bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

歯痛

働いていたら、急に奥歯が痛みだした。あまりにも突然すぎたから、曜日も時間もはっきり覚えている。水曜の夕方、きっかり16時だった。疲れているのかな、と思った。疲労がたまり、体の免疫力が落ちるとあちこちに謎の痛みが出たりする。人体はそういうふうに出来ている。ここ数年で身をもって学んだ。まあでもきっと安静にしてれば消える類いの痛みだろう、なんてたかをくくっていたのだけれど痛みは消えず、それどころかゆっくりと強く大きくなってくる。ツバメの雛が育つように、ゆっくりと、しかし着実に。

痛みとともに一晩を過ごし、朝を待って歯医者に電話をする。とれた予約は数日後。それまで痛みをこらえながらの生活。仕事中、食事中、睡眠中。痛みには強弱もリズムもなかった。常にそこにあり、ただゆっくりと強さを増していく。不思議なことに、痛みは強くなりつつ鈍くもなる。鋭さがなくなり、痛みの輪郭がぼやけて、だんだんどの歯が痛いのかわからなくなってくる。指を口に入れ奥歯を触る。ひとつずつ、歯を押してみる。指先で叩いてみる。どの歯を刺激しても痛みに変化はない。変化はないが、鈍く重たい痛みがそこにある。何をしていても変わらない痛み。下顎を万力で少しずつ締め上げられるような、安定した痛み。こういうタイプの痛みはいままで味わったことがなかった。

 

週末。大学時代からの友人が結婚するというので、お祝いの飲み会。相変わらず歯は痛む。歌舞伎町の路地裏の中華料理屋。異国情緒あふれる怪しげな店でロキソニンをガリガリと齧りながら紹興酒をあおる。洋ドラに出てくるジャンキーの気分。何を話したのかあんまり覚えていないけれど、たしか生活の話をしていた。保険、仕事、家、子ども、介護。集まると自然とそういう話になる。我々もそういう年になったのだ。ほんとなあ、こんな年まできちんと生活し続けてるなんて、まだなんか信じられないよ。みんながんばったよな。立派に生き延びて、ちゃんと幸せに過ごしてるもんな。ちょっと気恥ずかしい感慨に耽りつつ、痛む下顎で蜘蛛とムカデの串揚げを噛み締める。ここはゲテモノ料理でも有名な店なのだ。結婚祝いの景気づけに注文してしまった節足動物からは、漢方薬の臭いと質の悪い油の味がした。

 

FUKAIプロデュース羽衣の「愛死に」を見た。性愛をテーマに、絶唱と激しいダンスで濃密な生を表現する「愛」のパートと、あれほど豊かだった愛がいつかすべて忘れさられ失われていく、その無常を表現する「死」のパートと。愛が濃密であればあるほど、死の物悲しさが引き立つ。もののあはれ、である。傑作だと思った。もののあはれを絶唱する姿を見ながら、一時、歯の痛みを忘れた。

 

わたしたちは皆、すべてを忘れ、すべてを失って死んでいく。それは圧倒的な事実である。だからわたしたちはいつも哀しみを抱えている。静謐で透きとおった哀しみ。

もしも事実に抗い、「愛は死んだって消えない、愛はいつまでも輝きつづける」と表明するならば、それは風車と戦うドン・キホーテの行いに等しい。なんてロマンティックで力強い戦いだろう。客観的にはどう考えても負け戦、それでも勝つことを一切疑わず戦い続けるその姿は、もう眩しくってたまらない。

哀しみと、眩しさと、そのどちらもが美しいと感じる。双方に惹きつけられ、その合間で揺れ動く。恋をし、恋を失い、年を重ね、変化するもの、変わらないもの、いつか失われるすべてと永遠になくならないすべて、そのいずれもがほんとうであると思いながら、毎日が進んでいく。いままでもそうだし、たぶんこれからもそうあり続ける。

 

