bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

忘れることと巡り合わせと

11月になった。街路樹のイチョウが黄色く色づいている。見上げると、青空とイチョウの境界線がくっきりと分かれて見える。建物の、光の当たる面はいつもより白く明るく見え、影になった面はひときわ暗く見える。コントラストが鮮やかになっている。冬の光である。

 

引越しを来週にひかえ、部屋には少しずつ段ボール箱が増えている。どこにこんなにたくさんの荷物があったのだろう。ここに越してきたときには荷物も少なく、広めのワンルームは閑散としていたのに。いつのまにか部屋の広さに見合うくらいモノが増えていた。暮らしというのは部屋にあわせて営まれるものなのだろうか。四角い箱に入れて育てたメロンが四角くなるように、部屋のかたちにあわせて暮らしのかたちも変わるのだろうか。生まれたときから三鷹天命反転住宅で育った子どもはどんなかたちになるのだろうか。いつか自分が子どもを育てることがあったら、何か一つ、しょうもない嘘を信じ込ませてみたいと思う。夜のコンビニは深夜料金を取られるとか、「右」という概念を隠蔽するため「左」と「左じゃないほう」ですべてを済ます、とか。そんでいつか我が子になんでそんなことしたの?と聞かれ、なんでだったかなあ、もう忘れたわ、と答えたい。いろんなことをして、どんどん忘れていって、なんかあんま覚えてねえけどめっちゃ楽しかったなあ、とだけ思いたい。

 

サンモールは今の家から歩いて3分の近さなのだけれど、中に入ったのは今回のロロが初めてだった。父母姉僕弟君。愛と忘却とその悲しみについて、みたいなお話で、いまの僕にはあんまり刺さらなかった。父母〜が「忘れることは悲しい、けれど忘れたって消えないから!」な強い気持ち強い愛の美しさだとすると、こないだの「BGM」は「忘れることも変化することも仕方ない」と受け入れる一方、過去は過去で消えることなく(当たり前だ、起こったことはなかったことになんてならないのだ、誰が忘れようが忘れまいが)存在し続け、知らぬ間に誰かに(あるいは自分に)影響を与えたり与えなかったりする、そういう現実を描いていた。忘れることは、少しさみしいけれども、悲しいことではない。忘れられることは、過去の価値を毀損しない。忘れることを悲しむよりも、思い出すときのあの素敵さを楽しみたい。いまの僕はそういうモードなので、そういう感想になってしまう。数年前の自分だったらぶっ刺さってたんだろうな、これは。

 

引っ越す前に飲もうよ、つって友達夫婦と場末のイタリアンに行った。ロロとiTとストレンジャー・シングスとブレードランナーと、荷造りと照明とカーテンの話をした。赤海老の魚醤漬けに齧りつき、焼酎の代わりにリモンチェッロを使ったホッピーを飲んだ。思いついてひゅっと飲める距離に友達がいる、というのはずいぶんとありがたいことだったんだな、と改めて思った。二年前、ひとりきりでここに越してきたとき、彼らが居てくれて本当にありがたかった。そもそも彼らが居なければここに越してくることもなかっただろうし、そうなればいまの恋人と出会うこともなく、こつやって二人で住むために引っ越すこともなかった。大袈裟に言えば奇跡、ロマンチックに言えば運命。でもまあ、巡り合わせ、くらいが丁度いい気がする。いろいろあって、いろいろな平行世界があり得たけれどいまのこの現実はこのようになっていて、そのような世界のことを僕はとてもとても気に入っている。そんなようなことと幾ばくかの感謝が伝わっていればいいなと思う。飲んでたときにそう言えばよかったのだけれど、飲むとどうしても酔っぱらってしまうので、そういうことは忘れてしまうのだ。次に会うときまで覚えていられるだろうか。わからない。それも巡り合わせなのだと思う。