bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

4月と5月のモロモロ

今年に入ってからというもの、風邪ばかり引いている。年始に発熱。3月にインフル。治りかけて気管支炎。繁忙期を半死半生で過ごし回復したのは4月の終わり。5月の連休はがっつり遊んで、休み明けにまたしても風邪、咳と悪寒にゲホゲホガタガタ苦しみながら仕事をこなし、治ったかと思いきや今度は副鼻腔炎で発熱、全部の体調不良がどっかいったのは今週に入ってからのこと。はー長かった、と思ったら今度は彼女がきっつい風邪をひいた。たぶん僕から感染ったのだろう。でも僕のひいていた風邪だってもとをたどれば彼女から感染ったものだ。我々は風邪をキャッチボールしている。差しつ差されつ風邪をやっている。

 

風邪を引きつつ仕事をしつつ、何だかんだで色々と楽しんでもいる。覚えてるだけダラダラと書き出してみる。

 

ままごと「ツアー」@KAAT。

いきなり最高だった。深いレベルの共感があった。そうなんだよね、幸福も不幸もなく、ただ出来事だけがあり、我々はそれをただ受け入れ、味わうしかない。「ご賞味!ぜんぶ、ぜんぶ、ご賞味!」とカタコトでいう端田新菜さんが本当に本当に素晴らしかった。フィルターなしでむき出しで世界に向き合っているようなあの雰囲気はどうやったら出せるのだろう。それでいて繊細さも感じる。めっちゃ繊細な関西のおばちゃんみたいな、アメちゃん配りつつ誌のひとつも諳んじてみせるような、そんな感じ。ままごとは去年から見る公演すべて大当たり。自分にとっていま一番しっくりくる劇団だ。

 

小沢健二「春の空気に虹をかけ」@国際フォーラム、@武道館×2

たーのーしーかったー!!!!ボーカリストとしての小沢健二は今が全盛期なのではなかろうか。若いころより声が出てる。国際フォーラムと武道館初日は砂かぶり席中央一桁番台、武道館二日目は二階席。間近でみる小沢健二はなんかお肌もツヤツヤとして、あれ?若返った?なんかやたらとウキウキしてるし、恋でもしてんの?という感じ。満島さんはとにかくキュートでした。「ぼくらが旅に出る理由」のPVコピーとか、「流星ビバップ」のときのジャケットのポッケに手を入れたままのステップとか、泣きそうになるくらい素敵だった。36人編成ファンク交響楽団によるヒット・ソング・メドレーは多幸感でブチ上がりすぎて毎度2時間があっというま。でもほんとにグッときたのは、「東京恋愛専科」に合わせて通路で踊る3歳くらいの女の子の笑顔だったり、ずっと座っていたのにアンコールの「ドアをノックするのは誰だ?」でついに立ち上がってドアノック・ダンスを踊る中年男性二人組みの姿だったり、魔法的電子回路でぐるり一面キラキラに光ってる武道館の客席だったりする。

ただ、去年のツアーでやった大傑作新曲群を聴けなかったのが心残り。「飛行する君と僕のために」は、「超越者たち」は、「その時、愛」は、次はいつ聴けるのでしょう。気長に待つからいいけどさ。待つのは馴れてるからさ。

 

ナカゴー「まだ気づいてないだけ」@町屋ムーブ

予告されたことが起こる、ってなんでこんなに面白いんだろう。「これからこうなりますよ」と展開をすべて説明され、その通りに話は進み、いざその場面を迎えると吐くほど笑ってしまう。裏切りは一切ない。水戸黄門の印籠とか志村の変なおじさんとか、「わかってる展開が起きることの嬉しさ」ってのは本能に近い部分にある快感なのだと思う。あと、あまりにも無茶苦茶に転がっていくお話に対する補助線としての役割も大きいのだろな。予告なしで見てたらポカーンとしてしまうような展開ばかりだもの。

 

「権太楼噺 爆笑十夜」@鈴本演芸場

毎年恒例、初夏の権太楼噺。文蔵師匠や菊之丞師匠もよかったけれど、お目当ての権太楼師匠がとにかく素晴らしかった。ぼくは権太楼師匠のやる旦那とおかみさんの威勢のいいくだらないやり取りが本当に本当に好きで、あれ聴いてゲラゲラ笑ってると時間の感覚を失ってしまうときがある。過去や未来がなくなって、「いま」だけになって、そのうちに「いま」すら消えて、笑ってるうちこのまま末期を迎えるのではないか、笑いすぎて泡のようにはじけて消えてしまうんじゃないか、そんなふうに思ったりする。この日の「火焔太鼓」はダミ声婆あとしょぼくれ爺いの罵り合い(イチャつきとも言う)を思う存分楽しめる最高の演目であった。これからも本寸法に寄りすぎることなく、婆あの了見を究め尽くしていただきたいものです。夏の特別興行も行くぞ。

