においても愛が存在し得るのだということを描くお話なのだということになる。少なくとも、ラストに「アルペジオ」がかかる「リバーズ・エッジ」は、そういうお話になるだろう。この曲ひとつで、20数年ぶりにオセロが一気にひっくり返ってしまったような気分。そんなのってねえ、もうあんまりにも素敵じゃないか。

 

ああ、早くライブで聴きたい。