相変わらず奥歯は痛む。奥歯の痛みは永遠だろうか。ちゃんと失われてくれるのだろうか。とにかく歯医者さんの奮闘に期待しよう。この戦いにはきちんと勝ってもらいたい。ドン・キホーテみたいな先生でないといいなあ。

 

高架

6月最初の日曜日。東京は朝から晴天。

 

職場のピクニックにいくという彼女を駅まで送る。夏のような強い日差し。背中が暑い。首すじの汗が雫になる。空気はからりとしているから、風がそよげば心地よい。こんな日に木かげでピクニックは楽しいだろうな。大荷物を抱えた彼女の背中が地下鉄の階段に消えていくのを見送る。家に帰り、窓を大きくあける。まだ朝といっていい時間だけれど、酒を飲むことにする。冷蔵庫から出してすぐの夏酒をコップで。冷えた芳香が喉を通過する。呼吸が少し熱を帯びる。最近はすぐに酔いがまわるようになった。きょうも一杯で心地が変動してしまう。これはやっぱあれなんだろな、年くったってことなんだろな。

 

昔の話をする。大学の、たぶん二年の終わりごろのことだったと思う。当時住んでいた、多摩ニュータウン小田急線の外れの線路沿いのアパートでの出来事だ。友達がどやどやと俺のアパートに遊びに来て、馬鹿みたいに飲んで、みんなベロベロになってワーワーやってたら、真夜中にひとりの女の子と男の子がケンカを始めて。まあそのふたりがつきあってたってのは後からわかるんだけど、そんときゃまだみんなそのことを知らなくて。ケンカの原因はなんだったかな、忘れてしまった、とにかくだんだんエスカレートして、いま思うとほんとそういうのよくないと思うんだけど、男のほうが女の子を理詰めで追い詰めて、泣かして、そしたら女の子がパッと家を飛び出してしまって。あ、ヤベえってみんなで探しに行って、夜中のニュータウンを探し回ったんだけど見つからず、携帯鳴らしても俺んちのテーブルの上でバイブするだけ、どうする警察連絡するか、いやそれも大げさすぎないか、そうこうしてるうちに夜も開けてきて、いよいよ警察か、ってなったときに玄関がガチャって開いてその子が帰ってきた。だいじょうぶ、どこにいたの、心配したよ、寒かったでしょ、あったかいお茶いれるからね、とりあえず入んな、って家に入れて、みんなでお茶飲んでたら、ぽつりぽつりと話し始めた。

ケンカして、ぜんぜん優しくないこと言われて、ほんともういいやってなって、死のうと思った。死のうとして外に出てぱっと顔上げたら線路の高架があったから、電車に轢かれようって思って斜面登って線路に入った。サンダルで斜面登んの超きつくて、かたっぽ脱げてどっかいっちゃって、片足裸足になった。でも死ぬからもういいって思った。そんで、とりあえず歩こう、電車来たらそのまま轢かれようって、終点の方に向かって歩いた。線路、めちゃくちゃ静かだった。照明も消えてて、月明かりでレールがぼんやり見えるだけ。終点の方、お店とかもないし、家の電気もみんな消えてるし、街灯がぽつんと見えるくらいで、ほんとに暗かった。でも怖いとかはなくて、電車こないなって、それだけ。

で、歩いてたら、あっ終電、ってなった。終電終わってるからたぶんこれ電車こないな、って。そしたらなんか面白くなっちゃって、ひとりでめっちゃ笑った。笑いながら歩いて、そのまま終点の駅までいって、誰もいないホームのベンチで少し座ってた。そしたらうっすら明るくなってきたから、駅員さんに見つかるとめんどいし、ホームの脇から道路に出て、また歩いて帰ってきた。