 

立川志の輔仮名手本忠臣蔵」「中村仲蔵」@赤坂ACTシアター

流石の名演だったけれど、妙に笑いたがるお客さんに左右を挟まれてしまい、彼らがしんみりさせる場面で声だして笑うのでいらついて仕方なかった。あといちいち声だして相づち打つのも辛かった。こういうときの対処法の正解がいまだにわからない。静かにしてもらえますか、なんて声かけるのもしんどいし。いっそ蟹でもサービスしたらよいのだろうか。こちらよろしければ、つって毛蟹の茹でたのでも渡しとけば身をほじるのに集中して静かになったりするだろうか。でもほじらずに殻ごとしゃぶるタイプだったらとなりでチュバチュバいう水音を聴き続ける羽目になるわけで、もうほんとどうしたらよいのだろう。誰か正解を教えてください。

 

FUKAIPRODUCE羽衣「春母夏母秋母冬母」@吉祥寺シアター

我々はみなメシを食いセックスをして糞をして寝る。その繰り返しにはときおり深い愛や強い憎しみが混ざる。そして万人に平等に時は流れ、老いさらばえて(あるいはそれすらも適わず)死んでいく。そのすべてを包摂し、そのすべてと関わりなく、宇宙が、世界がある。すべてのものは、ただ存在する。それが堪らなく愛おしい。

セックスを題材にしようが、死を題材にしようが、母を題材にしようが、羽衣のやっていることは基本的に変わらない。みっともなさと美しさを等価に見つめ、愛する。ジョージ秋山と同じことをミュージカルでやってる。ちなみに、ジョージ秋山と同じ、というのはぼくにとって滅茶苦茶な褒め言葉である。

 

きょうは彼女が家におらず、久々に一日を無言で過ごしている。そのせいか、やたらと長い文章を書いてしまった。普段はこのくらいの分量×二人分を会話の中で発散しているわけで、もし誰かがぼくらの食事の中にコエカタマリンを混ぜたりしたら、さほど広くもないこの部屋はあっという間に満杯になってしまうことだろう。固まった発話は袋に入れて、口を固く縛って燃えるゴミの日に捨てる。うるさいと迷惑になるので夜のうちに捨てるのは禁止されている。お気に入りの発話だけは、捨てずにそのままとっておいたりもする。でも我々はずぼらなので、テプラで日付やシチュエーションを貼り付けておいたりはしないし、アルバムにファイルしたりもしない。ただ寝室の窓辺なんかに適当に置いとくだけで、そのうちに文脈を忘れてしまう。で、たまの掃除のときに持ち上げたりなんかして、ねえ、この「わに」って何でとっておいてんだっけ?なんてハタキ片手に尋ねるのだ。なんだっけね、思い出せんね、どうする?捨てる?まあいいんじゃん、別に邪魔にはなってないし。そんな感じでよくわからない発話はいつまでもそこにある。そんな感じで毎日をやっている。

 

若葉のころ

密集した木造住宅と細く曲がりくねった路地とで名高い我が区だけれど、いま住んでいるあたりの道はやたらとまっすぐ伸びている。引っ越しのときに不動産屋から聞いた話によると、明治のころのこのあたりの村長さんが先見の明があるひとだったそうで、いくつかに別れていた村落をまとめ上げて区画整理はするわ駅は作るわ特産品は作るわ八面六臂の大活躍で、このあたりの道がすーんとまっすぐなのはすべてその人のおかげらしい。我が家の大家さんはその子孫で、そのご自宅はとにかく広く、豪邸というわけではないのだがどことなく威厳のようなものがある。偉かったというその村長さんの偉さが家やら土地やらに染み付いているような気がする。しかし偉さというのは猫や幽霊のように家につくようなものなのだろうか。偉さが憑いた家の中では人はどのように暮らすのだろうか。影響されて尊大になるのか、圧倒されて卑屈になるのか、どちらなんだろう。いつか大家さんに会うことがあったらよーく観察してみようと思う。

 

連休の中日の朝、サンダルを突っかけて家を出る。近所の薬局まで、咳止めを買いに行く。空は晴れわたり、日差しにはほんの少し夏の気配が漂う。まっすぐな道の向こうには、大きな欅がツヤツヤと深緑色を光らせている。休日の朝らしく、駅に向かって色々な人が歩いている。歩くスピードは属性に由来しているように見える。お年寄りはお年寄りの速度で、若者は若者の速度で。ホテホテと歩く自分はその中間の速度帯に属し、若者には追い抜かれ、お年寄りは追い抜くことになる。家族連れは子どもの年齢による。ベビーカーを押す人はゆっくりだし、ひとりでに走り出す年ごろの子どもを持つ両親は駆け足で後を追う。ひときわのんびり歩いていたのは男の子を肩車した父親で、あれは何歳くらいなのだろう、男の子の小さな身体は父親の肩と後頭部にぴったりとはめ込まれている。カンガルーが袋で子育てをするようにニンゲンのオスは後頭部で子育てをするのです、なんて説明をしたら信じる人もいるかもしれないくらいにぴったりとはめ込まれている。肩車の親子を追い抜きながら、その高さに驚く。肩車されている男の子の目線は、身長に換算すればたぶん2メートルの人のそれと同じくらいなのではなかろうか。その高さからは街並みはどのように見えるのだろう。男の子は、いま見えている景色のことを、はたしていつまで覚えていられるのだろう。

