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bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

夏の終わりと枇杷と手と

創作

健康診断に行ったら、身長が1センチ伸びていた。足の裏が太ったのか、頭頂部が太ったのか、果たしてどちらだろうか。

 

会社には戻らず帰宅することにし、そのまま新宿へ向かう。紀伊國屋で漫画を数冊買い、ガンジーでミックスカレーを食べる。欧風カレーのようなコクとインドカレーの軽さを併せ持つ、この店独特のカレー。健康診断後のすきっ腹にスパイスが響く。軽く汗ばみながらカレーを平らげ、イヤホンを耳にねじ込んで音楽を聴きながら家までの道をふらふらと歩く。

 

街の空気はこの数日でがらりと変わり、長袖のシャツやジャケットを着ているひとを多く見かけるようになった。僕も夏のあいだ腕まくりしていたシャツの袖をきちんと伸ばして着ている。真夏とは違うひんやりとした風がカレーで熱くなった身体に心地よい。耳元ではキリンジが歌っている。眠れない夜には枇杷を食べる、と気だるい声を響かせる。そういえば長いこと枇杷を食べていない。

 

幼いころ、枇杷は好物のひとつだった。橙色の果物はだいたいみんな好きだった。実家は旬のものをよく食べる家だったから、梅雨時になると食後に枇杷が並んだ。枇杷はいつも皮を向かずにそのまま出される。僕は小さな手で枇杷の皮を剥いた。ちょうどへたにあたる部分、花弁の名残のような部分に五つの盛り上がりがあり、そこをつまんでゆっくり引き下げていくと、ビロードのような皮は綺麗に剥け、瑞々しい、けれどどこかとぼけたような味の果肉だけが残る。それに齧り付き、手や顎を汁でベタベタにしながら、口いっぱいに果肉を頬張るのが好きだった。たぶん何個でも食べられたと思うけれど、枇杷はおねしょをするから、といってあまり沢山は食べさせてもらえなかったのを憶えている。おねしょをしたかは憶えていない。

 

久しぶりに枇杷を食べたくなって、帰り道の青果店に立ち寄る。当然というかなんというか、8月の終わりの新宿には枇杷はもう売っていなかった。保存や流通、栽培方法の進歩によって、農産物の旬なんてあってないようなものになったと思っていたのだけれど、枇杷は頑なに旬を守り続けているようだった。売り場を眺めながら、そういえば今年はまだスイカも食べていないな、と気づく。8月のうちにスイカを食べなくてはいけない気分になって、カットスイカを購入し家に帰る。

 

冷えたスイカを食べながら、あのひとならどんなふうに枇杷の皮を剥くだろうか、と考える。

あのひとの手。身長からすると幾分小さめの、ひんやりとした白い滑らかな手。あのひとの指先が、橙色のベルベットにそっと触れるところを想像する。子どものころの僕と同じように、汁で手を濡らしながら、手で皮を剥くだろうか。それともナイフで二つに割るだろうか。皮を剝かずにそのまま頬張り、あとから優雅に指でつまんで皿の上に皮と種を出すのだろうか。

 

スイカを食べ終えた僕は、枇杷のことを忘れ、ただあのひとの手のことを想う。僕の手ですっぽり包み込んでしまえる小さな手。ふたりで歩いていて、彼女から手をつなごうとするとき、彼女はまず、僕の手首を掴む。ゆっくりと手を下に降ろし、指先で探るようにして僕の手のひらを見つけ、それから手をつなぐ。古式ゆかしい作法のような一連の流れ。

たぶんいまはまだ、土地勘がないからそうするのだろう。そのうち彼女の手は僕の手に慣れるだろうし、空間上の座標をすぐに把握するだろうし、そうなれば手首を掴むことなく、彼女の手は一直線に僕の手を見つけるだろう。そのころには冬になっているだろうか。彼女の冷えた手を包み込むように握ったら、キミの手は暖かいね、と笑ってくれるだろうか。それとも屋外に出るのを嫌がるのかな。そうか、寒がりなのかどうか、そんなことも僕はまだ知らないのだな。

 

冬のことを考えるのもいいけれど、まずはいますぐ手をつなぎたい、と思う。ふたりで夏の終わりを味わいたい。花園神社で線香花火でもやろうかな。ほんの数日会わないだけで、やけにセンチメンタルな気分になってしまっている。なんだろうなあ。季節のせいかな。秋の風に吹かれてるせいかな。うん、たぶんそうだな。そういうことにしておこう。

 

ふう。もう寝よう。

おやすみなさい。