危な、終電終わっててよかったよ、貨物列車とかこない路線でよかった、死ななくてほんとによかった、とりあえずサンダル探しにいこう、ケンカのあれは後でふたりで話して仲直りせえよ、ってひとしきり喋って、それからみんなで無くしたサンダルを探しに行った。え、マジでここ登ったの!?みたいな、ほぼ藪の斜面をみんなで探した。あったー!って上の方からドロッドロのサンダルを掲げた彼女が降りてきて、みんな死ぬかと思うくらい笑った。そんでそのままデニーズ行って、モーニングでビール飲んで解散した。そういう思い出。

 

最近よくこのことを思い出す。思い出して、真夜中の高架の上をひとりで歩くってどんな感じなのだろう、と想像する。

音もなく、誰もおらず、ただ月と星と夜空とレールだけがある。レールは大きくカーブして丘の向こうに続いている。見渡すと多摩丘陵がぎゅうっと黒く、夜空の藍と対象的に映る。ほとんどの家の電気は消えて、斜面にそって四角と三角のシルエットだけが浮かんでいる。静謐のなか、どんなふうに歩いているだろう。月を見上げているだろうか。それともじっとレールを見つめているだろうか。何かを考えたり思い出したりするのだろうか。それともぜんぶ忘れて空っぽになって、諦念を全身にまといながらただレールにそって歩くのだろうか。

ケンカしてカッとなって死のうとして、って全然いい話じゃないんだけれど、そのシチュエーションだけは、なんだかとても美しく思えてしまうのだ。

 

そんなことを考えながら飲んでいたら、いつのまにか潰れていた。起きたらもう夜だった。ピクニック帰りの彼女を駅まで自転車で迎えに行き、自転車を押しながら二人で歩いた。朝から潰れるまで飲むと休日も潰れるということがわかったよ、と言ったら、上手いこと言ったっぽいけどそれ別に上手くないからね、と言われた。少し肌寒い、月のきれいな夜だった。

木ノ下歌舞伎「東海道四谷怪談」

土曜。はじめての木ノ下歌舞伎。鶴屋南北、「東海道四谷怪談」通し。あうるすぽっと。

 

6時間は長いよな、途中寝ちゃったりすんじゃないか、寝ちゃって尻の肉が取れる夢など見てしまうんじゃないか、そんなことを思いながら劇場へ向かう。結果はと言うと、まったく寝なかった。6時間ずーっと面白かった。自分の集中力があんなに続くとは思ってもみなかった。尻は痛かった。眠っていたら肉が千切れる夢くらいは見ただろう、というくらいには痛かった。あと膝。6時間ずーっと同じ角度で曲げっぱなしだった、膝。

 

恥ずかしながら「東海道四谷怪談」がどんなお話かをきちんと知らずに生きてきたようなタイプの人間なので、今回の作品の新しさがどこにあるのか、みたいなことはたぶん全くわかっていないのだろうと思う。でも面白かった。現代劇みてるのと同じような感覚で面白いと思えた。口語体と文語体が入り交じるセリフ。現代劇の所作と歌舞伎の所作が入り交じる身体の使い方。歌舞伎のことを何もわかっていない自分がこんなことを言うのは気が引けるけれど、歌舞伎のかっこよい部分(見栄とか殺陣とか)をバッチリ残しつつ、情感的なドラマ部分は解説無しでわかるよう口語体で現代劇的に、という印象を受けた。

 

