bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

ロロ いつ高シリーズ「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」

先週の日曜日のこと。

 

こまばアゴラにロロの「いつ高」を見に行く。旧作3つと新作1つの一挙上演。1作目はyoutubeで、3作目は劇場で鑑賞済み。なので今回は2作目の「校舎、ナイトクルージング」と新作の「いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した」を鑑賞。

 

どちらも最高に良かった。キャラクターも「いつ高」の世界も本当に大好きで大好きでたまらない。

 

「いつ高」シリーズを好きなのは、たぶん、世界の広さや豊かさを目に見える形で顕現させてくれるから、なんじゃないかと思っている。

 

舞台の外側を感じさせる、というのはもちろんなのだけれど、それだけではなくて、「いつ高」ではいっしょにはならないはずのものがいっしょになって重なって現れるのだ。

 

「別々の空間や時間をつなげる」と言ってしまうと冷えて固まった言葉な感じでしっくりこないのだけれど、「いつ高」ではそれがとても自然に、最高にチャーミングに行われる。

 

校庭を走る太郎は、窓際の白子に見つめられている。白子はストリートビューの中で太郎に同じ距離を走らせる。太郎はストリートビューの中で、本人も知らぬうちに、傷心旅行中の元カノと出会う。

おばけちゃんの語る10年前のクラスメイトの「楠木くん」は、将門の語るいまのクラスメイトの「楠木くん」とぴたりと重なる(逆)おとめの録音する昼休みのざわめきは夜と昼の教室を重ね合わせる。

 

登場人物たちは、そういうことが起こることに疑問や違和感を抱かない。起こった物事を、ものすごく素直に受け入れる。「この世界ではどんなことでも起こるのだ」ということが常識になっている。

 

「いちごオレ」にはいいシーンがたくさんあったのだけれど、いちばん好きなのは「じゃあ、群青くんにどんな一面があったら好きになる?」ってセリフだ。(一言一句は覚えていないけれど、こんなような言葉だったと思う。)

 

これ聴いたとき、ほんとにシビれた。

空間を重ね、時間を重ね、ついに「もしも」まで重ねてきた。「もしも」は現実ではないけれど、世界とは可能世界の総体であるから、「もしも」だって当然に世界の一部である。

いまここで起きていることに、空間と、時間と、想像を重ねる。広くて豊かな世界の、その広さや豊かさを、舞台のうえに凝縮して顕現させる。そんなものすごいことをやりながら、舞台の上にはどこまでもキュートで切ない世界が広がっている。

 

ああ、書き切れてる感じが全然しない。自分の筆力のなさが恨めしい。でもそうだよな、説明文にしたんじゃつまらないから物語を作るのだものな。自分には書き切れないようなものだから、好きなんだよな。

 

明日はパルテノン多摩でロロ×EMC。いわきの生徒さん達も一緒ということで、「魔法」のダンスがもう一度見れるのか、と期待している。去年から今年にかけて、そこそこ演劇を見ているのだけれど、あの「魔法」を超えるものにはまだ出会っていない。

あれはそれくらい良かった。

 

ああ、楽しみだな。

二月の最後の週のこと

眠たい目をこすりながら書く日記。

 

書こうと思っていたことをずいぶん溜めこんでしまった。先週のことから。小沢健二の「流動体について」の発売日、仕事を終えて新宿のタワレコへ向かう。渋谷のHMVまで行こうかなとも考えたけれど、自分が一番通ったレコ屋はやはり新宿のタワレコなので、そうすることにした。到着したら、なんと休み。入ってるビルごと休み。Flagsよ、こんな大事な日に何やってんだ。しゃーない新宿にもHMVあったよな、タカシマヤだったかな…と調べるといまはルミネの中にあるのね。行ってみると、なんだこれ、狭い。ちょっと驚くほどに狭い。売場面積、ひとり暮らしにはゆとりのあるワンルームくらいか。CDが売れない時代なんだなあ。それでもお客さんはそこそこいて、レジに並ぶ半数は「流動体について」を買っている。なんだか嬉しい。買って帰宅して早速聴く、涙ぐむ、感情が膨れ上がって胸につかえる、どうしても感情を吐き出したい、言葉にしたい、けれど言葉にならない、ほんで四日くらい悪戦苦闘して書いたのがこれです。読んでくれた方、ありがとうございました。

 

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土曜。いよいよJリーグが開幕。我がベガルタ仙台は札幌に快勝。大卒ルーキー永戸大活躍。ルーキーの活躍ほど胸がときめくことはない。しかし今季からJリーグを独占配信することになったDAZNがすこぶる駄目。うちの機械のスペックのせいなのだろうか、パソコンは動きがカクカク、スマホをテレビにキャストすると尋常じゃない画素の荒さ。早くなんとかしてほしい。夜は恋人と「ラ・ラ・ランド」を見る。

