bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

小沢健二「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」

月初くらいの疲れ果てて文化的食事をうけつけない状態はなんとか脱して、いまは文化的過食に陥っている。文化的空腹を埋めようと(あるいはただ単に慰めを得ようと)少しでも興味を惹かれたものをホイホイと玉入れのように買い物カゴに放りこんでいる。無計画な買い物のせいで部屋はどんどん乱雑になっていく。服装の乱れは心の乱れなんてことを言うがあれは半分嘘で半分は本当、服装の乱れはただの服装の乱れだけれども心が乱れると服装も乱れる。舌が垂れると書いて乱れると読む、だから言葉は正しく使いましょう。特に意味はない言葉、ただのそれっぽい言葉遊び。

 

映画「リバーズ・エッジ」の主題を小沢健二が歌う、歌詞はこれ。こんな感じで歌詞の画像が流れてきたのはもう2週間ほど前のこと。驚いた。えっ、そんなことまで言っていいの!?みたいな、わりとセキララな思い出話だったから。関係ないけどセキララって言葉はなんか好きだ、まずもって語の響きが美しい。セキレイのようでもありキキララのようでもある。キラキラして、それでいてどこか爽やかだ。しかし漢字にすると赤裸々。赤くて裸、もひとつ裸。意味合いもえげつない。響きと意味、そのギャップもいいと思う。話を戻すと、最初は詩的な味わいよりもまず下世話な興味が先にたった。やっぱ嶺川貴子と付き合ってたのか、とか、自分が嶺川貴子でも岡崎京子には嫉妬しただろうないろんな意味で、とか、そういうことを考えてた。それ以上は想像がつかなかった。「リバーズ・エッジ」のあの乾いた砂漠のような静まりかえった質感の中でこの歌詞がどう響くのか、僕にはわからなかった。曲を聴いて、また驚いた。あまりにも、あまりにも優しかったから。心の深いところで繋がりあう友だち(それはもちろん岡崎京子だ)へ語りかけるような、親密さと優しさに満ちた歌声。「リバーズ・エッジ」はずっと、残酷な真実についてのお話だと思っていた。荒涼とした砂漠のような世界の中で、ほんの一瞬、繋がりあえたような気がして、そしてまたすれ違っていく。人と人とは分かり合えない、それを知っている人としか分かり合えない。そういう「平坦な戦場」についてのお話だと思っていた。けれど、「アルペジオ」に歌われているのは、分かり合い、繋がりあう二人の姿だ。もうはっきり言ってしまうけれど、この曲を聴いていると、山田くんと若草ハルナはそのまんま小沢健二岡崎京子にしか思えなくなってくる。そのように読み替えることが許されるならば、山田くんとハルナが小沢健二岡崎京子のように深いところで結びついていたのならば、本当の心は本当の心へと届くのならばーそれが本当なら、山田くんやハルナと同じ「平坦な戦場」を生きていたあのころの僕らにとって、どんなにか喜ばしいことだろう。あの橋の上でのハルナの涙が、山田くんとの心の共鳴が、一瞬の刹那のつながりではなく、いつまでも続くほんとうのつながりのはじまりなのだとすれば、そのようなつながりがどんな世界においてもあり得るのだと、この平坦な戦場においても平坦ではない愛があり得るのだとすれば、「リバーズ・エッジ」とは、世界の酷薄さではなく、酷薄な世界においても愛が存在し得るのだということを描くお話なのだということになる。少なくとも、ラストに「アルペジオ」がかかる「リバーズ・エッジ」は、そういうお話になるだろう。この曲ひとつで、20数年ぶりにオセロが一気にひっくり返ってしまったような気分。そんなのってねえ、もうあんまりにも素敵じゃないか。

 