四谷怪談は怪談話ではなかった。忠臣蔵のスピンオフのような形態で、「お家が大事」という物凄くデカくて重い社会規範を内面化してしまった人びとが規範と思慕の情のあいだで引き裂かれていく、そういう悲劇だった。役者さんはみんな達者だったのだけど、伊右衛門を演じた亀島一徳さんは特に良かった。マザコンで、チンピラで、主君の病気を治すため高価な薬を盗んで逃げた小者をニヤニヤ笑いながらリンチする、まるで綾瀬のコンクリ殺人事件の犯人たちのようなド屑なのだけれど、何か憎めない可愛げとイイやつ感がある。いわゆる「本当はいい子なんです」というやつだ。いや、たぶん伊右衛門だって辛いのだよ。本当なら偉いサムライだったのに、主君お取り潰しで無職だし。お金はないけど、仲間や後輩の手前、イキり続けないといけないし。そんなんだからいっつも借金取りに追われて、家宝の薬まで取り上げられる始末だし。舅を殺してまで手に入れた最愛の妻・岩は仇討ちばっか急かしてきて自分を愛している素振りはないし。おまけにどうやら岩は死病を病んでるし。そんなところに金持ちの娘から惚れられて、死にかけの女房なんて捨てて婿になってよ、婿になってくれたら借金もチャラだし出世もさせるし生涯安泰ですよ…なんて誘われたら、そりゃ迷うっしょ、いくら惚れたオンナだっても迷うっしょ、迷った末にお岩を追い出す決断したってしゃーないっしょ、確かにその結果としてお岩は死んじゃったけど、ありゃ事故だし、そもそも顔がバケモノみたいになる薬飲ませたのは俺じゃないし、そもそも俺は薬のこと知らなかったし、ああもうなんでこんなことになんだよ!なんで思い通りにいかねーんだよ!なんとなくヌルくハッピーになれればそれでオッケーなのによ、なんで面倒くせえことばっか起こんだよ!ああ!あああ!クラスでいちばん脚はえーの俺なのによ!ああ!

 

いつのまにか伊右衛門に成りきって吠えてしまっていた。こう活字にしてしまうと完全なるド屑でこいつのどこに魅力が…?ってなるのだけれど、舞台で亀島さん演ずる伊右衛門を見ていると、憎めなくなってしまう。たぶん伊右衛門は、自分が頑張らなくていい範囲、自分がコストを負担しなくていい範囲であれば、優しくて気立てのいい男なのだ。お岩のことだって本当に好きだったのだ。ただ、ちょっと負荷がかかるとすぐに全部が面倒になってしまい、易きに流れてしまうのだ。俺はどうも、この手のクズを切断処理して憎むことが出来ない。自分もこういうとこあるしな、というのももちろんある。でもそれ以上に、こういう弱さというのは人間の根源的な弱さなのではないか、と思ってしまう。程度の差はあれ、「辛いことから逃げ出したい」という弱さは万民が共有するものであり、遠藤周作が「沈黙」で描きたかったもの、即ちイエスが共に背負ってくださる罪と本質的に同じなのではないかと思うのだ。

 

亀島さんの演技を見ていると、伊右衛門というキャラクターが「稀代の大悪党」ではなく「流されやすくて愉快で気のいい甘ったれのチンピラ」に見える。簡単に言えば、子どもなのだ。子どもだから、色んなことが自分に都合よく進めばいいとばかり考えるし、子どもだから、あれだけ酷いことをしたお岩と星の下で出会い直すような都合の良い甘い夢も見る。子どもだから、大人の論理にはムキになって反抗する。ラスト、伊右衛門を斬りにくる与茂七(この人もまた仇討ちのために女房死なせたり色々あるのだ…)との立ち回りの格好良さよ。あれは子どもの格好良さだ。クラスでいちばん脚の速い男子の格好良さであり、アメリカン・ニューシネマの格好良さだ。「明日に向かって撃て」の、「イージーライダー」の格好良さだ。根拠なき自信と、思想なき反体制と。ああ、あの立ち回り、ほんとカッコ良かった。斬られて倒れた伊右衛門、死んでるのにお腹めちゃくちゃ上下してたなあ。あんだけ動いた後に死ぬの、大変だったろうなあ。

 

劇場に入ったときはお昼だったのに、出たらすっかり夜になっていた。副都心線東新宿ロイホに移動し、佐藤錦のパフェを食べながらお芝居の話なんかをした。それからいつものお店でいつもの人たちとお酒を飲んだ。愛をお金で測るべきではない、しかしお金で表現できる愛もある、そういう話が同じところを何度も回転し、渦を巻いて洗濯機のようになっていた。あのペースで朝まで回転していたら虎だってバターになってしまう。閉店が早めでちょうど良かった。二軒目ではなんの話をしたのかな。あんまり覚えていない。でもなんとなく幸せな感じだった。概ね幸せな夜だった。

