bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

土曜の朝、覚醒前の頭で

寝て起きたらなんとなくそういう気持ちだったのでこれを書いている。

 

文章を書くときには二つのパターンがある。書きたいことがあって書くときと、ただなんとなく書くときと。

難しいのは前者のほうだ。書きたいことがあるときに書きたいことを書くのはほんとうに難しい。書いても書いても、違うこういうことじゃない、自分が書きたかったこととはなんか違う、という感触がぬぐえない。磨りガラス越しに写実画を描こうとしてるような感じになる。そもそも「書きたいこと」が漠然としているからこんなことになるんだと思う。でも、「書きたいこと」が明確ならばそもそも書きたくもならない。自分の中ですっきりと言語化されてしまっていることにはあまり興味が持てない。やはり、なんかぼんやりとではあるが書きたいことがあるぞ、という状態からスタートして、言葉を探しながら徐々に輪郭線を確定していく、という工程が好きなのだと思う。上手く書けたな、と思えることはあんまりないのだけれど。

でも書きたいことがあって書くパターンはそんなに多くない。特に書きたいこともなく、ただなんとなく書き出してみることのほうが圧倒的に多い。好みに合うのもこっちだ。何しろ気楽でいい。頭をあまり働かせず、指のリズムにまかせてスススッと親指を滑らせる。そうするといつのまにか文章が出来上がっている。

ここが文章を書く面白さだと思うのだけれど、そんなふうにして特に何も考えずに書いた文章にも、意味は宿ってしまう。本当になんの意味も持たない文章を書く、というのは恐らく不可能なのだと思う。言葉が意味やイメージを表すものである以上、どうやったって意味やイメージは宿ってしまう。だから発見がある。自分で書いた文章を読んで、他人が書いたものを読んでいるような気持ちになる。しかしそこかしこに確かに自分の残滓がある。自分が書いたものを読みながら、自分が書きたかったことを発見する。毒にも薬にもならんなあ、くらいの心持ちで書いた文章から、強めの炭酸くらいの刺激を受けたりする。強めの炭酸は毒だろうか。薬だろうか。

 

「毒にも薬にもならぬ」って言葉を打ち込みながら、視界に入るものたちについて、これは毒なのか薬なのか、みたいなことを考えていた。部屋のサイズに比してやや大きすぎるテーブルは毒か薬か。飲みかけのゼロコーラのペットボトルは毒か薬か。青い表紙の読みかけの漫画は、残り四枚になった八枚切りの食パンは、はたして毒か薬かどちらだろうか。たぶん世の中のもののほとんどは毒にも薬にもならぬものなのだと思う。毒と、薬と、毒でも薬でもないものとで三国志をやったら、たぶん最終的には毒でも薬でもないものが天下をとる。もちろん統一にいたる過程にはいろんな紆余曲折があると思う。追い詰められた毒と薬が同盟を組んだりする。毒薬同盟。ダンプ松本が出てきそう。毒薬とは毒なのか薬なのか。もしかして毒でもあり薬でもあるものなのか。なんだろう、何がと言われるとわからんけれど、なんかズルくないか、それ。

 

武蔵野館で「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を見た。丁寧で誠実な映画だった。いい作品だと思ったけれど、僕のための映画ではなかった。ケイシー・アフレックのこの悲しみはちょっときれいすぎるな、と思った。人間って、そんなにいつまでも純粋な悲しみを保ち続けられるものだろうか。悲しくて悲しくてたまらない、死ぬまでずっとこの悲しみが消えることはない。そんなふうに思っても、私たちのほとんどは、悲しみに殉ずることが出来ない。忘れてしまうし、癒やされてしまう。悲しみは、消えることはなくとも、薄れていく。時間とともに質感は変質していく。愛する人を喪ったあと、悲しみを抱えながら、それでもひとは飯を食う。眠れなかった夜が、いつしか眠るための夜になる。旅行にだって行くだろう。恋にだって落ちるかもしれない。それは救いでもあり、残酷さでもある。悲しみを抱えた人が出家するのは、あれは悲しみを失いたくないからなのだと思う。悲しみの状態に自分を固定しておきたいのだと思う。そうでないと、癒やされていってしまうから。それが恐ろしくてたまらないから。

俺はケイシー・アフレックが楽しむところを見たかった。娘を死に追いやった自分がいま生活を楽しんでしまっている、そのことに苦しむ姿が見たかった。その上で、どう向き合うのかを見たかった。乗り越えて先へ進むことを選ぶのか、罪悪感と悲しみに殉ずることを選ぶのか。

 

久しぶりに天気がいい。これから洗濯機を回し、たぶん少しだけ二度寝して、それから長尺のお芝居を見に行く。たっぷり六時間。腰痛が炸裂しないといいのだけれど。