ああ、早くライブで聴きたい。

近況

疲れるといつも簡単にできることもできなくなる。多くの人と同じくぼくもそういう性質を持っている。疲れると集中力がなくなる。疲れると重たいものを受けつけなくなる。血の滴るサーロインステーキ、毛布みたいな生地のダッフルコート、それからぎっちりした密度のドラマ。そんなわけでanoneを見れていない。ついでに年明けからドキュメント72時間も見れてない。見れてないのに函館の回にブッダNippsが出てくるというネタバレだけを見てしまった。デミさんとNHK。似合わねえ。デミさんにとってのNHKの門はそれこそ何よりもタイトだと思うんすけどね、そのあたりどうなんすかね。anoneは見れないけれどもアンナチュラルは楽しみに見ている。あと99.9も。頭ん中にコンフリクトを生ずることなく見れるのがありがたい。キングちゃんやゴッドタンは楽しく見れているけれど、水曜日のダウンタウンはここ最近見れてない。あの悪意がいまはちょっと重たい。ラジオが楽しい。会社の行き帰りはオードリーのANNとハライチのターンを聴いている。仲良しっぽいあの空気が心地よい。あとは漫画。正月休みに見たNHKドラマの「風雲児たち 蘭学れぼりうし」がとても良かったので、引越しのときに売りさばいた「風雲児たち」を買い戻した。既刊49冊大人買い。すっかり幕末漬けである。こないだ日比谷線乗ったときは小伝馬町駅通過しただけで興奮してしまった。ここにあの牢獄があったのか…高野長英が牢名主やってたんか…みたいな。なぜ日比谷線に乗ったのかというと北千住に行ったからで、なぜ北千住に行ったのかというと、玉田企画の「あのころの話」を見に行ったからです。二年前、小竹向原で見たやつの再演。キャストは半分くらい同じ。大きくは変えてない、のだけれども、ポップになってる気がした。笑いどころがはっきりして、コント色が強くなってる。見てるだけで胃が痛くなるような気まずさが減ってはっきりした笑いが増してる。テアトロコントみたいな場で揉まれた影響だろうか。それにしてもなんて完成度の高い脚本だろう。セリフといい、展開といい、キャラクターの二面性の表現といい。大満足で劇場を後にし、徒歩でタンブリンカレー&バーへ。スリランカカレーの有名店。一度訪れてみたいと思いつつ、なかなか機会がなかった。店内もキレイでお酒の品揃えも上々、近所にあったら通うのにな…という感じ。
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これがカレー。薄暗い店内なので薄暗い写真。ダルカレーに各種副菜、写ってないけど別皿でチキンカレーと牡蠣のカレー。それぞれ単品でいただき、最終的には全部混ぜていただく。美味しい。東京で食べたスリランカカレーの中では一番美味しいのではないか。いい店だなあ。北千住いいとこだなあ。終電ギリギリまで食事を楽しみ帰宅。深夜の杉並区はキンキンに冷えている。上空に寒気、地表に残雪。上と下からたっぷりと冷やされているのだから仕方ない。オーブントースターで両面からきっちり焼かれているパンみたいなものだ。そういえば今の家の近所には美味しいパン屋さんが多い。必然的にパンを食べる機会が増え、買って5年になるオーブンレンジのオーブン機能を初めて使っている。食パンやなんかを焼くのだけれど、うちのオーブンレンジは電熱器が上にしか付いてないタイプのようで、表面はカリッと焼けるのだが、裏面はフワフワに蒸されてしまう。上からの熱に押されてパンの水分が下に寄ってる感じ。これはあえてのことなのだろうか。両面カリカリしたトーストよりこういう一度で二度美味しいみたいなパンのが好きだってひともいるのだろうか。いるか。いるのだろうな、それは。世の中いろんなひとがいる。ご飯を炊いたときにできるおこげが好きだってひとは世の中に多いみたいだけれど、ぼくはおこげが好きじゃない。やたらと硬くて、歯の溝にがっちりとくっついて噛み合わせをおかしくする食べ物、という印象しかない。でもおこげは世間では愛されている。仕方ない。そういうものだ。好みの問題だ。好みというと漫画家さんの書く線の中ではぼくは近藤聡乃さんの書く線がだいぶ好みで、「ニューヨークで考え中」の2巻も線…線たまらん…と思いながらうっとりと堪能し、この線の感じは誰かに似てるな…と考えて思い当たったのが上田トシ子先生である。子どものころ、家にあった「フイチンさん」が大好きだったのだ。ひさびさ読みたいな、と思いアマゾンやらヤフオクやろ探してみるけど何かしらんがやたらと高い。ううむ、上下巻で3000円くらいになってくれんもんかのう…と悩みつつアマゾンヤフオクメルカリの価格をチェックする毎日である。とどのつまり平和。疲れてぐったりしてanoneもデビルマンも見れずにいるけど平和。あー、二週間くらい何もしないで休みほしい。休みの日とか何もしたいでゴロゴロ転がってたい。ゴロゴロゴロゴロと同じところを転がり続けていたい。ちょうど円錐を転がしたときみたいな感じ。でも2月も3月も週末は見たいお芝居と映画と落語がありすぎる。マッサージも行きたいし銭湯も行きたいし公園にも行きたいし眼鏡も買いたい。あと皆既月食もっかい見たい。今度は地平線に近いとこのデカいやつで見たい。デカくて丸くて赤い月なんて興奮する。それもうただのエヴァンゲリオンじゃん。