 

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しかしこのタイトル、カタカナで「ラ・ラ・ランド」だと意味ないんじゃないか。「LA LA LAND」とは、ロサンゼルスのLAであり、英語で「夢見心地」の意のLALALAND(ってパンフに書いてた)なわけで、アルファベットのままのがよかったのではないのか。そこんとこどうなんだ。映画のあとは新宿でお酒飲んでダラダラと。バレエダンサーの身体操作能力のヤバさについて学んだ。すげーなあれ。

 

日曜は芸術劇場で「なむはむだはむ」。子供が考えたお話を、ハイバイの岩井秀人森山未來前野健太が表現する。いやー面白かった。森山未來の身体操作、岩井秀人のアドリブ力と言葉の力、前野健太の歌声と可愛げ。
舞台の作りも面白かった。通常の客席に加え、舞台の奥側にも客席を作ってある。向かい合う客席に挟まれたスペースでお芝居をする。舞台奥側の客席にいたのだけれど、明らかに見たことのない光景が広がっていて、それだけでももうアガった。

去年から演劇を頻繁に見るようになって、演劇とは感想の書きにくいものであるなあ、と感じている。なんて言えばいいのかなあ、僕が演劇をみてグッと来ているとき、何にグッと来ているのかといえば、多くは「新しさ」なのだ。自分の世界には存在しなかったもの、自分の理解の範疇を越えたもの、まだ見たことのない世界が眼前に現れ、そして消えてしまうこと、僕にとっての演劇の面白さとはこれなのだ。なのでよい演劇を見たときの感想はいつも「すげー良かったのだけれど何が良かったのかと訊かれるとうまく言葉にできない」になってしまう。探すと言語化するメソッドがありそうな気もする。でも言語化できない今の状態を割と気に入ってもいるので、まあいいか、とも思っている。なのでたぶん、しばらくこのまま。

 

観劇後、池袋の「千登里」で飲む。肉豆腐、ねぎぬた、青菜とあぶらげ煮びたし、やきとん、もう一度ねぎぬた。しみじみと美味い。隣のテーブルでは久々に顔を合わせたらしいご老体お二人がいまの自民党についてやいのやいのとやっている。あまりにも床屋政談らしい床屋政談で嬉しくなってしまう。いい店だったし、いい夜だった。

 

今週は何をしていたかな。「カルテット」の時間軸うんぬん、の話はただの凡ミスだったとのことで一安心。あんな繊細で豊かなドラマ、叙述トリック見破るような態度で鑑賞するのはもったいないよな、と思っていた。とか言いつつ録画見返したりしたけれど。
7話、「旧姓」「巻き戻った」のシークエンスの後、別荘の二階から顔を出すもたいまさこのシーン、すごく良かった。「巻き戻り」がテーマの話だったけれど、恋が始まって終わることは、恋がなかったことと同じではない。豊かな時間が、経験が、思い出が残る。恋をする前の自分と恋が終わった後の自分は同じではない。あの二階のもたいまさこ、恋をしなければ知り合うことのなかった存在、彼女にはそういうことが託されていた。暖炉で真紀さんが詩集を燃やすシーンもよかったなー。真紀さんがたまに見せる激しさ、背筋が寒くなってとてもよい。夫婦のシーンにおけるクドカンに対する共感性のなさもヤバかった。優しいし愛情もある、でも慮りがない、一方向的な愛情。ちょっとサイコパスっぽさを感じる。クドカンの前の夫を殺してる、とかそういう展開があっても驚かない。
ところでもたいまさこクドカンが出会わなかったことには何か意味があるんだろうか。

 

あとは何だろう。甘味をよく食べた。伊勢丹のマパテでブロンディールのケーキをどさどさと買い込んでみたり、赤坂のデリーモでケーキをわしゃわしゃと買い込んでみたり。ケーキはがっつり甘いのがいいか甘さ控えめがいいかで恋人と争ったりした。僕はがっつり甘い派です。ケーキ食ってんなって感じのケーキが好き。ハーゲンダッツの柔もちはまだ食べていない。もしかしたら食べないかもしれない、くらいの思い入れ。あれは超高級な雪見だいふくってことでいいのかな。雪見だいふく食べたいな。あ、それよりあれだ、美味しい和菓子屋さんの苺大福を食べたいな。

 

