bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

オウム

朝のこと。

 

家を出て、大きな通りを一本渡ったところで、黃緑色の大きなオウムが死んでいるのを見つけた。異国の鳥は12階建てのオフィスビルの外の歩道で翼を広げて死んでいた。眼と嘴をいっぱいに開いて、驚いたような表情で死んでいた。通り過ぎる全員がそのオウムに気づいていた。でも立ち止まるひとは誰も居なかった。僕も立ち止まらずに駅へと向かった。罪悪感というのか、これでいいのか、このまま行ってしまっていいのか、と自問しながら、それでも立ち止まらずに駅へ向かった。通り過ぎるのが正しい対応だとは思えなかったけれど、かといってどうすればよいのかもわからなかった。埋めてあげられる場所もなく、そもそも病気かもしれぬ死体に触れてよいのかもわからず、歩き去った理由はこんなふうにいくらでもあげられるけれど、本当は兎に角そこから離れたいだけだった。オウムの纏う死があまりにも生々しすぎて受けとめることが出来なかったのだ。

 

あれは、物語や儀式といった加工を伴わない、ただの死だった。ただの死、いつもの通勤路にポトリと落ちていた剥き出しの死。予言でも予兆でも暗喩でも運命でもない、端的な死。意味を伴わない、ただの存在としての死。冷たくて、空っぽで、ただただ恐ろしい、逃げ出したくなるような、死。

 

この話はこれで終わりで、そこには教訓も学びもなく、人情も愛も文学もない。ただ、そういうことがあった、というだけの話である。剥き出しではない加工された毎日の中に急に剥き出しが現れ猛威を奮った、それだけの話である。だから眠って起きたらぼくはこのことを忘れるだろう。そして明日ではないいつかにこのことを思い出す。たぶんそういうふうになる。そういうふうにできている。