 

昨日は友達と飲んでいた。一軒目でたっぷりと飲んだ後、駅前の西友に行き、千円の椅子を買って公園に行った。川沿いに椅子を並べて、街頭に照らされた桜の葉が薄ぼんやりと光るのを眺めながらバドワイザーを飲んだ。満島ひかりや映画の話をし、それから中学生のような下品な冗談で笑った。公園の周りは住宅街なので、迷惑にならぬよう声を潜めて大いに笑った。もう間もなく父親になる、ひと回りも年下の友人に、もう間際だね、なにか変わった?と尋ねると、わかんないすね、生まれてみないとわかんないすよ、と言う。何事もそんなもんなのかもしれんね、とふわふわした返事をし、バドワイザーを飲む。久々に飲むバドワイザーは全身をつらぬく不味さで、これ滅茶苦茶不味くない?と口に出すと、言い出しにくかったんすけど僕もそう思ってました、とくる。しかし他のビールを買いに行くのも面倒くさく、ブチブチと不平を言いながら、我々はそのままバドワイザーを飲み続けた。安い折りたたみの椅子に座り、静まりかえる木々と住宅街を眺め、夜風に吹かれて飲むビールは本当に最高だったけれど、味だけが最高に最低で、それがなんだかおかしくて、声を抑えてゲラゲラと笑った。こんだけ不味いビールが楽しいんだから何があってもまあどってこたないよな、と思ったけれど、なんとなく口には出さなかった。見上げると、満月より少し欠けた月が、欠けた分を補うような明るさで地上を照らしていた。

 

咳止めと頭痛薬を買って家に帰ると、ちょうど彼女も起きたところだった。お茶をいれ、フランボワーズクリームを挟んだソフトフランスがひとつだけあったので、半分に折って分け合って食べた。薬を飲んで仕事に向かう彼女を見送ったらなんとなく横になりたくなって、居間にそのまま寝転がった。このまま眠ってしまうかもしれないな、と思ったけれど、それならそれで別によかった。とにかくいまは連休なのだから、連休に身を委ねてしまえば、あとはもうそれでよいのだった。

 

引き続き咳

相変わらず仕事と咳の毎日である。日々薄皮を剥がすように少しずつ快方に向かっていた咳はある時点から薄皮を積み重ねる方向に転換し、咳に加えて喘息の発作と発熱を伴うようになった。それも微熱。堂々と病欠できるほどではない微熱。だらだらと続く37度2分。

二十歳の微熱はさまになる(なんなら映画にだってなる)、けれどおっさんの微熱はさまにならない。治療の対象になるだけである。しょうがないので繁忙極まる仕事を抜け出し病院へ。先日いただいた薬を飲んでます、でも咳も微熱も喘息もよくなりません、ダルくて寝れなくて苦しくて仕事休めなくてしんどいです。おかしいですねえ、先日処方したのはだいぶ強いお薬なのですよ。検査しましょう、レントゲン撮って採血もします。待合室でお待ちください。平日の昼下がり、駅前のビルの二階の個人病院。やたらと広い待合室には僕ひとり。大きな窓からは春の陽射しが燦々と。すぐ外には駅があり、ロータリーでは人々がせかせかとド平日をやっている。僕はただ長いすに座っている。静かで清潔であたたかい部屋。ぼうっとする頭。少しだけ高い体温。僕は呼ばれるのを待っている。何も思わず、ただ座り、呼ばれるのをただ待っている。まるですべてが静止しているみたいだった。検査の準備が整うまでの、短い間の、短い永遠。

検査結果は異常なし。安堵しつつ、どこか残念でもある。僕の中にはまだどこかに大病への憧れがある。もういい歳なのだけど、同級生と合うとなんだかんだ言って健康が一番だよね、みたいな会話をしちゃうような歳なのだけど、不謹慎なのは重々承知しているのだけれど、正直に言えば、まだどこかに大病への憧れがくすぶっている。入院とかしてみたい気持ちがちょっぴりある。今回もワンチャン結核とかあるかなーなんて思ってた。沖田総司ね、無念だよね、気持ちわかるよ、みたいなこと言ってみたかった。サナトリウムで療養しながら立原道造読んでみたりしたかった。どうせ苦しむならそのくらいの役得があってもいいんじゃないかと思ってた。咳きこむの苦しいんだもん。なんかちょっとくらい見返りがほしい。いいことなんかあったかなあ、激しく咳きこみ体をくの字に曲げてる姿がクラッシュのロンドン・コーリングのジャケットに似てるって言われたことくらいかなあ。


f:id:bronson69:20180331220619j:image

 

