bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

年末

仕事を納めて、楽しい忘年会もいくつかやって、年内の予定がみな終わった。静かな年末年始がやってきた。

 

起床する。寝相のせいで布団も毛布も足元に丸まっている。冷えた身体がゴキゴキと強張っている。ベッドからそっと抜けだし、浴槽にお湯を張る。こたつの上に出しっぱなしになっていた紙パックのお茶を飲む。喉をとおる冷たさを心地よく感じる。やはり冬はいい。特に東京の冬はいい。いろんなものが勝手にちょうどよく冷えてくれる。地元の東北ではこうはいかない。実家で飲み物を出しっぱなしにしていたら、朝には氷が張ってしまう。だから飲み物は必ず冷蔵庫にしまわなければならない。冬の北国では冷やすためではなく、凍らせないために冷蔵庫を使うのだ。

 

お湯が溜まったよ、とアラームがなり、漫画をもって風呂に入る。志村貴子の「こいいじ」を5冊。きっちり5冊読み切るころには身体はすっかり温まっている。そのあいだ湯船に浸かることを許されなかった両腕は金属みたいに冷たくなっている。本を脱衣場に投げ、機械と化した左右のアームを湯船につける。二の腕に鳥肌がたち、ぞわぞわとする感じが背中から尾骨にかけて広がっていく。毛穴が緊張して、それからゆっくり開かれていくのがわかる。しばし目を閉じてその感覚を楽しむ。ロボットアームが生体部品へと換装されていく。

 

目を開ける。裸眼のぼやけた視界の向こう、湯船のふちに乗せた足が見える。左足の小指がピクピクと動いている。ぼやけた裸眼の錯覚か、ただの不随意運動か。それともいつか野外鑑賞会で見た映画のように、脳の視覚中枢にあるスクリーンが風ではためいているのだろうか。

 

視覚の変化は楽しい。子どものころから、「世界がまるで違って見える」ってやつが好きだった。マインドの話というより、どちらかというと物理的な話。例えば、教室の机に乗ったときに見える景色とか、街を歩くとき、わざと高いところばかり見上げながら歩くとか。わざと道に迷うのも好きだった。自転車で少し遠くに行って、知らない道を方向感覚がなくなるまでぐるぐると回る。自分がどこにいるのか、どっちを向いているのか解らなくなる。視界のすべてが初めてで、いつもの景色にへばりついている意味や文脈が少しだけ軽くなる。いつも感じてる違和感や息苦しさがちょっとだけ楽になる。けれど知らない景色が知ってる景色になるまでの時間はほんの僅かでしかなく、子どもの僕はそのあいだに精いっぱい深く呼吸をするのだった。

 

風呂からあがり、水を飲み、着替えて外に出る。見上げると完璧な青空。一年の終わりよりはむしろ始まりに相応しいような、そういう空だ。これからどこかでお昼ごはんを食べて、そのあと銀座にいき、あちこちのアンテナショップをまわって年末年始用の食材を買う。黒豆や栗きんとん、かまぼこにいくら、それから日本酒。ほやの塩辛や三升漬けや千枚漬け、その他とにかく目についた美味しそうなものを買う。頭を空っぽにして動物的に買う。餅も買おう。くるみ餅を作るためにすり鉢も買おう。雑煮をたくさん作りたいから大きな鍋も買おう。美味しいものをたくさん買って、あとはのんびりと過ごすのだ。テレビを見て、近所の神社にお参りして、こたつでお酒飲んでいつのまにか寝ちゃって、汗かいて起きてお風呂はいってまた飲んだりするのだ。

 

ふと気がつくと、いまの僕はいつでもどこでも深く息を吸うことができる。馴染んだ景色のなかで、まあまあ軽い気分で過ごせるようになっている。経験を積んで成長したのか、それともただ鈍感になったのか、どっちかわからないけどもまあそれもどっちだって構わない。そこにあるのはただの変化で、ただそんなふうになったってだけのシンプルな事実で、そうであるからにはそれをただ受け入れること以外にできることなどないのだ。