仕事の本を買おうと紀伊国屋に行って、ぜんぜん関係ないやつを買い込んで終わる、みたいなやつもやった。
「エスパー麻美」の新装版の装丁が可愛すぎるのが悪い。いやエスパー麻美は悪くない。ビジネス書の装丁が可愛くないのが悪いのだ。表紙だけエスパー麻美で中身はビジネス書、みたいな本があればいい。とにかく久しぶりに読むエスパー麻美は最高だった。高畑くんいいやつすぎ。9巻まで出るらしいので買い集めようと思う。もう立ち消えになったものと諦めていた「大阪ハムレット」の5巻が発売されていたのも最高だった。帰宅して読んで、あまりに良くて1巻から読み直してしまった。以前はナビィちゃんの話が一番好きだったけれど、いまはバレエの先生の話が好きだ。河内音頭にあわせてキトリを踊るエリカちゃんに感涙。ダンスを見ると泣く、みたいな回路が繋がってしまっているのだろうか。まあ何でもいいや、いいものはいいし泣けるものは泣けるのだ。

 

会社からの帰り道、山桜が満開を迎えているのを見つける。夕暮れ時の紫色の光に、萌木色の葉と桃色の花弁が艶めかしく照らされている。そういえばだいぶ日が長くなった。またひとつ季節が巡ろうとしている。冬が終わる。春になる。

 

 

「ラ・ラ・ランド」

「ラ・ラ・ランド」感想文。

土曜の夜。新宿TOHO。IMAX

 

オープニング。LA名物、ハイウェイの大渋滞。イライラする人々。脳裏に「フォーリングダウン」が浮かび、ブチ切れたオッサンが銃を乱射したりはしまいかと心配になる。しかし実際にスクリーンで繰り広げられるのは、ロングショットで映し出される群衆たちのダ・ダ・ダンス。これでもう心臓をぎゅっとつかまれてしまう。
僕は昔からたくさんの人たちが楽しそうに踊っている映像に弱いのだ。恋するフォーチュンクッキーのPVで涙ぐんでしまうくらい。

 

ミア・ストーンとルームメイトたちの華やかなダンス。迸る色彩。天下無敵のガールズ・パワー。心臓を掴む手に力がこもる。僕は昔から女性たちが集まった時に醸し出される無敵感に弱いのだ。20年前からずっとゴーバンズの「無敵のビーナス」を愛聴しているくらい。

 

ラストシーン。あり得たかもしれない並行世界についての美しい夢想。しかしそれは現状の否定を意味しない。
自分が選んだ現実を愛しつつ、選ばなかった可能性に思いを馳せる。もし、もう一度あの選択をやり直せるとしたら?と問われても、彼らは同じ道を選ぶだろう。同じ道を選び、同じほろ苦さを味わうのだろう。
もう心臓はぎゅうっと握りつぶされている。僕はこの手の「選ばれなかった選択肢に想いを馳せ、もう一度やり直せるとしたら?と自問自答し、やっぱりこの選択しか自分にはあり得なかったことを確認する」ようなシーンが本当に本当に大好きなのだ。小沢健二の「流動体について」やケヴィン・スミス監督の映画「チェイシング・エイミー」にも共通する選ばなかった/選び得なかった平行世界についてのモチーフ。

 

そういえば、「ラ・ラ・ランド」と「流動体について」のモチーフかぶりが話題になっている。共時性を見出すことに意味があるとすれば、どちらの平行世界も「自ら能動的に選択した結果、切り捨てた世界」であるという点だと思う。「ラ・ラ・ランド」の元ネタの一つである「シェルブールの雨傘」も「もしあの戦争がなかったら…あなたと結婚していたら…」みたいな平行世界を想起させるお話だった。けれどそれは戦争や世間や家族といった「悲劇的な運命」によって、やむをやまれずそうするしかなかったことの結果だった。そこに漂うムードは「運命に翻弄される悲しみ」だった。「ラ・ラ・ランド」や「流動体について」の平行世界は自ら選びとった結果なので、そこには後悔がない。ほろ苦い味わいはあるが、悲劇的ではない。そこについてはとても現代的なことであるなあ、と思う。

 

あと「君の名は」も同じ共時性で語られることがあるけれど、あれは違うよね。あれは平行世界の話ではなく「BTTF」や「時かけ」みたいな「タイムスリップによる歴史改変」だよね。「君の名は」に新しさがあるとしたら、それは「タイムパラドックスによるしっぺ返しがない」ってとこだと思う。ドラえもんからこちら、歴史改変とタイムパラドックスはセットになっていたと思うのだけれど、「君の名は」にはそれがなかった。やっぱ震災なのかな。震災が悲惨すぎたから、「運命は黙って受け入れるしかないのだ…」みたいな捉え方はできなかった、ってことなのかな。

 

「ラ・ラ・ランド」は僕の好物がてんこ盛りのすごく好きな映画でした。ストーリーにはちょっとご都合主義っぽ過ぎるところもあると思うけれど、そういう粗が気にならないくらい好きなところが好きすぎるタイプの映画。もう一度見たい。ダンスシーンだけ何度も何度も繰り返し見たい。部屋でひとりでサントラ聴きながら踊りたい。あー、映画館でサントラ売切れてたんだよなー。タワレコいったら売ってるかなー。