家の近所に公園がある。ブランコとすべり台と水飲み場とベンチがいくつか置いてある、どこにでもある普通の公園だ。そこには桜の樹が植えられている。とても大きなソメイヨシノが、正三角形をつくるように、三本。それぞれの樹は、三角形の内側に向かって、面積を塗りつぶすように枝を伸ばしている。ベンチは2つとも三角形の内側にあり、だからこの時期ベンチに座って空を見上げると、視界一面が満開の桜に覆われることになる。公園沿いの道路には電球色の街灯がある。夜になって灯りがともるとオレンジ色の光が公園の中まで射し込んでくる。深夜の帰宅途中、少しだけ寄り道をして、公園のベンチに腰掛ける。深夜の住宅街は静まり返っている。夜空は霞がかった乳白色の蒼。風が吹くとはらはらと花びらが舞う。そこでそのままじっと座っている。咳か寒さか眠気か、そのいずれかに耐えきれなくなるまで、オレンジ色の光に染まる桜を見上げて、そのままそこでそうしている。そんなふうにしてどうにか日々を過ごしている。

 

今週は咳ばかりしていた。仕事をしているときも、大人買いしたBANANA FISHを読んでいるときも、通勤電車でオードリーのANNのふかわりょうゲスト回を聴いているときも、のべつまくなしに咳ばかりしていた。風邪をひいてからはそこそこ時間も経っており、もはや特に喉が痛むわけでも気道がゴロゴロするわけでもないのだけれど、ただ咳の気配みたいなものだけが胸もとに残っており、その気配が濃くなるとゲホゲホと咳が出る。さらに三回に一回くらいの割合でゲッホゲッホと咳の発作みたいなものを誘発し、そうなると呼吸も苦しいわ音も動作も大きくなるわ、しんどさと周りの人への申し訳無さとのダブルパンチで肉体的にも精神的にもだいぶ削られてしまう。夜中にいきなり発作が起きたときなど、隣の彼女を起こしてしまうし心配させてしまうしもちろん自分もしんどいし、そんなこんなで布団に入るのが憂鬱になるほどだった。何度かそういう夜があってから、夜更けに咳が収まらないときは、なるべく静かに寝室を抜け、リビングで毛布をかぶって横になるようにしていた。発作がくると、身体をくの字に曲げて、ホットカーペットの上で心ゆくまで咳をした。苦しかったし寂しかったけれど誰かを起こしてしまう心配だけはしなくて済んだ。息つぎの間を与えてくれない咳の連撃に耐えながら、「咳をしても一人」って山頭火のあれは「咳をしても一人(だから思う存分咳き込んでもよい)」なのかもしれんな、などと思った。

 

咳は気まぐれで、まるで出ないときもあれば、咳止めの薬を飲んでもおかまいなしに出続けるときもあった。咳の発作が酷いとき、ゲホゲホエッホウエッホゲエエエエッホゲッホゲッホと絞り出すように咳をしながら、酸欠でビリビリと血走る頭の片隅で、この咳がなんのために存在するのか考えていた。引っかかるものもなく、異物感も排出すべきものも何もないのに、なぜこうも執拗に咳が出るのだろう。僕の気管支が鈍感なだけで、本当は何かがひっかかっているのだろうか。このままゲホゲホと咳をし続けていれば、いつかひっかかっている何かが出てくるのかもしれない。ピッコロ大魔王の卵のように?でも卵ではあまりに荒唐無稽だ。せめてもう少し身近なものであってほしい。ビアグラスとか、プラスドライバーとか、鍵とか指輪とか。どうせなら何かしら意味があった方が楽しい。咳きこんでビアグラスを吐き出し驚愕したその数日後、そのうち行ってみようと思っていた近所のクラフトビール屋さんが閉店していたことを知る。しばらく後、プラスドライバーを吐き出した翌日、緩んだネジを締め直さなくては、と思いながら騙し騙し使っていたテーブルが破損する。僕は気付く。もしかして、僕が吐き出しているのは、すぐにどうにかしないと手遅れになってしまう何かに関わるものなのではないか?それから数日後、発作のあとに僕が吐き出したのは、誕生日に彼女に贈った指輪と、見覚えのない鍵だった。僕は激しく混乱する。とても不吉な予感がする。いったい何が手遅れになろうとしているのか?僕はいま、何をするべきなのか?わからない、わからないけれど走り出せ、手遅れになる前に走り出せ、たぶんすぐ咳きこんで走れなくなるだろうけど、いいからとにかく走り出せー。例えばこんなお話はどうだろう。知らんがな。