ロロ「マジカル肉じゃがファミリーツアー」

土曜の昼。KAAT。

 

新春初ロロは神奈川から。すげえ良かった。まとまりそうにないのでぐちゃぐちゃと感想を書きます。全体の空気感はどことなくリトル・ミス・サンシャインに似てるように思った。でも何が似てるのかはよくわからん、「家族」で「移動」ってとこだけかもしれん。板橋駿谷さんまで含めてフルメンバーのロロは久々、というか初めて見るかもしれん。多摩センターのときはたしか亀島さんがいなかったから、やっぱ初めてなんだなー。ひとりひとりも好きだけれど、全員揃ったときのこの無敵感はなんだろう。SMAPに感じていたのと同じ気持ち。ステージ上では優しさと可愛らしさと微笑ましさが爆発していて、ひとつひとつのやりとりがとにかくキュート。「若いころのパパとママが小さなシールになってこの家のいろんなとこに貼ってあるはず、どこにあるかはもうわからないけど」ってこのやりとりだけでもう可愛すぎてたまらない。こんな感じがずーっと続く。描かれるのは、記憶と名前と愛にまつわるお話。しかし本当にお話だったのか?ってくらいにストーリーが残ってない。かわりに柔らかくあたたかい手ざわりみたいなものだけが残っている。それでも覚えていることを凸凸と。

記憶について。「父母姉僕弟君」での「忘れたくない、いまのこの気持ちがいつか消えてなくなるなんてそんなの嫌だ」から「忘れたって大丈夫、忘れることは無くなることとは違うから、たとえ忘れてしまっても、それは確かにあったのだから」に変化してる。大人になってる。実際、忘れてしまっても大丈夫なことがあったのだろうと思う。生きてると色々ありますわな。ここ一年くらいの自分の感じとぴったりだったので、あーもうわかるわかるわかる!と胸の内で膝を叩きまくっていた(ややこしい)。

名前について。「正しい名前をつけると、世界は欲情するの」みたいな台詞を聴きながら、大澤真幸が「恋愛の不可能性について」で書いていたことを思い出した。曰く、愛は要素に分解できない。「○○のどこが好き?」「かわいくて明るくて聡明なところだよ」「じゃあ、もし○○がかわいくなくて明るくなくて聡明でもなくなったら、好きじゃなくなる?」ここでyesと答えるならばそれは果たして愛だろうか。否。かわいくなくても、明るくなくても、聡明でなくても、○○への愛は変わらない。僕が好きなのは、○○の何か、ではない。僕が好きなのは○○なのだ。あ、「○○」には各々が好きな固有名詞を代入してください。愛は要素に還元されない。愛の対象は名前によってしか語り得ない。名前で呼ぶことでしか捉えることのできないものがあり、それはたぶん本質とか魂とか呼ばれるもので、だから「名づける 」とは本質を同定し魂を与えることに他ならない。