土曜の朝、覚醒前の頭で

寝て起きたらなんとなくそういう気持ちだったのでこれを書いている。

 

文章を書くときには二つのパターンがある。書きたいことがあって書くときと、ただなんとなく書くときと。

難しいのは前者のほうだ。書きたいことがあるときに書きたいことを書くのはほんとうに難しい。書いても書いても、違うこういうことじゃない、自分が書きたかったこととはなんか違う、という感触がぬぐえない。磨りガラス越しに写実画を描こうとしてるような感じになる。そもそも「書きたいこと」が漠然としているからこんなことになるんだと思う。でも、「書きたいこと」が明確ならばそもそも書きたくもならない。自分の中ですっきりと言語化されてしまっていることにはあまり興味が持てない。やはり、なんかぼんやりとではあるが書きたいことがあるぞ、という状態からスタートして、言葉を探しながら徐々に輪郭線を確定していく、という工程が好きなのだと思う。上手く書けたな、と思えることはあんまりないのだけれど。

でも書きたいことがあって書くパターンはそんなに多くない。特に書きたいこともなく、ただなんとなく書き出してみることのほうが圧倒的に多い。好みに合うのもこっちだ。何しろ気楽でいい。頭をあまり働かせず、指のリズムにまかせてスススッと親指を滑らせる。そうするといつのまにか文章が出来上がっている。

ここが文章を書く面白さだと思うのだけれど、そんなふうにして特に何も考えずに書いた文章にも、意味は宿ってしまう。本当になんの意味も持たない文章を書く、というのは恐らく不可能なのだと思う。言葉が意味やイメージを表すものである以上、どうやったって意味やイメージは宿ってしまう。だから発見がある。自分で書いた文章を読んで、他人が書いたものを読んでいるような気持ちになる。しかしそこかしこに確かに自分の残滓がある。自分が書いたものを読みながら、自分が書きたかったことを発見する。毒にも薬にもならんなあ、くらいの心持ちで書いた文章から、強めの炭酸くらいの刺激を受けたりする。強めの炭酸は毒だろうか。薬だろうか。

 

「毒にも薬にもならぬ」って言葉を打ち込みながら、視界に入るものたちについて、これは毒なのか薬なのか、みたいなことを考えていた。部屋のサイズに比してやや大きすぎるテーブルは毒か薬か。飲みかけのゼロコーラのペットボトルは毒か薬か。青い表紙の読みかけの漫画は、残り四枚になった八枚切りの食パンは、はたして毒か薬かどちらだろうか。たぶん世の中のもののほとんどは毒にも薬にもならぬものなのだと思う。毒と、薬と、毒でも薬でもないものとで三国志をやったら、たぶん最終的には毒でも薬でもないものが天下をとる。もちろん統一にいたる過程にはいろんな紆余曲折があると思う。追い詰められた毒と薬が同盟を組んだりする。毒薬同盟。ダンプ松本が出てきそう。毒薬とは毒なのか薬なのか。もしかして毒でもあり薬でもあるものなのか。なんだろう、何がと言われるとわからんけれど、なんかズルくないか、それ。

 

武蔵野館で「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を見た。丁寧で誠実な映画だった。いい作品だと思ったけれど、僕のための映画ではなかった。ケイシー・アフレックのこの悲しみはちょっときれいすぎるな、と思った。人間って、そんなにいつまでも純粋な悲しみを保ち続けられるものだろうか。悲しくて悲しくてたまらない、死ぬまでずっとこの悲しみが消えることはない。そんなふうに思っても、私たちのほとんどは、悲しみに殉ずることが出来ない。忘れてしまうし、癒やされてしまう。悲しみは、消えることはなくとも、薄れていく。時間とともに質感は変質していく。愛する人を喪ったあと、悲しみを抱えながら、それでもひとは飯を食う。眠れなかった夜が、いつしか眠るための夜になる。旅行にだって行くだろう。恋にだって落ちるかもしれない。それは救いでもあり、残酷さでもある。悲しみを抱えた人が出家するのは、あれは悲しみを失いたくないからなのだと思う。悲しみの状態に自分を固定しておきたいのだと思う。そうでないと、癒やされていってしまうから。それが恐ろしくてたまらないから。