小沢健二「流動体について」

三寒四温の意味を肌で知るような一週間。

 

今週は毎日泣いていた。別に頭がおかしくなっているわけではない。「流動体について」を毎日聴いているからだ。何度聴いても、そのたびに信じられないような気持ちになる。熱いものがこみ上げてくる。どうしてもこの感動を言葉にしておきたいので、書いてみることにする。少し長くなるけれど。

 

フリッパーズ・ギターは、「この世界にはたった一つだけ本当のことがある、それは『本当のことなんて何一つ無いんだ』ってことだよ」と笑いながら宣言するアンファンテリブルだった。彼らは本当のこと、わかり合うこと、絶対、永遠、真実、皆が信じていたそういう「大きな物語」全てを否定して、最高にカッコよく最高にパンクなやり方でポストモダンを体現してみせた。この世界には根拠なんてない、僕らの人生に意味なんてない。そう宣言して、砂漠のような廃墟の中で戯れ、戯れることで空虚さから逃げ続けた。

 

世界はこんなに空っぽなんだぜ、僕たちの人生は完全に無価値なんだぜ。それは真実ではあるけれど、そんなことを考えながら生き続けていくのは、辛いことだ。生きるに値しない人生。とても素敵ではあるけれど、暇つぶしでしかない人生。それに耐えられる人間はそう多くはない。

(余談だけど小山田圭吾は耐えられる側の人間だと思う。あの人はたぶん何やってても人生楽しいタイプ。ピエール瀧やオードリーの春日と同じ、生きる才能がある人だと思う。)

 

フリッパーズのラストアルバム「ヘッド博士の世界塔」を聴けばすぐ、すべての曲が濃密で甘い死の香りに満ちていることに気が付くだろう。気だるいダンス・ミュージック(というかモロに「スクリーマデリカ」だ)に乗せて歌われる、どん詰まりのやけくその言葉たち。彼らが解散したのは、論理的な必然だったのだと思う。

 

ソロになった小沢健二は、ファーストアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」で「神様を信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬ様に」と歌った。「ねぇ本当はなんか本当があるはず」と歌った。「意味なんてもう何もないなんて僕が飛ばしすぎたジョークさ」と、「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ!」と歌った。あれほど否定した意味を、神様を、本当を求めた。そうしなければ生きていけないからだ。信じるに値するもののない世界では生きていけないからだ。

 

発売された当初、「犬」は「宗教みたいだ」と言われたりした。この表現には揶揄のニュアンスが込められていたけど、それでも間違いとは言い切れない。宗教とは、意味や根拠のない世界に意味や根拠を与える機能を持つものだからだ。「なぜ世界は存在するのか、私は何のために生きているのか?お答えしましょう、それは神様がそう決めたからです。」このQ&Aが宗教の本質である。

 

ただし、小沢健二が求めたのは「神様を信じる強さ」であり、神様そのものではなかった。「犬」は宗教というシステムを介さずに世界を肯定しようとする試みだった。

 

彼が信じようとしたもの、それは例えば金色の穂をつけた枯れゆく草であり、白い雪のように浜辺に散らばるクローバーの花であり、降りそそぐ太陽の光や照らす月明かりであり、ラジオから流れる遠い街の物語であり、愛すべき生まれて育っていくサークルであり、君や僕をつないでる穏やかな止まらないルールであった。

それはつまり、世界そのものだった。世界が存在することの奇跡。世界の美しさ。世界の途方もなさ。その中で人々が暮らし続けてきたということ。そういう「本当のこと」を並べ上げ、自分もその中に連なるひとりなのだという事実を確認し、だから大丈夫だ、人生は生きるに値するのだ、と自分自身に言い聞かせる。「目に映る風景や人々のような美しい存在でありたい、自分もそうなのだと信じたい」と願い、祈る。「犬は吠えるがキャラバンは進む」とはそういうアルバムだった。

 

宗教と同じように、無意味な世界に意味を与える機能を持つものがもうひとつある。そう、恋愛である。

名盤「LIFE」については、もう説明するまでもないだろう。恋愛のもたらす圧倒的な肯定感と高揚感をそのまんまぶつけて何もかもを全肯定するあのアルバムの素晴らしさといったら。

 

でも、恋愛初期の高揚感は永遠には続かない。

恋は醒めるしパーティーは終わる。

 

「LIFE」の後に出されたシングルの中に、「さよならなんて云えないよ」という曲がある。「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる 僕は思う この瞬間は続くと!いつまでも」というフレーズと「本当は分かってる 二度と戻らない美しい日にいると そして静かに心は離れていくと」というフレーズが同居する歌詞は、あまりにも切なくて美しい。

