bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

この世界の片隅に

ひと晩たっても全然まとまらない。まとまらないけれど、まとまらないまま、そのまんまを書いてしまおう。

 

もう終わりにしてしまおうか、そう思う夜は何度もあった。ネクタイを手に部屋の中を見回し、どこだったら自分の身体の重さを支えられるかぼんやり考えたり、ベランダの手摺りに頬づえをついて、下に見えるアスファルトをじーっと眺めたり、そんなふうな夜は何度もあった。死のう、なんて積極的なものではなくて、このまま居なくなってしまえたらいいのに、消えてしまえたらいいのに、そういう消極的な、願い事のような思いを抱えて、何もできずに夜を過ごして、いつもと変わらぬ朝を迎える。

 

いつも思うのは、人間は簡単に死んでしまうのだな、ということだ。ホームで電車を待っているとき、高いところから下を見ているとき、いつも、いまほんの少し脚を前に出せば死んでしまうのだな、と思う。死にたいわけではないけれど、ふとした気の迷い、好奇心、風の訪れ、そういったことの何かで脚を踏み出してしまうことがあっても何ら不思議はないよな、と思う。生きるか死ぬかは一歩分の差でしかないし、何の気無しの気まぐれひとつの差でしかない。

 

いま自分がこうして生きているのは過去の自分がたまたま死ななかったからで、死んでしまっていたかもしれない瞬間、死に得た瞬間は無数にあって、そうするといまの自分は余生を生きているようなものだな、と思う。窓の下を覗いたあのとき、生と死とは完全なフィフティ・フィフティで、どちらに転んでもまったく不思議はなくて、ネットに弾んだボールがたまたま生の側に転げていまがある。人生の中には無数の窓があり、窓のひとつひとつにフィフティ・フィフティの可能性があり、たまたますべての窓で生の側のフィフティだった結果、本当に偶然にいまの自分がいる。選択のたびにルートが分岐するとすれば、それこそ無限の分岐のなか、生につながるルートはたった一本しかない。いま自分がそのたった一本のルートの上に存在している、そのことのあり得なさを思うとくらくらする。

 

死は、不意に、ランダムに、平等に訪れる。病でも、事故でも、自死でも、同じことなのだと思う。本人の意志とは違う、遠い何処かからの訪れであること、偶然の神の手によってもたらされるものであることに変わりはなく、死は端的な現象で、だから死そのものは静かに受け入れるべきことなのだと思う、生に対するそれと同じように。

 

偶然に亡くなられたひとのニュースを聴いた日の夜、偶然に生き延びたすずさんの映画を見た。確かに人生を営んでいる無数の人たちのことを思った。夜景を見渡し、見える明かりのひとつひとつの向こう側にあるだろう無数の暮らしのことを思った。食事をするひと、本を読むひと、絵を描くひと、眠っているひと、二度と目覚めぬ眠りについているひと。すべてが暮らしで、営みで、人生で、そのすべてを愛おしく思った。いつか自分のボールがあちら側に弾むまで、いつか終わりが訪れるまで、窓の向こうを覗きこみながら、生きていこうと思った。あの愛おしい無数の明かりの中で、自分も明かりのひとつとして暮らしていること、その嘘みたいな事実を抱えて、可愛い人生を生きていこうと思った。

 

ひとはそれだけで可愛いのだ。人生はすべてがチャーミングで、可愛くて、最高なのだ。生も死もひっくるめてすべてが人生だから、生も死もすべては可愛くて、ラブリーで、愛おしくて、最高なのだ。悲しくて寂しくてたまらない、もっと文章や声や笑顔を見ていたかった、それは本当にそうで、その通りで、悲しくて悲しくてとてもやり切れない、そんな気持ちになるけれど、それでもやっぱり、その人生は本当にチャーミングだったと、最高だったと言いたい、ありがとうと言いたい、お疲れ様でしたと言いたい、すべてのひとのボールはいつかあなたと同じ側に弾むから、あなたのボールは周りのひとよりほんの少し早くそちらに転げてしまったけれど、そんなことはたいしたことではないから、何も気にすることはないから、だからもうどうか安らかに、何も考えず、美しいものや可愛いものだけを見つめて、安らかにあってください。