bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

タイムライン

わたしは取り憑かれているのです。何に?仕事。甘いもの。青空。アルコール。それから、Twitter
書きまくってるわけじゃないんです。書いたことは数えるほどしかない。ただ、それを見るのが止められない。

誰しも、好きな雑誌の1つや2つ、ありますよね。今はなくても、17歳のころ、あるいは20歳のころにはあったでしょう。毎月、発売日を楽しみにして、次号の予告を何度も読み返すような雑誌です。引っ越しをするたび、荷造りのたびに友達や恋人に「もう捨てなよ」と言われるけれど捨てられなかった雑誌。ときめかないモノは捨ててしまおう!という教えにしたがって断捨離したけど捨てられなかった雑誌。だって何よりときめくんだもん。そんな雑誌なんてなかったよ、という人は、おめでとう、貴方はきっと幸せだったんですね。その幸せに免じて、恐れ入りますがわからなくても勘弁してもらえるとうれしいです。

わたしが言いたいのは、とにかくそういう、読むことと水中から顔を出して息継ぎをすることが同じ意味合いを持つような雑誌のことです。わたしにとってはたとえば90年代後半のロッキンオンジャパンでありBUZZです。創刊直後のb.pであり、判型が小さかったころの映画秘宝です。ひとによってはユリイカだったり野性時代だったり将棋世界だったりするでしょう。わたしにとってTwitterはそういうものなんです。そういうものにわたしが創り上げたんです。創った、というとおかしな感じがしますね、だってわたしはただひとつの言葉も生み出していないのですから。でも、わたしの気に入るようなタイムラインをこさえるまでには、それはそれは辛抱強い努力があったんです。情報と文体と空気、それぞれのツイッタラーの持ち味は異なっています、つぶやきの頻度も違っています、そういう個性のひとつひとつを組み合わせて、つぶやきが濃くなる時間帯なんかも考慮して、話題のうねりが止まらない、こだわりと流行りが螺旋状に絡み合う、重たいものと軽薄なものが乳化して混ざり合う、フォローして、アンフォローして、リツイートをミュートして、あるときはJ-waveのようで、あるときはTBSラジオのようで、またあるときは「くちびるから散弾銃」のようで。そういう下世話で誇り高いタイムラインを創り上げたのは、わたしです。わたしはわたしのタイムラインを誰かに見てほしいと思う、でもみてほしい誰かなんてどこにもいません。わたしのタイムラインはわたしだけに価値があるものだから、誰かに見せるならそれはわたしでなくてはならない。おすぎとピーコならお互いにタイムラインを見せ合うでしょうか、でもあのひとたちって二卵性双生児ですよね、そもそも双子だからって同じ人間みたいにみなす風潮ってどうなんでしょうね。一卵性双生児といえばのザ・たっちだってそれぞれに違う個性があるはずで、外から見ていたらそれは一切わからないけど片方はF1が好きで片方はロードバイクが好きとかそういう違いはあるはずで、そうだとするとわたしのタイムラインはやっぱりわたしだけのものだと思うんです。

でも、ほんとはだれかにタイムラインを見てもらいたい。わたしではない誰か、でもわたしと同じようにそのよさを感じてくれる誰か。わたしにとってのロッキンオンジャパンを、将棋世界でも通販生活でもなく、正しくロッキンオンジャパンだと読みとってくれる誰か。そんなひとどこかにいるんでしょうか、向かいのホーム、路地裏の窓、そんなとこにいるはずもないし、ラーメン屋のカウンターの下の荷物おきにも古本屋の三冊百円コーナーにもいませんでした。伊勢丹の食料品売り場のすみっこにあるジェラートショップのイートインのあたりでそういうひとと出会えたら最高だなと思って一日たたずんでたこともあるけど、そういうひととはついぞ出会えなかった、だからそろそろ諦めても仕方のないことですよね。

わたしはずーっとひとりなんじゃないかと思うのです、たまらなく面白いTwitterのタイムラインを抱えてジョジョの二部のラスボスみたいに石になって考えるのをやめるのではないかと思うのです。わたしが石になってもわたしのタイムラインは更新され続けるわけで、誰も読まなくなってもわたしだけのタイムラインは、わたしだけの将棋世界は更新されつづけるわけで、あれ違うなロッキンオンジャパンだったかな、まあなんでもいいです更新さえされるなら、そして書いてるひとりひとりのツイッタラーの皆さんはそんなこと何ひとつ気づかずに生きていくわけです。そういうのってすごく歴史的で遺跡的で化石的でよろしいと思うのです、わたしはどこまでいっても傍観者で観測者でシュレディンガーの猫の飼い主で、それは生まれたときからずーっとそうだったのです。わたしはわたしのものでないものをわたしのものだと思っている、それを支えにしている、たったひとりで恥ずかしいと思いながら立っている。恥ずかしいと思うことさえ恥ずかしいと思っている。耐えきれなくて毎日お酒ばかり飲んで、たまに精神的双子を探して、恥ずかしくて死にたい気持ちで過ごしている。だからそろそろ石になるはずだし、石にならないと困るのです。もうきょうはねむります、これ以上お酒を飲めなくなってきたので、目が覚めるまで眠るはずです、ほんとうは石になりたいのに。

みなさん、おやすみなさい、目が覚めてサモトラケのニケみたいに石になってたら拍手のひとつもしてください、美しさの足りない顔も短すぎる手も見られたくないので適当なところでカットしてください、思わぬところで美術史の謎が解けましたね、きっとニケのモデルもわたしのような人間だったのでしょうね。もう少し無理やりにでもお酒を飲んで、動けなくなるまで飲んで、そのほうが石に近くなれるから、そしたらわたしにとっていいことがありそうな、とてもいいことがありそうな。