俺はケイシー・アフレックが楽しむところを見たかった。娘を死に追いやった自分がいま生活を楽しんでしまっている、そのことに苦しむ姿が見たかった。その上で、どう向き合うのかを見たかった。乗り越えて先へ進むことを選ぶのか、罪悪感と悲しみに殉ずることを選ぶのか。

 

久しぶりに天気がいい。これから洗濯機を回し、たぶん少しだけ二度寝して、それから長尺のお芝居を見に行く。たっぷり六時間。腰痛が炸裂しないといいのだけれど。

雑記

今週の平日が終わった。相変わらず忙しい。ちょっとずつ忙しいのに慣れてきた。鈍感になってきた。細かいことを考えたり、風景を面白く感じたり、そういう場面が少なくなってきた。良く言えば仕事に集中できている、ということだし、悪く言えば人生の楽しみを失っている、ということになる。嫌すぎる。仕事に集中なんてしたくない。仕事のギアは常にローに入れときたい。生産性はできるだけ低くしたい。ひとに怒られないくらいの最低限の仕事だけをして、あとは調べものと見せかけてWikipediaで関東の私鉄の歴史を学んだり、Excelで資料を作成してると見せかけて超人強度100万パワーのウォーズマンが1200万パワーの光の矢になるために用いた計算式を関数で打ち込んだりして過ごしたい。いかにも会社ーッて感じのオフィスで机に座ってスーツ着て仕事をしてる自分がいる、そのことのおかしさに急に気づいてひとり肩を震わせて笑ったりしたい。ほんでまあ特に出世もしないがクビにもならず、役にはたたんがなんとなく憎めないオッサンとして末永く余生を過ごしたい。そう、余生でいいのだ。職場の俺は余生でいい。昼間のパパはちょっと違う。昼間のパパは余生だぜ。

 

なんの脈絡もなくドキュメント72時間について希望を述べるのだけれど、頼むから欲を出さないでほしい、と思う。何かしらの「特別な瞬間」を撮影しよう、などと考えないでほしい。ドキュメント72時間は、ニュース番組のアンチテーゼなのだと思っている。特別なことではなく、普通のことをお知らせするニュース番組。こんなに悪いことが起こりました、こんなにおめでたいことがありました、それはそれで大切だけれど、そればかり見ていると感覚が狂ってしまう。普通の人がいます、普通の人が沢山います、特別なことはないけれど、毎日それなりに嬉しかったり悲しかったり何かを考えたり思い出したりしながら暮らしています。そういうことを、頭ではなく、感覚として理解する。多様な普通が無数に存在するということ、それこそが普通であるということを体感する。そういう光景を美しいと感じることもあるけれど、それはたぶん副次的に得られるオマケみたいなもので、最初からそれを狙っていくのは違うのだと思う。

 

tofubeatsの曲が頭の中でループし続けている。ドキドキはいま以上、baby、君だけを見て、君だけを見て、導かれる、導かれる、ナナナナ。いい曲だ。ぼんやりとして、うわっついて、穏やかで。ドキドキはいま以上、君だけを見て、導かれる、導かれる。珍しいハンミョウを見つけたときのファーブルみたいでもある。ハンミョウは別名をミチオシエといい、観察者のちょっと先を道案内するように飛ぶ習性があるのだ。子どもの頃に読んだファーブル昆虫記にたしかそう書いてあった。ファーブルは昆虫記で、シートンは動物記で、植物記とか魚類記とかは特に誰も書いてはいなかったように記憶している。なぜだろう。観察して記録する種類のひとはもっとたくさんいたはずだと思うのだけれど、みんな何をしていたのだろうか。本はあれども書名がフォーマットに沿っていない、それが問題なのかも知れない。だとすれば、例えば「解体新書」は「杉田玄白人体記」であるべきだし、「日本全図」は「伊能忠敬海岸線記」であるべきだ。べきなのかな。どうだろ。どうなんだろ。なんかよくわかんねえな。