どうなのかな、これ。伝わるのかな。たぶん伝わらないだろな。文章もぐちゃぐちゃだし。でもよいのだ、自分にさえ伝わっていれば、それでよいのだ。 そういうことにしたのだ。

 

行きは中央線と副都心線直通東横線直通みなとみらい線だったので、帰りは横浜線八王子経由中央線にした。今日の俺はいびつな楕円軌道を描いて西東京をぐるりと囲んでいるのだ、と思うと無性に楽しかった。鈍行の横浜線に揺られつつ、楕円軌道の大先輩であるハレー彗星の気持ちになってみようとしてみたけれど、それは流石に無理みたいだったので、睡魔にまかせておとなしく眠ることにした。のどの奥がぱりぱりと乾いている感じがした。ちょうど風邪をひきはじめたのかもしれないと思った。

年末と年始のことなど

気がつけば正月も終わり、正月の残り火のような連休も終わり、浮かれ気分もどこへやら、ロックンロールも鳴り止む時間が来てしまったようである。年末と年始。一年でいちばん静かで新鮮で敬虔でときめいてしまう数日間。そちらの年末年始はいかがでしたか、こちらの年末年始はたいそう落ち着いておりました。同居してる彼女が年末からがっつり発熱。病気的な彼女にポカリやお粥や解熱剤を供えつつ、合間合間に膨大な録画を消化したり、やや豪華なお惣菜を食べたりしていたら転がるように年が締まりあれよあれよと年が明けた。あけましておめでとうございます。年が明けても彼女の風邪は治らず、お供え物を増やそうと外へ。元旦。前に住んでいた新宿とは違い、この街の年末年始は静かである。個人商店ばかりのこの街では、三ヶ日はどこの店も休みであり、人影もまばらで、まっすぐ続く道路にはただ青く冴え渡る空と凛とした空気が広がっている。さむさむ、と口の中で呟き、部屋着に羽織ったパーカーのポケットに手をいれる。背中を丸めて誰もいない道路を歩く。小さな歩幅でせかせかと歩く。なんだか鶏みたいだと思う。目的地の西友に着くまで誰ともすれ違わない。西友の店内にも誰もいない。まさかウォーキング・デッド…?帰ったら彼女もウォーカーになってるパターン…?と思ったが薬局コーナーには薬剤師さんがスタンバってくれていたので懸念は払拭された。元日からお疲れ様です。とてもとても助かります。助言に従いドリンク薬と濡れマスクと冷えピタを購入。店内まわってレンジで暖めるゆたんぽと小さな加湿器、それからたまごとネギとうどんとヒガシマルのうどんだしも購入。帰宅、加湿、ゆたんぽ加温、なんか食べる?食べられそ?からのうどん作成。食べて薬で冷えピタで睡眠。翌日にはなんとか熱も下がり、明けて正月休み最終日、上野鈴本初席へ。ようやく正月らしい感じでとてもようございました。

こんな感じで半分くらいは看病な年末年始だったのだけど、看病、正直楽しかった。病人のお世話をすることによる自己効力感の獲得!代理ミュンヒハウゼン症候群!みたいな怖い話ではなく、ほんとにそういうんじゃなく、なんというか、こう、家族みたいだなって思った。同じ家にいて、ちょいちょい寝室に様子を見に行って、心配したり世話をやいたり、そういうのがとても嬉しかった。のんのんとした日常の風景、新聞四コマの中で起こるくらいのささやかな事件、そういう緩やかな時間の流れがとても愛おしく思えた。