 

眠れない夜を過ごすため、Netflixであいのりを見るなどした。みんなええ子やの、がんばりや、がんばりや、という気持ちで見守っていたらあっという間に最新話に到達してしまった。シャイボーイの恋はどうなるのだろう。上手くいってほしいと思いつつ、「一人になりたい」と言ってる女の子を無理やり追いかけてそれでなんとかなっちゃうみたいな成功体験は獲得してほしくないぞ、とも思うわけで、アンビバレントで引き裂かれちゃっている。かすがの表情も、喜んでんのかしんどさが極まってんのか何とも読みとれない感じだったし。スタジオでベッキーが「あれは超レアケース!女の子が一人になりたいって言ってたら一人にしてあげて!」って言ってたの聴いて救われた気持ちになった。ベッキー河北麻友子のコンビは最高だ。ノリが洋ドラの女子のそれ。河北麻友子を初めて好きになった。男子たちが分をわきまえてる感じもいい。オードリーにはいつまでもあんな感じで居てもらいたい。あともうひとりの男子の名前がどうしても覚えられない。申し訳ない。

 

迷ったけれど、咳がひどくなったら退席することにして、範宙遊泳の「もうはなしたくない」を見に行った。咳止めを重ねがけして、龍角散を口に放り込み、膝の上に温かいお茶のペットボトルをスタンバって口元にタオルハンケチをあて、そのままの態勢でなんとかラストまで乗り切った。女優さんたちのお芝居(大人っぽい島田桃子さん、初めて見たけどとても素敵だった)や衣装、セリフ回しの巧みさなんかには本当に唸らされた、けれど肝心のストーリーの部分で納得が行かないところがあった。ラストに至る流れで、やや男性恐怖症的な登場人物が、初対面の男性に無理やり押し倒されるシーンがある。彼女は激しく怯える。他の女性は、それがたいしたことではないかのような物言いをする。怯えた彼女は部屋を飛び出す。走って逃げようとする。他の女性は逃げる彼女を追いかける。追いかけて、追いかけて、走り疲れて、「わたしたちはみんな違う、みんなおかしい」と言いながら手を繋ぎ、カラオケに行く。ここ、納得いかなかった。手、繋げないでしょ。酷いことをされたとき、そんなのたいしたことじゃないよ、と言ってくる人とは、手を繋げないでしょう。走り疲れて思い出語るくらいのことでは、手を繋げないでしょう。そんなとってつけたようなシスターフッド、嘘でしかないでしょう。やりたいことはわかる。要するに「みんな違ってみんないい」だ。人それぞれいろんな性癖があり、性指向があり、それは必ずしも理解し合えるものでもなく、また理解し合う必要もない。けれど理解し合わなくても繋がることはできる。一緒にいることはできる。私は私の、私たちの性について、もう話したくない。けれど、私はあなたをもう離したくない。それがやりたいのはわかる。でも、あれは嘘だ。タイトルに引っ張られたのだろうか。「もうはなしたくない」というダブルミーニングがきれいに決まりすぎたから、それに合うラストにしてしまったのだろうか。あの子はあのまま逃してあげてほしかった。あの子の被害感情を、そのまま認めてあげるか、認めないなら逃してあげてほしかった。

 

あとそうだ、この週末はカレーが美味しかった。高円寺のかりい食堂さんでチキンカレーと出汁ャブルな牡蠣のカレーのプレートをお昼に食べ、
f:id:bronson69:20180313014617j:image

夜は西荻窪の大岩食堂でポークビンダルーと牡蠣カレーのミールスを食べた。


f:id:bronson69:20180313014822j:image

ウールガイが美味しいカレー屋さんは間違いのないカレー屋さんだと思う。n数こそ6とかそんなもんではあるが、これはもう法則だと断言してよいのではないか。しかしお店でウールガイを食べるときはほぼ100パーセントの確率でカレーも一緒に食べているわけで、せっかくの法則も活用の機会がどこにも見当たらない。何とも残念な話である。

インフルエンザと観劇の記録

あっというま3月。穴ぐらから這い出てみれば季節は春。紅白の梅花、雪帽子の猫柳。自分の生活に書くほどのことなんて何もないぞと思いつつ、書かない日が続いてしまうとそれはそれで不安になる。なんともわがままだと思うがどうするのが正解なのかわからない。とりあえずいまは書いておきたい気分なので、備忘のやつを録します。

 

