bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

読了、それからDOMMUNE

湯山玲子二村ヒトシ著「日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない」を読了。
感想文書こうかなーと思ったけどもう眠いからまた今度にしよう…密度濃すぎるよこの本…

でもドミューンでやってた湯山玲子二村ヒトシカンパニー松尾のトークの感想だけ少し書く。湯山さんがバーッと独演会してた最初の方は、語りの熱量とスピードに圧倒されるものの、内容自体は本に書いてあることだったりして、そこまでヒートアップはしなかった。後半、カン松監督が入ってきて、テレキャノの話を通過し、二村監督がカン松監督について語りだしてから、一気に面白くなってきた。「カンパニー松尾は虚無の穴と呼ばれてる」とか「僕はカメラがなければ女性を抱かない、カメラがあれば誰でも抱ける」(だったかな?)とか、皆さんそれぞれにいいパンチラインがあったなー。

あと、「テレキャノ、というかカンパニー松尾は女性を支配しようとしているのか?」ってやり取りが僕には面白かった。カン松監督は「自分には執着がない、支配もしないし見下してもいない、僕らは女性がいないと何も出来ない、女性には感謝しかない」と語る。でも、AVであり、カン松監督が監督である以上、二人の男女は対等な身体にはなり得ない。そこには「撮る身体」と「撮られる身体」が産まれる。さらに、撮る身体は「女性が自我や制度から解放される瞬間を撮りたい」と考えている。狙いがある。自らが監督(グル)となり、女性を解放に導き、ハンディカメラで撮影する。これは平等な関係なのだろうか?女性を支配し、コントロールしようとする試みと何が違うのだろう?女性が解放された、その瞬間をカメラに収めるときに感ずる快感があるのだとすれば、それはオスのパワーの実感、「落とす」快感や「イかせる」快感とどう違うのだろう?カン松監督からすれば心外なのだろうけれど、ハメ撮りAVは、支配-被支配の構造から自由にはなれないものなんじゃないだろうか。なんて、そんなことを考えた。

二村監督は、「男女の性別役割期待から離れるべきだ、男も掘られる快感を知るべきだ」と言う。後段はともかく、前段はわかる、と思う。で、面白いなと思ったのは、カンパニー松尾監督って思いっきり男の子だと思うんだよね。カレーとバイクとロックンロールとホモソーシャルな関係性が好きなさ。だから、二村監督にはその話を突っ込んで欲しかった。もし、カン松監督の強固な男の子性を転換させたら、そしたらどうなるか?何で男の子性が強いのか?あたりをブッこんで欲しかった。

もっと面白いとこたくさんあったけど眠たいので以上。
おやすみなさい。