今回の年末年始はこんな感じ。そういうわけで皆様ハッピーニューイヤー、良い一年になりますように。

 

大晦日

お昼ごはん用にセブンイレブンの肉うどんを買い、しっかり温めてもらって帰宅し、なんやかんやで食べずに放置して8時間後に温めなおして食べている。汁は半分、麺は倍。ぶにゃぶにゃになったうどんがしみじみと優しい。具合が悪い彼女は寝室でこんこんと寝ている。熱は下がってきたようでとりあえず安心。もう少ししたら追加のポカリスエットを持っていこう。起こさぬように、枕元にそっとお供えしてこよう。ついでにみかんのひとつも供えて、初詣はもうそれでいいな、年越してなくても別にいいな。

 

今年は何があったかなーなんて思い出そうとしてみたけれど、ほとんどのことを忘れてしまっているような気がする。映画。おととい見たクストリッツァの「オン・ザ・ミルキーロード」はすげえ良かった。相変わらずのクストリッツァって言えばそれまでなんだけども。嘘みたいに命が軽い世界でのスラップスティックラブ・ストーリー。ここまで書いてたら新年まであと50分というタイミングでAbemaのアプリから「特命係長只野仁 第二話放送中!」って通知が着た。誰が只野仁で年越しするんだ、どうせ通知するなら一話にしてくれ、通知してくる割にすぐ通知消えるのなんなんだ、様々な言葉が脳裏に浮かぶ。おかげで喉元まで思い出せてた記憶がまたどっかに飛んでいった。まあいいや。忘れてしまうことは無くなってしまうことと同じではないのだし。いくつかのことはいつかひょっと思い出すだろうし、それはきっとふさわしいタイミングで起こることで、年末だからって無理して記憶を絞り出す必要はないのだ、たぶん。

絞ると言えば本搾り缶チューハイっていつから9%になったんだろう。なんでもかんでも9%になるとストロングゼロの存在意義が問われる事態になってくる。ストロングゼロはあんだけ9%押しなのになんでゼロなんだろう。ストロングナインのほうが良かったのではないか。ゼロなのにナイン。なんだそれ。サイボーグ009か。%と言えば、多摩センターのステージで見たロロとemcの「100%未来」はとっても良かったなあ。あのステージはすごく好きだった。「アイ・ラブ・ユーっていうかダンス・ウィズ・ミー ボーイ・ミーツ・ガールだけじゃもうたりない」のパンチラインでお馴染みの「ミーツミーツミーツ」もすげー良かったし。


lute live:ロロ+EMC feat. いわきっ子「ミーツミーツミーツ」 - YouTube

ロロはいつ高シリーズの「いちごオレ飲みながらあいつのうわさ話した」も最高だった。年明けのKAATのやつも観に行こう。横浜遠いけど。ロロメンバーだけでやったSMAPオマージュのあの曲もめっちゃ良かった。あれなんて曲なのかなー。しかるべき場所でぜひもう一度聞きたいものです。

 

 そろそろ年越しか、2017年のうちにポカリをお供えに行かなければ。皆様、今年も一年お世話になりました。来年は味わい深い一年にしましょうね。楽しいことも、悲しいことも、浮かれたり落ちこんだり受け入れられなかったりする自分も、ぜんぶ丸ごと飲みこんで、味わって行きましょう。2018年もよろしくお願いします。

 

 

 

