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bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

ムーンライト

仕事をしていても、街を歩いていても、気がつけばムーンライトのことを考えている。

考えている、というのは正確ではない。何かを考えているわけではない。わからないことは何もない。少なくとも、自分がわかっていたいことはすべてわかっていると思う。

ただ浸っている。あの美しい世界のことを思い、目を閉じ、あの色彩の中に耽溺している。世界を覆う蒼い光。物憂げで哀しくて思慮深い、あの瞳の色。尖らせた口元に漂う、あの寂しさ。いまにも壊れてしまいそうな透き通ったピュアネスを、どこまでも柔らかく、優しく包みこむ、あの夜の海の色。あのブルーの中をいつまでも漂っている。ゆらゆらとどこまでも沈んでいくように、息をすることも忘れて。

 

昼間、内田樹村上春樹を評した文章を読んだ。「羊をめぐる冒険」について、チャンドラーの「ロング・グッドバイ」やフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」なんかと同じ、通過儀礼としてのイノセントの喪失を描いた物語だ、と語っていた。我々の社会からは大人になるための通過儀礼が失われているから、「羊をめぐる冒険」のような構造を持った物語は生まれにくくなっている。そんなことが書いてあった。 

イノセントの喪失。それはいったいどういうことなのだろう。僕にはよくわからない。通過儀礼を経て失われてしまうもの、それをイノセントと呼ぶのだとして、僕にはどうも、そのイノセントこそ僕そのものなのではないかという気がしてならないのだ。通過儀礼を経て、何かを失って大人になって、そうしてそこに残った僕は、はたして本当に僕なのだろうか?イノセントを失った僕は、あの蒼い光の中に立つことができるだろうか?

 

通過儀礼とはなんだろう?「強くなければ生きられない」が真であるとして、「強い」とはどういうことだろう?映画の中、シャロンは強くなった。筋骨隆々のギャングの顔役になった。男は強くなければ生きられない、まさに「ロング・グッドバイ」だ。では、強くなったシャロンはイノセントを喪失しているだろうか?シャロンは本当に「強く」なったのか、そもそも「強くなければ生きられない」とは本当なのだろうか?

イノセント。純粋さ。繊細な感受性。美しいものやほんとうのこと以外を受けつけない、強情なまでの潔癖さ。いつも擦りむいた傷口をむき出しにしているような、傷つきやすいナイーヴな心。成長するにつれ、あるものはそれを克服し、またあるものはそれを喪失する。しかし、それを抱え続けざるを得ないようなタイプの人間もいる。それこそが自分自身だと思ってしまうような人間。それを覆い隠すことはできても、それを失って生きていくということを想像することもできないようなタイプの人間。わたしや、あなたや、シャロンのような。

 

眼を閉じる。波間に浮かぶ身体を思う。支えられているのを感じる。声を聴く。強く優しい声が、自分が地球の中心にいるのを感じろ、と語りかけてくる。波が身体を優しく揺さぶる。包まれている。海と、夜と、月の蒼い光。どこかにケヴィンがいる。この世界のどこかに、わたしにとってのケヴィンがいる。いちばんきれいで、とても壊れやすいものを分かちあえる相手。波間に浮かぶわたしを見つめたまま、わたしはゆっくり上昇していく。世界の美しさを思う。どこまでも優しい世界。哀しみと愛がすべてをブルーに包みこむ。蒼く染まるわたしを見ながら、そういうふうにできているのだ、と肌で感じる。

 

眼を開ける。頬をつたう涙をぬぐう。ゆっくりと首をまわし、眼にうつるものを眺める。いつもと変わらない景色が、蒼く染められているのを感じる。いままでもそうだったし、これからもそのようにあり続ける。月がすべてを照らす限りは。