bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

ロロ「マジカル肉じゃがファミリーツアー」

土曜の昼。KAAT。

 

新春初ロロは神奈川から。すげえ良かった。まとまりそうにないのでぐちゃぐちゃと感想を書きます。全体の空気感はどことなくリトル・ミス・サンシャインに似てるように思った。でも何が似てるのかはよくわからん、「家族」で「移動」ってとこだけかもしれん。板橋駿谷さんまで含めてフルメンバーのロロは久々、というか初めて見るかもしれん。多摩センターのときはたしか亀島さんがいなかったから、やっぱ初めてなんだなー。ひとりひとりも好きだけれど、全員揃ったときのこの無敵感はなんだろう。SMAPに感じていたのと同じ気持ち。ステージ上では優しさと可愛らしさと微笑ましさが爆発していて、ひとつひとつのやりとりがとにかくキュート。「若いころのパパとママが小さなシールになってこの家のいろんなとこに貼ってあるはず、どこにあるかはもうわからないけど」ってこのやりとりだけでもう可愛すぎてたまらない。こんな感じがずーっと続く。描かれるのは、記憶と名前と愛にまつわるお話。しかし本当にお話だったのか?ってくらいにストーリーが残ってない。かわりに柔らかくあたたかい手ざわりみたいなものだけが残っている。それでも覚えていることを凸凸と。

記憶について。「父母姉僕弟君」での「忘れたくない、いまのこの気持ちがいつか消えてなくなるなんてそんなの嫌だ」から「忘れたって大丈夫、忘れることは無くなることとは違うから、たとえ忘れてしまっても、それは確かにあったのだから」に変化してる。大人になってる。実際、忘れてしまっても大丈夫なことがあったのだろうと思う。生きてると色々ありますわな。ここ一年くらいの自分の感じとぴったりだったので、あーもうわかるわかるわかる!と胸の内で膝を叩きまくっていた(ややこしい)。

名前について。「正しい名前をつけると、世界は欲情するの」みたいな台詞を聴きながら、大澤真幸が「恋愛の不可能性について」で書いていたことを思い出した。曰く、愛は要素に分解できない。「○○のどこが好き?」「かわいくて明るくて聡明なところだよ」「じゃあ、もし○○がかわいくなくて明るくなくて聡明でもなくなったら、好きじゃなくなる?」ここでyesと答えるならばそれは果たして愛だろうか。否。かわいくなくても、明るくなくても、聡明でなくても、○○への愛は変わらない。僕が好きなのは、○○の何か、ではない。僕が好きなのは○○なのだ。あ、「○○」には各々が好きな固有名詞を代入してください。愛は要素に還元されない。愛の対象は名前によってしか語り得ない。名前で呼ぶことでしか捉えることのできないものがあり、それはたぶん本質とか魂とか呼ばれるもので、だから「名づける 」とは本質を同定し魂を与えることに他ならない。

どうなのかな、これ。伝わるのかな。たぶん伝わらないだろな。文章もぐちゃぐちゃだし。でもよいのだ、自分にさえ伝わっていれば、それでよいのだ。 そういうことにしたのだ。

 

行きは中央線と副都心線直通東横線直通みなとみらい線だったので、帰りは横浜線八王子経由中央線にした。今日の俺はいびつな楕円軌道を描いて西東京をぐるりと囲んでいるのだ、と思うと無性に楽しかった。鈍行の横浜線に揺られつつ、楕円軌道の大先輩であるハレー彗星の気持ちになってみようとしてみたけれど、それは流石に無理みたいだったので、睡魔にまかせておとなしく眠ることにした。のどの奥がぱりぱりと乾いている感じがした。ちょうど風邪をひきはじめたのかもしれないと思った。