まだ2月だったころの週末。座・高円寺に神田松之丞・玉川太福二人会を見に行く。芸人人生初のダブルブッキングを華麗にさばく松之丞さん。すっかり本格派の風格。講談はこんなに素晴らしい芸なのに、一向に若手が入ってこないのは何故なのか?このあと20年も経ったら男の講談師は自分だけになるかもしれない。そんな枕。笑いながらも笑えなかった。落語家より競争率低くて狙い目だと思うのだけれど。太福さんは昨年蒲田ととで見たときと同じネタ。銭湯でのアラフィフ上司とアラサー部下の死ぬほどどうでもいいやりとりを朗々と謡いあげる。ゲラゲラ笑ったあとは友達と四文屋へ。片肘ついて牛鍋をつつきつつ「アレはもう見たかい?じゃあアレは?ああ、アレも良かったよねえ、なにしろ…」という感じの会話を3時間。あのときの我々の頭を叩いたらきっと文明開化の音がしたと思う。そんくらい「安愚楽鍋」の挿絵まんまだった。教科書に載ってるこれです。


f:id:bronson69:20180305091332j:image

 

翌週。インフルエンザ。ちょっと喉イガイガすんなー咳でるなーと思ってたら全身がけいれんみたいに震えだし、あっこれ知ってる急激に高熱が出るときのやつだ、と体温計を連打すると測るたびに五分ずつ熱が上がっていく。近所の病院にすべりこむ頃には40度。加えて気管支炎も発症し、きっちり一週間仕事を休むはめに。元気なときは、もしいまインフルエンザになったら溜まってた録画を消化し本を読みNetflixをやっつけ…なんて皮算用をしていたのだけれど、いざ病人になってみると、まったくそれどころではなかった。ひたすら転がって介護されるだけの肉塊でしかなかった。介護してくれた彼女に感謝。自分も忙しいのに何くれとなく世話をしてくれて、おかげで衛生的な環境でゆっくりと静養することができた。何より心細くないのがよかった。高熱で朦朧として天井がぐにゃぐにゃに見えているときも、咳きこんで寝れなくてクッション抱えて丸まってる夜も、ひとりじゃないんだと思えるだけで本当に心強かった。ふたりはいい。ふたりがいいと思える人とふたりでいられる、というのは本当に本当に幸運なことだな、と思った。

 

どうにかこうにか回復し、隔離期間も過ぎて家から出られるようになり、土曜はほりぶん「荒川さんが来る、来た」を見に阿佐ケ谷へ。鎌田さんのお芝居はこれで3回目。フルパワーで走り抜ける混沌に巻き込まれる快感を堪能。あの快感はいったい何なのだろう。しかも終演後には何かスポーツに参加したような謎の爽快感に満ち溢れていた。まったく訳がわからない。楽しい。お芝居に影響されどうしても餃子が食べたくなったので鍋屋へ。皮の分厚い大陸風の餃子を心ゆくまで味わう。そこからrojiへ移動し、ウイスキーの品揃えの良さを賞賛しつつ、チーズとドライフルーツとサブカルゴシップみたいな話で終電まで。久々の正統派サタデーナイトをがっつりやって、明けて日曜は昼から横浜。KAATで木ノ下歌舞伎、「勧進帳」。これまでで最もスタンダードかつ洗練された内容だった。わかりやすく、しかし工夫が凝らされ、原典に忠実でありつつ普遍性があり、ラップでありモードであり歌舞伎であった。名刺がわりになり得る作品だと思う。しかし中央線から横浜は遠い、乗り換えが少なかろうが遠いものは遠い。観劇後は中華街「南粤美食」で中華。狭い厨房にはびっしりと乾物が並ぶ。スペアリブ、海老雲呑麺、干し貝柱と干し肉の土鍋ご飯を注文。全部美味しかったけれど、土鍋ご飯はやばかった。干し肉がすごい。旨味の爆弾みたいになってる。干すだけで肉はこんなにも美味しくなるのだろうか。お店イチオシの鳥の塩蒸しが品切れだったのが心残り。次回KAATに行くときは絶対にリベンジしたい。この店に行けると思えば遠い横浜も少し近くなる。良いお店にはそういう魔力がある。美食の魅力は百里を超える。いつか僕が会社をやることがあったら、べらぼうに旨い社食を作りたい。何があっても社食のために出社しようと思えるような、日替わりのためにあすの出社が待ち遠しくなるような、そんな社食を作りたい。というか今すぐそういう社食がほしい。そうでもないと仕事に行ける気がしない。要するに働きたくないのである。風邪、ほぼ治りて、仕事、したくなし。街、春めいて、仕事、したくなし。そんなような心持ちでうだうだと春の夜を過ごしている。

 

 

お買い物

どうも一週間が早いように思う。月曜の朝、目を閉じる、手を叩く、はい金曜の夜。体感的にはこんな感じ。どうも時間の流れが加速している。光速に近づいている。もしや最近の体重の増加はそういうことか、亜光速では質量が増えるって例のアレか。

 

