bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

あのころの未来に僕らは

もう10月も終わり。ここ最近は秋雨前線と台風のせいで雨が続き、昼間でも底冷えがする。今日なんかは吐く息も白く、いくらなんでも10月にそこまで寒いか、と思ったがよく考えてみると雨で湿度が高いだけだった。そういえば、僕は子どものころ冬になると昼間でも氷点下を下回るような土地に住んでおり、そのころの僕は吐く息の白は氷の色だと思っていた。真冬の白い息はウルトラマンに出てくるペギラやウーの吐くような冷凍光線なのだと信じて疑わなかった。一方で雪合戦(というか背後からの雪のぶっかけ合戦、あるいは背中に入れ合戦)により冷えた指先に息を吐きかけて温めることも普通にやっていたわけで、そのあたりの矛盾についてはどのように捉えていたのか、いまの僕には知る由もない。そもそも矛盾に気がついていたのかどうか、それも危うい。息が冷凍光線である世界と、息を吐きかけて指先を温める世界。そういう背中合わせの世界を同時に生きていた。あのころ流れていたのは、そういう時間だった。

 

ストレンジャー・シングスのシーズン1とシーズン2をほぼ通しで見た。部屋の電気を消し、彼女とふたりテレビの正面に並んで座り、食い入るように集中して見た。家のテレビをこんなに集中して見たのは久しぶりのことだった。スピルバーグであり、スティーブン・キングであり、ジョン・ヒューズでもデ・パルマでもあった。E.Tだったし「未知との遭遇」だったし「アビス」だったし「霧」だったしサイレントヒルだったしバイオハザードだった。現実世界とレイヤーを重ねるように邪悪な世界が存在する、というモチーフは「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」と共通するようにも思えた。でもまあそういう話はどうでもよくて、ただ年をとると物事の類似点がやたらと目につくようになるということの証明でしかなく、何よりグッときたのは、作品に「あのころ」の空気が満ち満ちていることである。あのころとは、万人に共通するであろういたいけで切実な少年時代のことであり、オカルティックなものがまだ信じられていた80'sのことでもある。いまとなっては信じられないことだけれど、あのころの僕らは世界のどこかに手を触れることなくスプーンを曲げられる人間が本当にいるのだろうと思っていた。星空のどこかには我々とコミュニケーション可能なタイプの宇宙人がいるのだろうと思っていたし、もしかしたら1999年に世界が滅びるかもしれないと本気で思っていた。あのころ、サイエンス・フィクションはただのフィクションではなかった。サイエンスとは、可能性のことだった。きょう明日、ここでは起こらないだろうけれど、いつかどこかで起こるかもしれないお話、それがSFだった。すごくふしぎなお話ではなく、すこしふしぎなお話。もしかしたら本当に起こるかもしれない、そう思えるくらい、すこしだけふしぎなお話。それがSFだった。僕はあのころ、そんなふうに物語を摂取し、小さな胸を高鳴らせていたのだ。画面の中の彼らと同じように。そのころのことがなんだかとても貴く思えた。二重のノスタルジーに打ち震えていた。

 

そういえば、スケールはだいぶ異なる話なのだけれど、来月からほんの少しストレンジャーになることになった。ようやく引っ越し先を決めたのだ。とはいえ異世界だの西海岸だのに行くわけではなく、ただ2つ隣の区に移るだけ。転校も転勤も発生せず、ただ見慣れぬ街へ行くだけである。借りたのは、古いけれど広くて清潔なマンションの一室。一階だけれど日当たりがよく、各部屋に大きな収納があり、キッチンにはオーブンがついている。近所には、深夜まで開いている書店と、たくさんの柱時計が様々な時刻を指す古めかしい喫茶店と、遠方から人が訪れる有名なケーキ屋さんがあり、それらのどこからも見える大きな大きなケヤキの木がある。すぐ近くに露天風呂のある銭湯があり、少々歩けばサウナと水風呂のある銭湯がある。地図によると大きな公園や神社もあるので、散歩が捗ってしまいそうだ。何はともあれ、街に慣れるまでのあいだ、知らない街の知らない景色を存分に楽しみたいと思う。知らない街が自分の街に変わっていく感覚を存分に味わいたいと思う。あのころの未来にこんなふうに立ってるなんて、あのころは思ってもみなかった。そんな驚きと幸福をあらためて噛みしめながら、初冬の街を歩きたいと思う。寒空に冷えきった彼女の手をぎゅっと握って、目に見えるすべてが優しさであるような時間の中を、あてもなく、ただふらふらと歩き続けていたいと思う。ずっとそんなふうにいられたらいいなと、そんなふうに思っている。