この曲は、後に「美しさ」というタイトルに改題される。さらに後のこと、この曲を含む同時期のシングルを集めたアルバムには、「刹那」というタイトルが冠されることになる。

 

ジャズの音色に乗せ「恋が失われてしまった後でもなお美しい世界」について歌ったアルバム「球体の奏でる音楽」、意味とか本当とかややこしいことを放り出して軽薄にやっていこうぜ、な「buddy」「ダイスを転がせ」なんかを経て、たどり着いた先がシングル「ある光」だ。

 

「強烈な音楽がかかり 生の意味を知るようなとき 誘惑は香水のように 摩天楼の雪を溶かす力のように強く 僕の心は震え 熱情がはねっかえる 神様はいると思った 僕のアーバン・ブルーズへの貢献」

 

「連れてって 街に棲む音 メロディー 連れてって 心の中にある光」

 

「この線路を降りたらすべての時間が魔法みたいに見えるか?いまそんなことばかり考えてる 慰めてしまわずに」

 

彼はNYで何と出会ったのだろう。恋か、ソウルメイトか、音楽か、それとも別の何かか。いずれにせよ、もう一枚のシングルを残して小沢健二は日本から消えた。神様がいると思える時間、すべての時間が魔法みたいに見える生活を求めて。

 

彼はずっと、同じものを追い求めてきたのだ。

本当のものなんて何もない、空っぽの世界の中で、どうしたら「すべての時間が魔法みたいに見えるか」、それが彼が追いかけ続けたことだった。

 

そしてそれは、生きづらさを抱えて生きるすべての文系青年が追い求めていたものと同一だった。ポストモダン的な世界観の中で、世の中をシニカルな目線で見ることしかできず、何も考えずに人生を謳歌している(かのように見える)若者に揶揄と憧れを抱き、恋愛の高揚感ですべてが解決したような気持になってみるけれどいずれ恋は終わり、「終わらない日常」の退屈の中に舞い戻っていく。あの当時にロッキンオンを読んでいた青少年はみんなみんな同じだったのだ、と言い切ってしまおう。だからみんなにとって小沢健二は特別なのだ。フリッパーズのころから小沢健二を見ていた男子は、みんながみんな、「あれは自分だ」と思っていたのだ。

 

改めて言うまでもないけれど、もちろん僕もそのひとりだ。

 

だから、「Eclectic」「毎日の環境学」を経て、2010年に帰ってきた小沢健二を見たときは、本当にうれしかった。ずいぶんと意識高い系になって帰ってきたな、みたいな驚きもあったけれど、「うさぎ!」ってあまりにも素朴なアンチグローバリズムでおいおいそれってどうなの、と思ったりもしたけれど、それ以上に、彼が「すべての時間が魔法みたいに見える」人生を歩んでいることが嬉しかった。あんなに生きづらそうにしていた小沢健二が本当に人生を謳歌している、そのことがうれしくてたまらなかった。

 

そして去年の「魔法的」だ。あれは本当にいいライブだった。結婚し、子供が生まれて、名実ともに「愛すべき生まれて育っていくサークル」「君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則」の一部となった彼は、かつて激しく憧れたあの美しい世界と完全に同化していた。世界の外側から、シニカルだったり憧れたりする目線で世界を見つめていた青年は、世界の内側に入り込み、その一部となっていた。「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない」このフレーズを聴いたときは本当に泣いた。世界との和解を完璧に表現したフレーズ。世界は相変わらず無根拠で、無意味で、底なしの海のような存在である。でもそれはもう怖くはないのだ。だってそういう底の抜けた世界の中で、現に美しい生活を営んでいるのだから。

 

さあ、そして今週のシングルリリース。朝日新聞の広告を見て、Mステに出る姿を見て、そこでやっと気が付いた。

 

今回の小沢健二は、本気で売れようとしている。なぜならば、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」からだ。彼は、この東京を、「『流動体について』がいろんなところで流れている都市」に変えようとしている。それがこの世界をさらに美しくする行為だと確信している。東京が、あのときのNYのような、「すべてのものが魔法みたいに見える」都市であるように、都市を変えようとしている。

 

これは、外側に向けての歌だ。二十年間、自分にとって世界がどう見えるか、そのことばかりを歌い続けてきた小沢健二が、初めて外側に歌を届けようとしているのだ。

 

そのことを思うと、もう、泣けて泣けて仕方ない。

あんなにナイーヴだった、生きづらそうにしていた青年が、大人になっている。自意識の問題を乗り越えて、生活を送り、子を為し、世界にコミットし、責任を果たそうとしている。あの、小沢健二が、だ。

 

こんなに感動的なこと、ほかにあるか?

