bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

朝のこと

恐ろしい朝だったので忘れないうちに記録。

 

悪夢を見た。はっきりとは覚えていないけれど、やたらと長い夢だった。長いだけあって単純な話ではなく、群像劇というか、いくつものエピソードに分割されており、登場人物も老若男女様々で、しかもそれらはシームレスかつ脈絡もなく連結されていて、登場する男性はすべて俺なのだった。現実の俺とは見た目も名前も境遇も何もかもが異なる別人なのだけれど、その夢の中では誰も彼もが俺なのだ。

エピソードは全て、男女の揉め事だった。男とは様々な俺で、女性はその俺と関係のある、しかし現実の俺には見ず知らずの、そういう誰かだった。すべてのエピソードにおいて、俺と女性の関係は終わりかけていた。どちらかが何かを言い出せば終わる空気の中で無言で過ごす話もあれば、泣きわめいて暴れる女性をなだめ続ける話もあった。女性が決定打を撃とうとしているのを察知して、それを言わせぬよう、ひたすら話を反らし続ける俺もいた。一番はっきり覚えているのは、目が覚める直前に見ていた夢だ。その夢の中で、俺は汚い初老の男性だった。不摂生の果てに獲得した色艶の悪い萎びた身体、禿げあがった頭、無精髭とはみ出した鼻毛。築年数の推定も難しいオンボロのアパート。万年床の隣には一年を通して片付けたことのないコタツがある。俺は下着のシャツとトランクスだけを身に着け、コタツに足を入れている。隣には女性が座っている。加齢のせいか、姿勢が悪く口角も下がり、陰気な雰囲気を全身に纏っている。夢の中の俺と俺の部屋に良く似合った女性だ。俺は女性にも、この部屋にもうんざりしている。女性も俺と全く同じ気持ちでいる。夢なので俺にはそれがわかっている。倦怠感は昨日今日始まったものではない。いつからなのかわからないくらいには昔からそうなのだ。俺はずっと、変化を望んでいる。この女、俺にうんざりしているこの女がそのことを口に出してくれればいいと思っている。あんたなんかうんざりだ、もうこんなのは御免だ、もう絶えられない、そう言ってこの部屋から出ていってくれればいいと思っている。そう思いながら、長い長い時間をこの部屋で過ごしている。

ならば自分から別れを告げればいいと思うだろうが、俺にはそれが出来ない。相手を傷つけたくないからだ。優しさではない。相手を傷つけることによって生ずるストレスに耐えきれないのだ。いや、それだけではない。俺は変化を恐れている。目の前のくたびれた女性と過ごした時間、うんざりしながら過ごした時間に慣れきってしまっているから、そうでない時間を過ごすことが怖いのだ。怖くて怖くてたまらなくて、自分でスイッチを押すことが出来ないのだ。そんな恐ろしいことをするくらいならこの倦んだ空間に閉じこもり続けるほうがマシだと、心の奥底ではそう思っているのだ。

女は俺の隣で顔を伏せて座っている。時折、ほんの少し顔を上げて、諦めと僅かばかりの期待の混ざった眼で俺を見る。女は俺とまったく同じ気持ちでいる。夢だから俺にはわかってしまう。俺たちは二人、床下収納の中の忘れられた食材のように、この空間の中で腐っていく。

 

目が覚めた。肩がガチガチに張っている。胃に水銀を飲んだような重たさと、キリキリとした痛みを感じる。寝ぼけた頭で考える。あれのせいだ、いまの彼女と出会う前、セフレみたいな恋人みたいなグズグズネトネトした関係にあった、終わり方がグッチャグチャだったあの女性のせいだ、寝てる間、脳が記憶を整理してるときに何かの切欠で思い出してしまって、それであんな夢を見たんだ、バチが当たったみたいなもんだ…このあたりでもう少し頭が覚醒する。そして気づく。そんな女性は存在しない。いま思い出していたこの記憶は、存在しなかったことの記憶である。俺はいま、ありもしないことを本当のことのように思い出していた。ほんの少しの間ではあるが、自分の記憶が改竄されていた。

 

刹那、全身の毛穴が逆立ち、同時に冷たい汗が吹き出る。恐くてたまらなくなり、毛布にもぐる。隣で寝ている恋人に抱きつき、お腹のあたりに顔を埋める。頭のほうから、にゃ、と寝ぼけた声がする。悪夢を見た、めっちゃ怖かった、そんで起きたら今度は記憶がおかしくなっててめちゃくちゃ怖かった、あれは反則だ、悪夢から覚めたらもっと恐いことが待ってるっていくらなんでもそれはルール違反だ、そんなことを呟きながら俺は彼女にしがみついていた。体温を感じていた。呼吸する音を、呼吸にあわせて拡張と縮小を繰り返す胴体の運動を感じていた。過去の記憶がすべて嘘でもこの感覚は疑う余地なく本当だ。そう全身に信じ込ませるには、もう少し時間が必要だった。