年末っぽくない12月

監獄のお姫さま。毎週楽しみに見ていたけれど、傑作ってほどじゃなかった。でもそれで充分って気がする。そもそもが「おばさんのお喋りを書きたい」で始まったドラマだし、お喋りってそういうもんだと思うし。その場は楽しくて、連帯感とかあって、なんとなく幸せで、でも内容は薄っぺらくて、二日もすれば思い出せなくなっちゃって、手ざわりとあたたかさだけ残ってるような。だからこれで充分。別の日、神保町にキョンキョンを観にいった。柳家喬太郎桂雀々の二人会。この年末は落語、というか演芸ってほんとすげえなって思わされることが多い。日々をなんとなく過ごしていると、狙いすましたひと言とかではない、なんでもない適当なお喋りに強めのおかしみが宿ってしまうってことが誰にでもあると思う。例えば二人で会話していて絶妙な間で同じ言葉を発するやつとか、なんにも考えずポンと発した言葉が状況に対する絶妙なツッコミとして機能したりしてしまうやつとか、なんかそういうの。ああいうのって意図してないからこその面白さで、意図してやってるとまた別の種類のおかしみになると思うのだけれど、落語ってほんとすごくて、そういう偶然のおかしみを舞台の上で再現してしまう。桂雀々さん、初めて観たのだけれど、凄かった。もうね、ジミー大西。ジミーちゃんのあのおかしみを、舞台の上で違和感なく演じてた。ゲラゲラ笑って神保町でカレーを食べる。欧風カレーは美味しかったけれど、店員さんがやけにつっけんどんだった。さっき笑いすぎたからバランス調整機能が働いてしまったのだろうか。おい、今日のお前はほがらかに過ぎるぞ、もう少し殺伐とせえよ(手元のダイヤルぐるーん)みたいなことかしら。ダイヤル式か。旧型やな。

偶然のおかしみについて、書いてるうちに思い出した話。たぶん中学のころのこと。昼休みにバスケやってて、先輩がボール持ってふざけだして、無意味なシュートフェイクを アホみたいな速さで連続で繰り出し、ピボットというよりダンスのようなステップで無意味なターンを繰り返し、しまいには後ろを向いて背面のゴールにボールを放り投げた。ボールは高い起動の放物線を描き、一度ボードに当たって、ダン、バス、とリングに入った。その瞬間、コートにいた全員が崩れ落ちて爆笑した。ほんとに爆発するように笑った。シュートを打った先輩も含めて、しばらくのあいだ、転げ回って悶絶していた。あれほど笑ったのは後にも先にも、とか書いちゃうとそれは嘘で、笑って立てなくなったことなんてたぶん何度も何度もあると思うのだけれど、記憶に残ってるのはなぜかこれだけ。ボールが空中にあるときのあの静寂、ボードに当たってリングに入るときのあの音、屋外のコートのアスファルトと曇った空のグレーの色まではっきりと覚えている。

あと熊倉献さんの「春と盆暗」が最高だった。とにかく女の子が可愛いし男の子もすげえかわいい。文化系男子女子のボーイ・ミーツ・ガール・ストーリー。しかし1月に出た本を12月に読んで年間最優秀賞だなーなんて思うのなんだか面白いな。

 

春と盆暗 (アフタヌーンKC)

春と盆暗 (アフタヌーンKC)

 

 

 

