bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

「トットてれび」

基本的に家から出なかった土曜日、ほんとうはミランダ・ジュライの「あなたを選んでくれるもの」の感想を書こうと思っていたのだけれど、あまりにやられまくってしまったので、「トットてれび」の感想を書く。

NHK。全7回。一話45分。

毎回泣いた。
声を上げて泣いた。
しかも、なんで泣いてるのか、自分でもわからない場面でばかり泣いた。

極端な話、満島ひかり演ずるトットちゃんを見ているだけで泣けるのだ。
ほんとうのことしかない、星の王子さまのような、天使のような存在。
社会がなく、世界しかない、不器用で不自由で、でも調和のとれた満島ひかり
これは何なのだろう、俺はこれをどんな言葉で語ればいいのだろう、そんなことを思いながらみていたのだけれど、きょうやっと、自分なりの言葉が見つかった。

このドラマにおける満島ひかりの演技、表現、感じ。
俺の言葉で言えば、「泣いたりわめいたりするほんの一歩だけ手前、感情がむき出しになるほんの少し手前をキープし続ける演技」だ。

我々はみんな社会の中で、社会性という仮面を付けて生きている。感情を制御するすべを身に着けて、そもそもそんなに感情的になる場面もなく、内面化された規範にしたがって生きている。たまに規範から自由な人間、社会の外側を生きている人間がいるけれど、それは我々にとっては異物でしかない。
満島ひかり演ずるトットちゃんは、社会の内と外の間、絶妙なところを漂っている。いまにもあちら側に行ってしまいそうな、爆発しそうな雰囲気を出しつつ、けしてそちらには行かない。何とも言えない危うさのまま、そのままで安定している。黒柳徹子そのままの早口、震える声、いまにも涙をこぼしそうな大きな眼。不器用そうに揺れる身体。満島ひかりのすべてがぎりぎりの抑制を保っている。それを見ているだけで俺の眼には涙が浮かぶ。理由はわからないのだけれど。

それから、歌だ。
きょう、森繁久彌が「知床旅情」を口ずさむ場面ではっきりわかった。
流行歌を口ずさむ、ということは、誰かと肩を組んで歌うということだ。
私たちが流行歌を口ずさむとき、たとえ部屋にひとりで過ごしていても、距離や、時間や、生も死も飛び越えて、その歌とその歌が流行った時間をともに過ごした誰かといっしょにシンガロングしている。それが流行歌のチカラである。「ひふみよ」のツアーのとき、資本主義批判を繰り広げた小沢健二は、「どんな国にいっても流行歌はある。おんぼろのハイエースの相乗りバスにのったみんなが、カセットテープから流れる声に合わせて、一斉に歌い出す瞬間がある。この国の流行歌のひとつになれたことを誇りに思います」と語って、それから「カローラⅡに乗って」を歌い出した。このときは、そういうふうに過去の自分にケリをつけたんだな、としか思わなかった。でもそれだけじゃないのだ。流行歌のもつチカラ、歌うだけで、死者とだって心を通い合わせることができる、そのチカラを俺はわかっていなかった。もう関係ない話になるけれど、俺が愛してやまないサッカーチーム、ベガルタ仙台の震災の後の最初のホームゲーム、開通したばかりの東北新幹線で仙台まで行って、スタジアムで歌ったカントリーロード、あのときはみんな、スタジアムを埋め尽くした20000人だけでなく、ここに来れなかった人たちとも肩を組んで歌っていた。サッカーどころではない状況にあるひと、遠くに引っ越してしまったひと、もう二度とスタジアムに来られなくなってしまったひと。歌うとき、みんながその場に共にあった。でもそれはそんな特別な場所に限ったことではなくて、いつだってそうなのだ。あなたが歌うとき、あなたが一緒に歌いたかった誰かは、いつでも同じように隣にいるのだ。みんなのうたを歌うとき、我々は時空を超える。トットてれびの毎回のラストで歌われる流行歌、あれがあんなにも涙を誘うのは、そういうことなのだ。ソウル・フラワー・ユニオンの曲名を借りれば、あのお祭り騒ぎはすべて、サバイバーズ・バンケットであり、モノノケと遊ぶ庭なのだ。

社会と世界の境界線に位置するトットちゃんが、生者と死者の境界線で歌い踊る。
トットてれび」はそういうドラマだった。
そんなもん、泣くに決まってるじゃないか。

いいものをみせてもらいました。
スタッフの皆様、演者の皆様、ほんとうにありがとうございました。