 

そういうわけで、「流動体について」を聴くと、僕は条件反射のように涙腺が緩んでしまうのだ。

 

長くなったなー。でも吐き出しきった感じがする。

ひとに伝わるかどうか、共感を得られるか、それはまったくわからないけれど。

自分にとって、小沢健二とは、こういう存在なのです。

週末

土曜日。平日より少しだけ遅めに起きる。ホットカーペットとコタツのスイッチを入れる。ポットに水を組み、沸くまでのあいだに洗濯機を回す。ここのところ、洗濯をするたび、洗剤をどのタイミングでどのようにいれればよいか、悩んでしまう。水が溜まる前か、後か。注水口の真下の滝壺の位置に洗剤を入れるべきか、全体にぐるりと回し入れるべきか。どう入れれば、洗剤がきちんと水に溶け、全体に均一な濃度で染み渡るのか。未だに正解に辿り着けていない。

 

洗濯物をベランダに干す。裸足でベランダに出たせいで、足の裏は冷え切っている。コタツに足をいれ、白湯を飲む。そうこうしていると彼女が起きる。おはよう、きょうはどうするの?昼から仕事で神保町だよ。そっか、じゃあ僕はどうしよかな、ところで昼って何時のこと?もう昼といえば昼の時間だけど、平気なの?

 

遅刻しそうな彼女がタクシーで神保町に向かうというので、用はないけど便乗して神保町に向かうことにする。タクシーを降り、彼女と別れ、とりあえずふらふらと歩く。さてどうしようか、そういえば美味しい讃岐うどん屋さんがあったな、行ってみっか、と「丸香」へ向かう。古本屋を冷やかしつつ、ぷらぷらと歩き、角を曲がって、はい、大行列。わかってたけど大行列。しかし長い行列だな、うどん何本並べたら追いつくかな。そんな並んでまで食べたいわけでもなかった(酸っぱい葡萄理論)ので撤退。そういえば近くにもう一軒行ってみたいうどん屋さんあったな、と検索し、テクテク歩いて神田の「一福」へ。広めの店内、混んではいるけど並びはなし。ちょうどよくて嬉しい。四谷の北島亭のフォンドボーを使ったカレーうどんってのもメッチャ気になった、けどグッと堪えてかけうどんとゲソ天。初めてのお店なのでオーソドックスに決めた。讃岐うどんにしては柔らかめ、でもきちんとコシのあるうどん。ムチムチではなく、びよ〜ん、という感じの弾力。柔らかいし伸びる、でも切れない、という感じ。噛んでも美味い、でも喉越しはもっと美味い。あっという間に完食。ゲソ天の存在を忘れるほどに美味しかった。ごちそうさまでした。

次はどうしよかな、そういえば東京駅で面白そうな展覧会やってた気がするな、と東京駅へ歩きだす。土曜のオフィス街は人が少ない。その分まわりをじっくり見られる。築40年はくだらないだろう古いビルの谷間。狭い路地のようになった道を歩く。キョロキョロと首を回しながら歩く。こういう景色は東京ならではなのだろうな。少なくとも実家のある町にはこんな景色はないからな。これから建て替わっていくだろう、東京の風景。いまのうちにもっと見ておきたいな。

 

東京駅に到着。展覧会へ。入り口まで来たところであんまり気分じゃないと気づく。なので展覧会は辞めにして、銀座へ向かう。はとバスの止まる線路沿いを抜けて有楽町。AKOMEYAを冷やかしにいき、冷やかしのつもりが器に一目惚れしてしまう。


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こんな感じの中鉢。お値段もそこそこしたので、しばし悩む。でもこういうのって、一目惚れの時点で結果は見えてるんだよね。というわけでお買上げ。いい心持ちで店を出る。ここまで来たら行くよな、と東銀座のわが故郷のアンテナショップへ。地元の味を買い込んでご満悦で帰宅。

 

日曜日。朝から起きて寝てを繰り返し、あっというまにお昼過ぎ。丸ノ内線に乗って、南阿佐ヶ谷へ。僕が東京で一番好きな書店、書源阿佐ヶ谷店に来た。品揃えと棚のセンスがすごく好きなお店。肩肘はらずに使える普段使いの街の本屋さん、でも行くと必ず出会いがある。ここでいろんな本を買った。仕事の本、古いQuick Japan、料理の本に岩波文庫。毎回、買おうと思っていなかったものを買っていた。買おうと思っているものならネット通販で買えばいい。ここには買いたくなるものがならんでいた。お店にはたくさんのお客さんがいて、きっとみんな僕と同じように思っているに違いない顔で熱心に本を見ていた。きょうで最後なのに、店内の写真を撮るでも、店員さんに話しかけるでもなく、みんな真面目な顔をして本を選んでいた。そう、本当に楽しいんだよ、ここで本を選ぶのは。最後の日ならなおさら、目一杯楽しまなくちゃ。それで僕も本を選んだ。山崎まどかオリーブ少女ライフ」、いとうせいこう「想像ラジオ」、柴崎友香きょうのできごと」を手にレジへ向かい、レジ前に平積みされていた「みんなの映画100選」という本を追加。長場雄さんのイラストに惹かれてジャケ買いしてしまった。南阿佐ヶ谷といえばここ、と個人的に決めている「めんさいぼう五郎左」でラーメンを食べ帰宅。風呂につかりながら読書。風呂で読書は昔からやってることなのだけれど、きょうはじめて、自分が全裸であることを意識した。全裸で本を読んでいるという自覚はいままで無かった。全力で本を迎え撃ってる感じがした。全裸読書、とても誠実な読書なのでは、みたいなことを思った。半身浴読書、だとわりと気楽な感じがするのに、何故だろう。そのとき読んでいたのはいとうせいこうの「想像ラジオ」で、東日本大震災の話であり、読みたいなと思いながら読めずにいた一冊だった。感想は書かない。でも、うん、裸で向き合うのに相応しい本だった。少なくとも僕にとっては。

