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bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

劇場版501新年会

金曜日。
仕事を定時であがって阿佐ヶ谷ロフトの「劇場版501新年会」へ。
この辺りには10年以上住んでたけど、阿佐ヶ谷ロフトは初めて。
昔はここ古本屋だったんだよな。
階段降りて、中に入る。
ジンリッキー飲んで開演を待つ。
始まるころには満席だったのかな。

正月にこの映画を見たとき、すげえグッときた。
それは、ビーバップみのる監督の負け方が、とにかく無様でみじめでスカスカだったからだ。
「その場限りの本気」をむやみに高い熱量で放ち続けるみのる監督が、状況の奴隷と化して状況に振り回される、その様が刺さった。
周りの人を巻き込むだけ巻き込んで、事をどんどん大きくして、しかしカタルシスらしいカタルシスが何もやってこない、オチをつけようとしても納得できるオチがやってこない、そのみっともない姿がもうたまらなかった。

だって世界ってそういうふうに出来てるじゃないか。
気持ちのいい終わりなんてやってこないじゃないか。
本当にやりたいことなんて見つからないじゃないか。
その場限りの本気を燃やして、みっともなく転がって、負けながら生きていくのが本当だろ。

で、今回上映されたのは、それより15分位?長くなった再編集バージョン。
追加されたシーンは大きく2つ。
ひとつは「豚の顔射」のシーン。
もうひとつは「るなちゃん」のシーン。

豚の顔射は不要だったんじゃないかなあ。
そもそも顔射大会や西郷丼とかのシークエンスって、「こんなに混乱した状況があったんだよ」ってことの説明でしかないんだから。
ビーバップみのるの私小説としての「劇場版501」では、みのる監督が興味を持ってないあの女優さんたちのエピソードって、後景でしかないのだ。

「るなちゃん」のシーンは良かった。
言葉を選ばず書くけど、「るなちゃん」、前回は哀れな知的障害者にしか見えなかった。
だから、あの30分がとにかく辛かった。
でも今回、「るなちゃん」の人生を伺わせるシーンが増えたことで、ちゃんとした人間に見えた。
というか、作中いちばんちゃんとした人間に見えた。
「るなちゃん」は言い訳をしない。
泣き言を言わない。
自分の仕事をきちんと理解し、責任感を持ってそれを果たそうとしている。
過去を受け入れ、後悔をせず、いまを自分で引き受けて生きている。
そんな「るなちゃん」だから、最後の言葉が、「私は私の未来にいるよ」が、正しく見るものの胸をうつ。
それは同時に、みのる監督のダメさを、スクリーンの前にいる俺と同じダメさをくっきり浮かびあがらせる。

再編集版は、そういう内容だった。

そもそも、ビーバップみのる監督がロッキーを撮りたかったなら、誰かをロッキーにしようとしたってダメなんだよな。
スタローンは、ロッキーの脚本を売らなかった。
高額のオファーも断った。
「ロッキーは俺だから、俺を主演させないなら脚本は売らない」そう言い続けた。
監督・脚本・主演シルベスター・スタローン、映画「ロッキー」はそうして生まれた。
だから、みのる監督は「500人の女優に中出しし、最後に豚に中出ししするAVその名も『501』」を撮ればよかったんじゃないかな。

そんなような話をしながらやたら冷える居酒屋で朝まで飲んだ。
熱燗が進み、話は脱線し、記憶は順調に失われた。
帰巣本能に手を引かれて家につき、漫画を枕に床に伏した。

そんな金曜日でした。
あと次回があったらタートル今田監督には女優陣よりみのる監督の本音(そんなもんあるのか)を引っ張り出してほしいです。