土曜日

なんとなく書きたいことがあるようなそんな気がして、けれど何を書きたいのかは皆目検討もつかず、とりあえずやってみっか、で指を滑らせている。西荻は夜の八時。嘘みたいに夜の八時。目が覚めたのはたしか朝の八時くらい、遮光カーテンを閉めた真っ暗なベッドでだらだらとAmazonサイバーマンデーの様子やJリーグの移籍情報なんかをだらだらと眺めていたら瞬時にお昼、のそのそと起きてお茶をいれ、くるみのベーグルにはクリームチーズとスモークサーモンを挟み、クランベリーのベーグルにはりんごバターをたっぷりと載せ、ちぎっては投げ、投げては食べ、水曜日のダウンタウン、ゴッドタン、クレイジージャーニー、いろはに千鳥と録画を消化し、よく見聞きし、わかり、そして忘れず、出かける彼女を見送り、仕事しなきゃとパソコンを開き、ファイルを開いてぼんやりと見つめ、見つめ、見つめ、スクリーンセーバーの描き出すフラクタル曲線を見つめ、このフラクタル曲線が画面の外まで伸びてきて絡めとられて身動き取れなくなったらどうしようと心配になり、スクリーンセーバーはなぜそんなことをするのだろう、セーバーとしての防衛本能なのだろうか、ぼくがスクリーンに何かするとでも思っているのか、まてよもしかしたら強すぎて制御できない力が暴走してしまっているのかもしれない、だとしたらスクリーンセーバーが危険だ、まるで3部の承太郎のお母さんじゃないか、どうしたらいいんだ、どうしたら助けられるんだ…?とここまで考えてマウスをチョッとつついたらフラクタル曲線はパッと消えてモニターに仕事のファイルが戻ってきた。スクリーンセーバーは救われた。一件落着。一段落。よかったよかった、力が抜けた、姿勢を崩して横たわり、昨日買った森田るい「我らコンタクティ」を読む。めっちゃいい。さっきまでぼんやりしていたのはここで集中力を爆発させるためだったのか…?ってくらいに没入し一息で読み終える。とにかくそれだけやってりゃ満たされるような何かに取り憑かれていることが人生をスカスカにしない唯一の方法だって気がついたのはたしか中学一年のころで、絶望的な気持ちになったのを覚えている。そんなの運じゃん、って思ったからだ。取り憑かれようとして取り憑かれるってのはなんかおかしい、好きじゃないのに好きなふりをするみたいなことだ、ほんとの好きってのは自分じゃどうしようもできない気持ちのことだ、いきなり落ちるもんなんだ、取り憑かれるのもおんなじで、取り憑かれよう取り憑かれようとすることは取り憑かれることから遠ざかるようなもんなんだ、なんだそれやっぱ運じゃん、みたいな感じ。ちなみにそんときの僕はまだ恋をしたことがなかった。若かった。若かったから、純粋じゃないと気がすまなかった。付き合ってるうちに好きになる、みたいなことが本当にあるなんて想像つかなかった。興味のなかった仕事でも、苦労して、やれることが増えていって、失敗したりうまくいったり仕事相手や仕事仲間の感情に触れたりするうち胸はってこの仕事好きです!って言えるようになったりするのだと、多くの人々はそうやって十分満たされているのだと、そんなことはなんにも知らなかった。とにかく取り憑かれていなければならない、そうでない時間はすべてスカスカで空っぽで何もない砂のようなものなのだと信じていた。スカスカの砂の世界では生きられないと思っていた。それから何年もの間、取り憑かれては我に返ることを二三年のスパンで繰り返し、いまに至るまで生きている。大人になるにつれスパンは変化していった。取り憑かれている時間は短くなり、取り憑かれていない時間が普通になっていった。おそらく取り憑かれていない時間は昔と変わらず空っぽなままなのだけれど、それを恐ろしいとは思わなくなった。空っぽな時間を過ごしているときも、世界は変わらず美しく、楽しいことも面白いことも素敵なこともいたるところに転がっていた。いまでも時おり、いてもたってもいられなくなるような時間が訪れる。悲しみであれ喜びであれ、僥倖だと感じる。訪れでしかあり得ない種類のエモーショナルな時間。天のもたらす祝福のような時間。「我らコンタクティ」にはそういう時間を過ごし続けているひとが描かれていて、それがなんだか、とても眩しい。漫画読み終えたころに彼女が帰宅、おみやげの肉まんとチーズタッカルビまんを食べ、彼女が寒い寒いと嘆くので、ホットカーペットへの接地面積が狭いからじゃない?横たわってご覧よ、暖かいよ、こうしたらもっと暖かいよ、と毛布をかけ、そのまま横に並び、そのまま意識を失う。起きて八時。いまは十時。仕事は何にも進んでいない。書きたかったことを唐突に思い出した。M1グランプリジャルジャル最高じゃなかったですか。