 

夢を見た。PPAPよりも以前からアップルとパイナップルをモチーフにした作品を撮り続けている老いたフォトグラファーについての夢だった。何らかの映画の舞台挨拶か、アートフェスのオープニングの特別対談か、そんな感じの舞台だった。なぜアップルとパイナップルなのか、ですか、そうですね、最初はやはり語呂合わせです。語呂合わせが初めにあって、並べてみたら、色や大きさの対比が面白いと思った。それが一番最初です。そうして写真を撮り始めて、あるところで気がついたんです。この2つの果実は、わたしの心の形そのものなのだと。小さく引き締まって緊張感のある、ツヤツヤとした赤い塊。それから必要以上に大きくあろうとする、刺々しくだらしなく濁った黄色い塊。2つの塊が、左胸と右胸、ここにひとつずつあるんです。ですからこれらの写真はすべて、果物でありつつ、セルフポートレートでもあるわけです。この作品はですね、スライスした食パンに、こちらもスライスしたアップルとスライスしたパイナップルを載せたものです。パン・アップル・パイナップルです。こちらの写真の、この銀色の玉はですね、丸のままのアップルに、アップルが見えなくなるまで針を刺していったものです。アップルに痛みを与えたかったんです。ペイン・アップル・パイナップルですね。こっちはですね、見ただけではわかりませんが、アップルの中をくり抜いて、豚肉を詰めています。ピーマンの肉詰めのような状態です。つまりポーク・イン・アップル・パイナップルですね。老写真家の独白は延々と続く。大真面目に解説し最後はダジャレで落とす、この芸風はケーシー高峰と同じではないか。夢の中の僕はその発見に興奮し、それを共有してくれる相手を探していた。残念ながら夢の中では誰にも伝えられなかったので、ここにひっそりと書いておくことにする。

 

 

 

ムーンライト

仕事をしていても、街を歩いていても、気がつけばムーンライトのことを考えている。

考えている、というのは正確ではない。何かを考えているわけではない。わからないことは何もない。少なくとも、自分がわかっていたいことはすべてわかっていると思う。

ただ浸っている。あの美しい世界のことを思い、目を閉じ、あの色彩の中に耽溺している。世界を覆う蒼い光。物憂げで哀しくて思慮深い、あの瞳の色。尖らせた口元に漂う、あの寂しさ。いまにも壊れてしまいそうな透き通ったピュアネスを、どこまでも柔らかく、優しく包みこむ、あの夜の海の色。あのブルーの中をいつまでも漂っている。ゆらゆらとどこまでも沈んでいくように、息をすることも忘れて。

 

昼間、内田樹村上春樹を評した文章を読んだ。「羊をめぐる冒険」について、チャンドラーの「ロング・グッドバイ」やフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」なんかと同じ、通過儀礼としてのイノセントの喪失を描いた物語だ、と語っていた。我々の社会からは大人になるための通過儀礼が失われているから、「羊をめぐる冒険」のような構造を持った物語は生まれにくくなっている。そんなことが書いてあった。 

イノセントの喪失。それはいったいどういうことなのだろう。僕にはよくわからない。通過儀礼を経て失われてしまうもの、それをイノセントと呼ぶのだとして、僕にはどうも、そのイノセントこそ僕そのものなのではないかという気がしてならないのだ。通過儀礼を経て、何かを失って大人になって、そうしてそこに残った僕は、はたして本当に僕なのだろうか?イノセントを失った僕は、あの蒼い光の中に立つことができるだろうか?

