bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

わたくしのわたくし

小西康陽の「わたくしの二十世紀」というアルバムがある。
いろんなところでその良さを語るレビューを読んで、実際に聞いてみたら本当によかった。
期待通りの名盤だった。

聞いた人はみんなこう言う。
「極上のポップネスと研ぎ澄まされた美意識の向こうに孤独と諦念と死の匂いを感じる」
「これ以上なく小西康陽の色が出たアルバムだ」と。

そうなんだろうな、と思う。
昔から、小西康陽って人は、人と人のわかり合えなさや、恋がいつかは終わってしまうこと、自分がいつか必ず孤独に死んでいくこと、そういうことを洒脱なポップスの形でさらりと表現してきた。

ピチカート・ファイヴは最高にお洒落だったけど、それは異性にモテるためのお洒落ではなかった。
お洒落ではない自分を許せないからお洒落にしている、ただそれだけのことだった。
本質的に他人と交わることを望まない人の音楽、それがそのまま小西康陽だった。

音楽を聴いてきた人ならみんな、小西康陽という人をこんな風に理解していたと思う。

小西康陽は、この状況をどう思ってるんだろう。
アルバムを聴きながら、そんなことを思った。
みんなが「あなたってこういう人ですよね」って統一見解を出してくる、この状況をどんなふうに考えているんだろう。
苦痛じゃないのかな。
それとももう慣れっこで、むしろ面白がるくらいなのかな。

なんでこんなことが気になるのかというと、たぶんそれは俺が変わりたいと思っているからだ。
変わりたいと思っているから、全然変わらないように見える人のことが気になるのだ。
変わりたいと思っているから、いまの自分がどういう人間なのか、どういう人間だと思われているのか、それが気になるのだ。

まさかこの歳になってアイデンティティ・クライシスなんてなあ。
カッコ悪いことこの上ない。
何も迷わず、やりたいようにやり散らすだけのオッサンになる予定だったのに。
汚えダメなオッサンになって、死ぬほどくだらない冗談だけを喋るつもりだったのに。
まさか、いまさらカッコ良くなりたいと思うようになるなんてさ。

まさか自分について思い悩む日々がまたやってくるなんて。
恥ずかしいな。
本当に恥ずかしい。