 

それから他の本を読んだり日曜美術館を見たり極楽とんぼの吠え魂の復活スペシャルを聞いたりしていたらあっという間に三時半。明日は仕事。瞬間的な寝付きと凝縮された睡眠を願いつつ、眠ることにします。おやすみなさい。

 

あー早く小沢健二の新譜を聴きたい。

 

ぼんやり

ぼんやりと毎日を過ごしている。ぼんやりと、なんとなく。だらだらと働いて、それなりに疲労して、半自動的に帰宅し、湯を浴び、食べ、眠り、翌日を迎える。なんともしまらない日々を過ごしている。

 

これじゃいかんな、とカレーを作ったりしてみるも、いかんせんぼんやりしているので、カルダモンをザラザラッと20粒くらい入れてしまったり、古くなったニンニクをありったけぶちこんだり、普段やらないようなことをやってしまい、結果的に北インドカレー大敗北風、みたいなものが出来上がってしまった。ひと匙すくって口に含めば、頭蓋骨の裏側いっぱいにカルダモンの清冽さとニンニクの鈍重さが広がる。テンプルとボディを同時に殴られるような圧倒的な滅多打ち感を味わえる。よく煮込んだはずの豚肉はひたすらに固く引き締まり、噛みしめると筋繊維がここぞとばかりに繊維らしさを主張してくる。そんなふうにパワフルではあるのだけれど、全体の味はというと、なんだかはっきりせず、やっぱりぼんやりとしているのだった。

 

たぶん空のせいだ。青空のくせにヌケの悪い、少し霞がかった、春めいた空のせいだ。空がぼんやりとしているから、それにつられてこっちまでこんなにぼんやりとしてしまうのだ。

 

何をしてたってぼんやりしてしまうのだから、どうせなら本腰いれてぼんやりしたい。梅の花でも見ながら日向ぼっこなんていいな。日当たりのいい縁側に、リクライニングチェアでも置いてさ、昆布茶なんてすすりながら、ひたすらぼやぼやしてたいな。ぼやぼやしてるうちに、話題の映画も楽しみにしてたお芝居も、ぜんぶ後の祭りになって、ニュースもインターネットも見逃して、いろんな流れに取り残されて、でもまあそんならそれでいいや、って思いたい。勤労も遊興もなんだかめんどうくさいので、めんどうくさくなくなる時期になるまで、ぼさーっとしながら過ごしたい。

 

あー。隠居したいなー。

 

日記

朝。目覚ましよりも少し早く起きる。寝起きは良い方だからすぐにシャワーを浴びてもよいのだけれど、そのあいだに目覚ましが鳴り出すと面倒だから、目覚ましが鳴るまで待って、ストップボタンを押して、それからベッドを出る。46℃の熱いシャワーを浴びる。熱すぎるせいで3秒以上同じ箇所に湯を当てることができない。美容師がドライヤーを振るようにシャワーヘッドを振り、湯の方向を分散する。やけどの手前の、痛みとも痒みともつかぬ、チリチリとした焦燥感のような感覚が肌を指す。脳はそれを心地よいと判定する。そう判断する脳を長いこと使っている。

 

風呂場を出る。素のままの冬の朝の部屋の冷気を感じる。バスタオルで乱暴に頭を拭く。濡れたバスタオルを洗濯機に放り込む。出しておいた下着を着る。シャツのボタンを留める。部屋に戻り、そのままベッドに横たわる。髪の毛が枕を濡らす。

 