 

通過儀礼とはなんだろう?「強くなければ生きられない」が真であるとして、「強い」とはどういうことだろう?映画の中、シャロンは強くなった。筋骨隆々のギャングの顔役になった。男は強くなければ生きられない、まさに「ロング・グッドバイ」だ。では、強くなったシャロンはイノセントを喪失しているだろうか?シャロンは本当に「強く」なったのか、そもそも「強くなければ生きられない」とは本当なのだろうか?

イノセント。純粋さ。繊細な感受性。美しいものやほんとうのこと以外を受けつけない、強情なまでの潔癖さ。いつも擦りむいた傷口をむき出しにしているような、傷つきやすいナイーヴな心。成長するにつれ、あるものはそれを克服し、またあるものはそれを喪失する。しかし、それを抱え続けざるを得ないようなタイプの人間もいる。それこそが自分自身だと思ってしまうような人間。それを覆い隠すことはできても、それを失って生きていくということを想像することもできないようなタイプの人間。わたしや、あなたや、シャロンのような。

 

眼を閉じる。波間に浮かぶ身体を思う。支えられているのを感じる。声を聴く。強く優しい声が、自分が地球の中心にいるのを感じろ、と語りかけてくる。波が身体を優しく揺さぶる。包まれている。海と、夜と、月の蒼い光。どこかにケヴィンがいる。この世界のどこかに、わたしにとってのケヴィンがいる。いちばんきれいで、とても壊れやすいものを分かちあえる相手。波間に浮かぶわたしを見つめたまま、わたしはゆっくり上昇していく。世界の美しさを思う。どこまでも優しい世界。哀しみと愛がすべてをブルーに包みこむ。蒼く染まるわたしを見ながら、そういうふうにできているのだ、と肌で感じる。

 

眼を開ける。頬をつたう涙をぬぐう。ゆっくりと首をまわし、眼にうつるものを眺める。いつもと変わらない景色が、蒼く染められているのを感じる。いままでもそうだったし、これからもそのようにあり続ける。月がすべてを照らす限りは。

 

 

 

 

 

一週間の備忘録

ここ一週間の備忘録を簡単に。

 

ネットフリックスで火花を一気に見た。泣いた。理想化された笑い飯と千鳥であり、理想化された大悟と又吉だった。好きなことしかやりたくないと思いながら好きじゃないことをやってる人間は、好きなことしかできない人間のことが眩しくて仕方がない。

 

デリバリーお姉さんNeoの第三話が素晴らしかった。正直、第一話をみているときは気恥ずかしさが勝ってしまったのだけれど、今回はエモさが勝った。夜のプールの亀島さんのシーンの力強さよ。やっぱ亀島さん好きだなー。木ノ下歌舞伎も楽しみだ。

 

東博の「茶の湯」展がヤバかった。とにかく物量がすごくて、三時間では時間が足りなかった。唐物より、利休以降の和物がほんとすごかった。利休、織部、遠州、仁清。俺がほしいものを俺が作るのだ、俺が美しいと思うものこそこの世で最も美しいのだ、の精神をビシビシ感じる器の数々。春風亭昇太の音声ガイド以外は最高だった。見終えて虎ノ門に移動して食べたナンディニのミールスがめっちゃ美味しかった。狂ったボリュームだったので食べきれなかったのが心残りである。器にもインド料理にも物量で押しつぶされた。大国と戦う小国の気持ちである。

 

映画「ムーンライト」をようやく見た。本当に美しい映画だった。月の光に照らされた黒い肌。艶めかしく光る蒼いブロンズ。悲しみと愛をたたえた瞳。いまにも壊れてしまいそうな、繊細で、儚げで、しかし決して消えることのない、愛。忘れられないシーンがいくつもあり、ひとつひとつを思い出すと涙ぐんでしまう。

 

あとはキングちゃんみてゲラゲラ笑ったり一時間半ならんでラーメン食べたり休日出勤したり。そんな感じの一週間。