bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

歯痛

働いていたら、急に奥歯が痛みだした。あまりにも突然すぎたから、曜日も時間もはっきり覚えている。水曜の夕方、きっかり16時だった。疲れているのかな、と思った。疲労がたまり、体の免疫力が落ちるとあちこちに謎の痛みが出たりする。人体はそういうふうに出来ている。ここ数年で身をもって学んだ。まあでもきっと安静にしてれば消える類いの痛みだろう、なんてたかをくくっていたのだけれど痛みは消えず、それどころかゆっくりと強く大きくなってくる。ツバメの雛が育つように、ゆっくりと、しかし着実に。

痛みとともに一晩を過ごし、朝を待って歯医者に電話をする。とれた予約は数日後。それまで痛みをこらえながらの生活。仕事中、食事中、睡眠中。痛みには強弱もリズムもなかった。常にそこにあり、ただゆっくりと強さを増していく。不思議なことに、痛みは強くなりつつ鈍くもなる。鋭さがなくなり、痛みの輪郭がぼやけて、だんだんどの歯が痛いのかわからなくなってくる。指を口に入れ奥歯を触る。ひとつずつ、歯を押してみる。指先で叩いてみる。どの歯を刺激しても痛みに変化はない。変化はないが、鈍く重たい痛みがそこにある。何をしていても変わらない痛み。下顎を万力で少しずつ締め上げられるような、安定した痛み。こういうタイプの痛みはいままで味わったことがなかった。

 

週末。大学時代からの友人が結婚するというので、お祝いの飲み会。相変わらず歯は痛む。歌舞伎町の路地裏の中華料理屋。異国情緒あふれる怪しげな店でロキソニンをガリガリと齧りながら紹興酒をあおる。洋ドラに出てくるジャンキーの気分。何を話したのかあんまり覚えていないけれど、たしか生活の話をしていた。保険、仕事、家、子ども、介護。集まると自然とそういう話になる。我々もそういう年になったのだ。ほんとなあ、こんな年まできちんと生活し続けてるなんて、まだなんか信じられないよ。みんながんばったよな。立派に生き延びて、ちゃんと幸せに過ごしてるもんな。ちょっと気恥ずかしい感慨に耽りつつ、痛む下顎で蜘蛛とムカデの串揚げを噛み締める。ここはゲテモノ料理でも有名な店なのだ。結婚祝いの景気づけに注文してしまった節足動物からは、漢方薬の臭いと質の悪い油の味がした。

 

FUKAIプロデュース羽衣の「愛死に」を見た。性愛をテーマに、絶唱と激しいダンスで濃密な生を表現する「愛」のパートと、あれほど豊かだった愛がいつかすべて忘れさられ失われていく、その無常を表現する「死」のパートと。愛が濃密であればあるほど、死の物悲しさが引き立つ。もののあはれ、である。傑作だと思った。もののあはれを絶唱する姿を見ながら、一時、歯の痛みを忘れた。

 

わたしたちは皆、すべてを忘れ、すべてを失って死んでいく。それは圧倒的な事実である。だからわたしたちはいつも哀しみを抱えている。静謐で透きとおった哀しみ。

もしも事実に抗い、「愛は死んだって消えない、愛はいつまでも輝きつづける」と表明するならば、それは風車と戦うドン・キホーテの行いに等しい。なんてロマンティックで力強い戦いだろう。客観的にはどう考えても負け戦、それでも勝つことを一切疑わず戦い続けるその姿は、もう眩しくってたまらない。

哀しみと、眩しさと、そのどちらもが美しいと感じる。双方に惹きつけられ、その合間で揺れ動く。恋をし、恋を失い、年を重ね、変化するもの、変わらないもの、いつか失われるすべてと永遠になくならないすべて、そのいずれもがほんとうであると思いながら、毎日が進んでいく。いままでもそうだし、たぶんこれからもそうあり続ける。

 

相変わらず奥歯は痛む。奥歯の痛みは永遠だろうか。ちゃんと失われてくれるのだろうか。とにかく歯医者さんの奮闘に期待しよう。この戦いにはきちんと勝ってもらいたい。ドン・キホーテみたいな先生でないといいなあ。