目を閉じる。内側の景色を確認する。古井戸はとっくの昔に涸れ果てている。勤労意欲が湧き出してくる気配はない。担当業務は立て込んでいる。きょうが締切の仕事こそないものの、スケジュールを逆算すると、今日中にやるべき仕事はいくつもある。葉の落ちた樹にはまだいくつか責任感がぶら下がっている。大きめの果実は細い枝をぐにゃりとしならせている。遠くには山の端を白く染めた無常観の連なりが見える。さらに奥へと分け入っていくと、水面がある。岸は見えない。生き物も見当たらない。ただ水面だけがある。風もなく、波も立たず、水面はただ清潔な平面のようにしてそこにある。水面には変化がない。変化がないから、そこには時間がない。停止した時間と停止した水面が停止したしたままそこにある。

 

少し悩んで、悩んでいるうちに家を出るべき時間を過ぎる。体調が悪いので休みます、と一行だけのメールを送る。それから停止した水面に浮かぶ。わたしは停止した水面の一部になって、わたしの時間も停止する。

 

気がつくと外は暗くなっている。わたしは水面ではなく自分のベッドで目を覚ます。夢を見ていた。水面に浮かぶ夢ではない。遠い昔に住んでいた町についての夢だ。

 

夢の中のわたしはわたしではない誰かだった。わたしではない誰かのわたしは水道局員のような仕事をしていた。年のころは四十代後半ぐらいだろうか。歳の離れた後輩とふたり、揃いのグレーのツナギを着て、古びた公用車であちこちを動き回っていた。ある日、助手席で寝ていたわたしが目を覚ますと、後輩は停車中の社内で菓子パンを食べていた。時間ないんできょうもパンです、先輩のぶんもありますよ、とコンビニの袋を差し出される。暖かいお茶のボトルを取り出して一口飲み、場所を尋ねると、懐かしい町の名前を告げられる。学生時代に住んでいた町の名前だ。どの路線のどの駅からも離れた、都会の秘境。街と呼ぶのがためらわれるような寂れた商店街と、大きなクスノキのある町。ドアを開け、外に出る。この季節にしては暖かい。ペットボトルを持ったまま大きく伸びをし、そのまま少し歩いてみる。道なりにカーブを曲がっていくと、少しずつ石段が見えてくる。山の上に続く長い石段だ。登りきったところには立派な山門があり、その向こうには更に立派なクスノキがある。本当なら寺社仏閣のひとつもありそうなものなのだけれど、ここの石段と山門の向こうにあるのは、ただただ大きなクスノキなのだ。そんじょそこらの御神木よりよほど立派な、ただの大クスノキ。この町のひとたちは、みなクスノキが好きだった。夏になると、町内会が主催する夏祭りがクスノキの回りで行われた。神社でも何でもないところで行われる、謎の夏祭り。

 

住んでいたころならこのまま石段を登るのだろうが、いまはそんな気にはならなかった。石段に腰掛け、お茶を飲む。喉にほのかな温もりを感じる。携帯に後輩から連絡がくる。もう戻りますか?との問いかけに、ほんの少し進んだとこにいるから迎えに来て、と返信する。立ち上がって石段を見上げる。山門の向こうに大クスノキが見える。昼間の太陽が目に差し込む。網膜にクスノキの型の焼印が押される。ノロノロと車がやってくる。無言で助手席に乗り込み、目を閉じる。光になったクスノキがぼやんと拡散していくさまを堪能する。クスノキが跡形もなくなったころ、車の振動がまた眠気を連れてくる。

 

目覚めたわたしが最初にしたのは、あの町を探すことだった。あれはわたしには見覚えのない町だった。小さな遊園地のある町や曲がりくねった川のある町には住んだことがあるけれど、あんなに大きなクスノキのある町は聞いたことすらなかった。まず始めにクスノキを検索し、次に巨木を、最後に古刹を調べた。けれどあの町は見つからなかった。池上本門寺の参道の雰囲気は少しあの町に似ていたけれど、参道の先にあるのは立派なお寺であって大きなクスノキではないのだった。

 

諦めて目を閉じる。すぐにまた別の眠気がやってくる。慌てて目を開ける。このまま眠りに落ちていけばまた別のクスノキを見てしまうのかもしれない。わたしではないわたしの夢を見て、わたしのものではない来し方を見つめ、わたしのものではない感傷を、わたしではないわたしにも言葉にできないなにかを、まるでわたしのものであるかのように味わってしまうのかもしれない。そしてきっと、わたしではないわたしになって感傷的な夢を見るということ、あのクスノキが象徴する何か、それがわたしにとってどういう意味を持つのか、そのようなことを考えてしまうに違いない。

 

体を起こす。寝乱れたシャツがしわくちゃになっている。コートを羽織り、外に出る。夜空からぽつりぽつりと雨粒が落ちている。フードをかぶり、コンビニへ向かう。店内をひとまわりする。パンと温かいお茶を手にとり、少し考えて棚に戻す。レジでドーナツとホットコーヒーを注文する。家に戻ったら軽く仕事をしようと思う。