すこし前の休日の話。なんだかぺしゃんこに潰れた気分でいっぱいで、とにかく優しくされたくて、それで映画を見に行くことにした。「タレンタイム」ってマレーシアの映画。まったく知らない作品なのだけれど、Twitterで誰か知らない人が「世界でいちばん優しい映画」と書いており、導かれるようにチケットを取ったのだった。早起きして井の頭線に乗り、道玄坂の路地を抜けてアップリンクへ。アップリンクの最前列の椅子、大きくて座り心地はよいけれど、座面がメッシュなのでこの時期はめちゃ寒い。というかそもそも暖房効いてなさすぎ。借りた毛布で身体の前面はなんとかなったが、背面はダメだった。メッシュ越しに冷気が直でくる。結果、暑そうなマレーシアを見ながらガタガタ震える羽目になってしまった。おかしいな、優しさに触れたくてここに来たはずなのに、優しくされてる感じがしない。映画は確かに優しいけれど、映画館が優しくない。ダブルバインドだ。殴りながら優しくする男みたいな。ヤクザの手法だ。離れられなくなるやつだ。怖い怖い。

映画の後は虎子食堂で見目麗しいカレー。
f:id:bronson69:20180218081927j:image

ランチタイム外れてたせいか、客は自分ひとりだった。広めのダイナーみたいな店内は化石みたいに静まりかえっていた。映画館で冷えたせいか、ぼくの首すじはガチガチに固まっており、そのせいでひどい頭痛がした。スパイスを摂取すればよくなるだろうかと思ったがそんなこともなく、痛むこめかみを押さえながら、教科書の写真の芥川龍之介みたいな不機嫌な顔でひとり黙々とカレーを食べた。

 

また別の日。近所で新たに間借り営業を初めたというカレー屋さんでランチ。
f:id:bronson69:20180218083520j:image

こんな端正なミールスが1200円。しかも全品おかわり自由。追加でたのんだ牡蠣のアチャールも低温調理されたラムチョップもとても美味しかった、でも何よりすごいのは基本のミールス。シンプルで素朴でそれでいて洗練されている。比喩でなく毎日食べれるやつ。ミールス頼むときはついノンベジにしてしまうのだけれど、ここのはベジで充分だと思える。書いてたらまた行きたくなってきた。近いうちに行列店になるのではないでしょうか。あ、お店の名前は「とらや食堂」です。

ご飯のあとは井の頭公園へ行って水のない池を見た。
f:id:bronson69:20180218084612j:image
湖底(池底?)をみながら池の周りをぐるりと一周した。水の湧き出すところを探したり、池と川の境目に立ったりして遊んだ。休日の公園には大道芸人やらハンドクラフト売りやらが何人もおり、セミプロよりもう少しアマよりの腕前を楽しそうに発揮していた。似顔絵を描くひとがおり、見本を並べているので見てみると、6枚の見本のうち2枚が北斗晶、2枚が佐々木健介、2枚が北斗&健介だった。似顔絵師はいままさにカップルの似顔絵を書いており、どんな絵を描いているのか気になったが、怖くなって覗きこむのはやめておいた。いつだって狂気は日常の中に潜んでいる。僕らの平坦な戦場。僕らの愛。

それから古本屋をめぐり、レイモンド・ブリッグスの「おぢさん」と「風が吹くとき」と岸本佐知子編「変愛小説集2」を買った。彼女が机をほしいというので家具屋を巡り、ついでにココナッツディスクでSaToAと台風クラブのアルバムを買った。どうも最近は買い物づいており、出かけると、いや家にいても、すぐに何かしらを買ってしまう。最近買ったものはこんな感じ。手塚治虫きりひと讃歌春日太一「あかんやつら」ウディ・アレンウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法」(ウディ・アレンの浮気を終わらせる方法についての本かと思った、そんなもんあるわきゃないよなーと思ったらやはりそういう本ではなかった)、松家仁之「光の犬」、谷口菜津子「彼女は宇宙一」、あと「左門くんはサモナー」の全巻セットも買ったし「鉄塔武蔵野線」のDVDも買ったしオートモアイさんの画集も買った、さくらももこの初期エッセイ3部作も買ったし上田とし子「フイチンさん」「お初ちゃん」も買った、フイチンさんに至っては傑作すぎたので2セット買った。1つは母親の誕生日プレゼントにする予定。母親が子どものころに読んでいたという虫コミックスが実家にあり、僕も子どものころに読んでいて、それで完全復刻版を買ってみたら、虫コミックス版の続きが載っていたのだ。それにしてもこのマンガは面白い。ストーリーやキャラクターもそることながら、このひと半端じゃなく絵が上手い。いま読んでも洗練されている。高野文子が絵柄を真似たというのも納得。最近の人だと近藤綾乃さんの描く線に似てると思った。とにかく良いので興味のある方はご覧になってみてください。アマゾンだと上巻は高騰してるのでまんだらけの通販がオススメです。定価以下で買えた。

 

 

 

 

