bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

あたらしい家

夜。
彼女は夜勤で出かけたから僕はいつもの部屋でひとりでいる。
(ところで僕はいつまであの娘を彼女と呼ぶんだろう?)

音のない部屋は寂しいけれど、音楽はいまの僕には響きすぎる。
だからテレビをつける。
毒にも薬にもならないバラエティー。
今年引退した野球選手があの選手の秘密を暴露!
今年はラグビーがブーム!これを見ればラグビーが三倍面白くなる!
特に画面は見ない。音も聞かない。
ただただ明るい、カラ元気の気配だけを感じる。
いまはこのくらいがちょうどいい。
この部屋のすき間を埋めるには、このくらいなんでもないものがちょうどいい。

僕は久々にパソコンを開き、キーボードを叩いている。
部屋を探している。
ひとりで暮らすための部屋だ。
思えば、こんなにもひとりで部屋を探したことはなかった。
自分のことだけを気にして部屋を探すのは、はじめての経験だった。

はじめて引っ越しをしたのは、大学に入ったときのことだ。
地方出身の貧乏学生だった僕には、大学の寮に入る以外、選択肢はなかった。

大学は多摩にあった。
山の上の大学の、細長い敷地の一番奥にその寮はあった。
少し離れたところからは、寮は山の斜面に並んだ細いコンクリートの塊に見えた。
細いコンクリートの塊の中には、さらに細長い個室がいくつもあった。
ただでさえ細長い上に、ロシア軍から払い下げられたような大きな鋼鉄の家具一式が部屋の横幅をさらに狭めていた。
その個室で暮らす学生は、いつも細長くいなければならなかった。
当時の僕が自分史上もっともスリムだったのは、あの部屋のせいに違いない。

大学一年の終わりのころ、彼女ができた。
はじめてつきあう彼女だった。
九州の出身で、両親に愛されて育ったのが一目でわかる、そんな娘だった。
寮への異性の連れ込みは禁じられていたけど、彼女は監視の目をするりとくぐり抜け、しばしば僕の部屋へきた。
僕らは、細長い部屋で細長くなって二人の時間を過ごした。

何度めかの訪問のあと、彼女は言った。
この部屋を設計したのは、きっと年寄りのロシア文学の教授だよ。
真実は不幸と孤独の中にしかないのである、とかいって、研究のうちに孤独を極めたような人だよ。
男子学生を自分と同じロシア文学的な真実にいざなおうとしてるんだよ。
好きじゃないな、この部屋。
出ようよ。一緒に探すからさ、部屋。

それで僕らは部屋を探した。
彼女は祖父母の家から大学に通っていたから、一緒に住むための部屋ではなく、たまに遊びに来るための部屋を探した。
大学生らしい体力と陽気さをもってあちこちの不動産屋をまわり、最終的に大学から数駅はなれた街の、線路沿いのアパートを借りた。
電車からその部屋はよく見えたし、部屋からも電車が見えた。
一階だけれど、日当たりの良い部屋だった。
そこで僕らは、存分に手足を伸ばし、人を呼び、大学生らしい大騒ぎを繰り広げた。
誰もが若いころに経験するような、ロシア文学的真実とはおよそほど遠い生活。
それが四年間続いた。

卒業して、就職して、僕は会社員になった。
通勤の便を考え、新しい部屋を借りることにした。
彼女とふたりで不動産屋に行き、いくつかの物件を見せてもらった。
駅から離れた路地の多い住宅街の一角。
路地がちょうど行き止まるところの、広いロフトのついたアパートだった。
ここはずいぶん広いねえ、ここに居候しちゃおうかなあ。
無邪気な声で彼女が言った。
それが決め手で、僕はその部屋の住人になった。

けれど結局、彼女と僕が同じ家に住むことはなかった。
そこからもまあいろいろあって、その部屋で僕らは別れ話をすることになるのだけれど、そこは割愛。

ロフトのある部屋には、猫がいた。
僕が飼っていたわけではないし、そもそも飼い猫か野良猫かもわからないけれど、猫は僕のアパートを自分のナワバリだと認識しているようだった。
猫はいつも、アパート全体の入り口の細いところに寝転んでいて、そこを通ろうとするすべての人に、区別なく猫パンチを浴びせた。
彼(彼女かな?)のパンチは強力だった。
やられるとジーンズの上からでも脚に爪の形の穴が開いた。
被害を避けるには、彼が寝ている間にそっと跨いでいくしかなかった。
不思議なことに、彼は本当に動かなかった。また5分に一度はうたた寝をするので、住人はマリオか何かのゲームのように、ドアの隙間から彼の様子を伺い、チャンスと見るやスパイのように静かに、迅速に彼を跨いだ。
ごくまれに、僕が部屋に帰るとき、パンチの後で部屋に入ってくることもあった。
玄関より先には上がらない、謙虚なところのある猫だった。
特に餌をあげるでもなく、なんとなく彼はそこにいた。
僕もなんとなく部屋にいた。

彼との不思議な戦いは、僕がその部屋を出る当日まで続いた。

その部屋を出たのは、新しい恋人と新しい部屋に住むためだった。
部屋探しは楽しかった。
彼女は広い部屋がいいといった。
広くて、きれいな部屋がいい。
我々は広くてきれいな新居を見つけ、そこを住処とし、家賃の高さに耐えかねてもう一度引っ越しをした。
そうしていまの家にたどり着いた。

古いけれど管理のしっかりしたマンションだった。
広さや、水回りや、洗濯をベランダでやらなければいけないことや、いくつか不満はあったけれど、僕らはこの部屋に腰を落ち着け、生活を作り上げていった。
お互いのものが増え、次第に部屋が荒れ、保存食や書籍や洋服が地層のように積み重なった。
それは歴史に他ならなかった。
ちいさな喧嘩があり、不満があった。
けれど概ね、そこでの生活は笑いに溢れていた。
僕と彼女は同じ布団の上で転がり、よく手足を伸ばした。
僕らの部屋には、あの日当たりの良い線路沿いのアパートと、よく似た空気が流れていた。
たぶん、地層を掘れば、出てくるはずだ。
暖かくてきらきらした、あの空気の化石が。

いま、僕は部屋を探している。
いままでとは違う部屋を。
パソコンの画面には、たくさんの部屋の写真が並んでいる。
住む人のいない、からっぽの部屋の写真だ。
そのいずれにもよいところがあり、悪いところがあった。
だけど決め手とよべるものはひとつもなかった。

僕はわかっていなかった。
自分がどんな部屋を求めているのか、
自分がどのような部屋に住む人間になりたいのか、
それが全くわかっていなかった。
細長くなっていたいのか、手足を広げていたいのか、それすらもわからなかった。
こんな感じではなかった。
部屋を探すとは、こんな気持ちですることではないはずだった。

パソコンを閉じ、テレビを消した。
部屋は静寂に包まれた。
電気を消し、布団に倒れ込んだ。
タオルケットを引き寄せ、必死でそれにくるまった。

わからなかった。
なにもわからなかった。