 台風クラブの「初期の台風クラブ」を気に入りすぎて毎日聴いている。Theピーズのバカ度が低めの曲ばかり入っているような、そんなアルバム。要するにすごく好きなアルバムだということです。こういう世界観はほんとたまらんもんがある。うだつが上がらず、金もなく、未来が見えず、安アパートの一室でひたすら時間を浪費するような生活。このままでいいのかって不安と焦燥感、でも闇雲に走り出せるほどのエネルギーも度胸もなく、楽しいことがないわけじゃない、死にたくなるほど鬱々としてるわけでもない、どうしていいかわからずに、とりあえず集まって、酒飲んで、酔って潰れて眠るだけ。そんな感じの毎日にはどうしたって詩情が生まれてしまう。なんなんだろう。あまりにもグッと来て久々に晩酌してたら勢いがついてしまい、段ボールからいましろたかしの「ハーツ&マインズ」を引っ張り出し、古本屋まで行って「独身アパートどくだみ荘」を買い、アマゾンで椎名誠の「哀愁の街に霧が降るのだ」を注文した。私は何をしているのだろう。完全にお買い物中毒な今日このごろである。

 

 

お買いもの中毒な私! [DVD]

お買いもの中毒な私! [DVD]

 

 

 

小沢健二「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」

月初くらいの疲れ果てて文化的食事をうけつけない状態はなんとか脱して、いまは文化的過食に陥っている。文化的空腹を埋めようと(あるいはただ単に慰めを得ようと)少しでも興味を惹かれたものをホイホイと玉入れのように買い物カゴに放りこんでいる。無計画な買い物のせいで部屋はどんどん乱雑になっていく。服装の乱れは心の乱れなんてことを言うがあれは半分嘘で半分は本当、服装の乱れはただの服装の乱れだけれども心が乱れると服装も乱れる。舌が垂れると書いて乱れると読む、だから言葉は正しく使いましょう。特に意味はない言葉、ただのそれっぽい言葉遊び。

 

映画「リバーズ・エッジ」の主題を小沢健二が歌う、歌詞はこれ。こんな感じで歌詞の画像が流れてきたのはもう2週間ほど前のこと。驚いた。えっ、そんなことまで言っていいの!?みたいな、わりとセキララな思い出話だったから。関係ないけどセキララって言葉はなんか好きだ、まずもって語の響きが美しい。セキレイのようでもありキキララのようでもある。キラキラして、それでいてどこか爽やかだ。しかし漢字にすると赤裸々。赤くて裸、もひとつ裸。意味合いもえげつない。響きと意味、そのギャップもいいと思う。話を戻すと、最初は詩的な味わいよりもまず下世話な興味が先にたった。やっぱ嶺川貴子と付き合ってたのか、とか、自分が嶺川貴子でも岡崎京子には嫉妬しただろうないろんな意味で、とか、そういうことを考えてた。それ以上は想像がつかなかった。「リバーズ・エッジ」のあの乾いた砂漠のような静まりかえった質感の中でこの歌詞がどう響くのか、僕にはわからなかった。曲を聴いて、また驚いた。あまりにも、あまりにも優しかったから。心の深いところで繋がりあう友だち(それはもちろん岡崎京子だ)へ語りかけるような、親密さと優しさに満ちた歌声。「リバーズ・エッジ」はずっと、残酷な真実についてのお話だと思っていた。荒涼とした砂漠のような世界の中で、ほんの一瞬、繋がりあえたような気がして、そしてまたすれ違っていく。人と人とは分かり合えない、それを知っている人としか分かり合えない。そういう「平坦な戦場」についてのお話だと思っていた。けれど、「アルペジオ」に歌われているのは、分かり合い、繋がりあう二人の姿だ。もうはっきり言ってしまうけれど、この曲を聴いていると、山田くんと若草ハルナはそのまんま小沢健二岡崎京子にしか思えなくなってくる。そのように読み替えることが許されるならば、山田くんとハルナが小沢健二岡崎京子のように深いところで結びついていたのならば、本当の心は本当の心へと届くのならばーそれが本当なら、山田くんやハルナと同じ「平坦な戦場」を生きていたあのころの僕らにとって、どんなにか喜ばしいことだろう。あの橋の上でのハルナの涙が、山田くんとの心の共鳴が、一瞬の刹那のつながりではなく、いつまでも続くほんとうのつながりのはじまりなのだとすれば、そのようなつながりがどんな世界においてもあり得るのだと、この平坦な戦場においても平坦ではない愛があり得るのだとすれば、「リバーズ・エッジ」とは、世界の酷薄さではなく、酷薄な世界においても愛が存在し得るのだということを描くお話なのだということになる。少なくとも、ラストに「アルペジオ」がかかる「リバーズ・エッジ」は、そういうお話になるだろう。この曲ひとつで、20数年ぶりにオセロが一気にひっくり返ってしまったような気分。そんなのってねえ、もうあんまりにも素敵じゃないか。

 

ああ、早くライブで聴きたい。