読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

ぼんやり

ぼんやりと毎日を過ごしている。ぼんやりと、なんとなく。だらだらと働いて、それなりに疲労して、半自動的に帰宅し、湯を浴び、食べ、眠り、翌日を迎える。なんともしまらない日々を過ごしている。

 

これじゃいかんな、とカレーを作ったりしてみるも、いかんせんぼんやりしているので、カルダモンをザラザラッと20粒くらい入れてしまったり、古くなったニンニクをありったけぶちこんだり、普段やらないようなことをやってしまい、結果的に北インドカレー大敗北風、みたいなものが出来上がってしまった。ひと匙すくって口に含めば、頭蓋骨の裏側いっぱいにカルダモンの清冽さとニンニクの鈍重さが広がる。テンプルとボディを同時に殴られるような圧倒的な滅多打ち感を味わえる。よく煮込んだはずの豚肉はひたすらに固く引き締まり、噛みしめると筋繊維がここぞとばかりに繊維らしさを主張してくる。そんなふうにパワフルではあるのだけれど、全体の味はというと、なんだかはっきりせず、やっぱりぼんやりとしているのだった。

 

たぶん空のせいだ。青空のくせにヌケの悪い、少し霞がかった、春めいた空のせいだ。空がぼんやりとしているから、それにつられてこっちまでこんなにぼんやりとしてしまうのだ。

 

何をしてたってぼんやりしてしまうのだから、どうせなら本腰いれてぼんやりしたい。梅の花でも見ながら日向ぼっこなんていいな。日当たりのいい縁側に、リクライニングチェアでも置いてさ、昆布茶なんてすすりながら、ひたすらぼやぼやしてたいな。ぼやぼやしてるうちに、話題の映画も楽しみにしてたお芝居も、ぜんぶ後の祭りになって、ニュースもインターネットも見逃して、いろんな流れに取り残されて、でもまあそんならそれでいいや、って思いたい。勤労も遊興もなんだかめんどうくさいので、めんどうくさくなくなる時期になるまで、ぼさーっとしながら過ごしたい。

 

あー。隠居したいなー。

 

日記

創作

朝。目覚ましよりも少し早く起きる。寝起きは良い方だからすぐにシャワーを浴びてもよいのだけれど、そのあいだに目覚ましが鳴り出すと面倒だから、目覚ましが鳴るまで待って、ストップボタンを押して、それからベッドを出る。46℃の熱いシャワーを浴びる。熱すぎるせいで3秒以上同じ箇所に湯を当てることができない。美容師がドライヤーを振るようにシャワーヘッドを振り、湯の方向を分散する。やけどの手前の、痛みとも痒みともつかぬ、チリチリとした焦燥感のような感覚が肌を指す。脳はそれを心地よいと判定する。そう判断する脳を長いこと使っている。

 

風呂場を出る。素のままの冬の朝の部屋の冷気を感じる。バスタオルで乱暴に頭を拭く。濡れたバスタオルを洗濯機に放り込む。出しておいた下着を着る。シャツのボタンを留める。部屋に戻り、そのままベッドに横たわる。髪の毛が枕を濡らす。

 

目を閉じる。内側の景色を確認する。古井戸はとっくの昔に涸れ果てている。勤労意欲が湧き出してくる気配はない。担当業務は立て込んでいる。きょうが締切の仕事こそないものの、スケジュールを逆算すると、今日中にやるべき仕事はいくつもある。葉の落ちた樹にはまだいくつか責任感がぶら下がっている。大きめの果実は細い枝をぐにゃりとしならせている。遠くには山の端を白く染めた無常観の連なりが見える。さらに奥へと分け入っていくと、水面がある。岸は見えない。生き物も見当たらない。ただ水面だけがある。風もなく、波も立たず、水面はただ清潔な平面のようにしてそこにある。水面には変化がない。変化がないから、そこには時間がない。停止した時間と停止した水面が停止したしたままそこにある。

 

少し悩んで、悩んでいるうちに家を出るべき時間を過ぎる。体調が悪いので休みます、と一行だけのメールを送る。それから停止した水面に浮かぶ。わたしは停止した水面の一部になって、わたしの時間も停止する。

 

気がつくと外は暗くなっている。わたしは水面ではなく自分のベッドで目を覚ます。夢を見ていた。水面に浮かぶ夢ではない。遠い昔に住んでいた町についての夢だ。

 

夢の中のわたしはわたしではない誰かだった。わたしではない誰かのわたしは水道局員のような仕事をしていた。年のころは四十代後半ぐらいだろうか。歳の離れた後輩とふたり、揃いのグレーのツナギを着て、古びた公用車であちこちを動き回っていた。ある日、助手席で寝ていたわたしが目を覚ますと、後輩は停車中の社内で菓子パンを食べていた。時間ないんできょうもパンです、先輩のぶんもありますよ、とコンビニの袋を差し出される。暖かいお茶のボトルを取り出して一口飲み、場所を尋ねると、懐かしい町の名前を告げられる。学生時代に住んでいた町の名前だ。どの路線のどの駅からも離れた、都会の秘境。街と呼ぶのがためらわれるような寂れた商店街と、大きなクスノキのある町。ドアを開け、外に出る。この季節にしては暖かい。ペットボトルを持ったまま大きく伸びをし、そのまま少し歩いてみる。道なりにカーブを曲がっていくと、少しずつ石段が見えてくる。山の上に続く長い石段だ。登りきったところには立派な山門があり、その向こうには更に立派なクスノキがある。本当なら寺社仏閣のひとつもありそうなものなのだけれど、ここの石段と山門の向こうにあるのは、ただただ大きなクスノキなのだ。そんじょそこらの御神木よりよほど立派な、ただの大クスノキ。この町のひとたちは、みなクスノキが好きだった。夏になると、町内会が主催する夏祭りがクスノキの回りで行われた。神社でも何でもないところで行われる、謎の夏祭り。

 

住んでいたころならこのまま石段を登るのだろうが、いまはそんな気にはならなかった。石段に腰掛け、お茶を飲む。喉にほのかな温もりを感じる。携帯に後輩から連絡がくる。もう戻りますか?との問いかけに、ほんの少し進んだとこにいるから迎えに来て、と返信する。立ち上がって石段を見上げる。山門の向こうに大クスノキが見える。昼間の太陽が目に差し込む。網膜にクスノキの型の焼印が押される。ノロノロと車がやってくる。無言で助手席に乗り込み、目を閉じる。光になったクスノキがぼやんと拡散していくさまを堪能する。クスノキが跡形もなくなったころ、車の振動がまた眠気を連れてくる。

 

目覚めたわたしが最初にしたのは、あの町を探すことだった。あれはわたしには見覚えのない町だった。小さな遊園地のある町や曲がりくねった川のある町には住んだことがあるけれど、あんなに大きなクスノキのある町は聞いたことすらなかった。まず始めにクスノキを検索し、次に巨木を、最後に古刹を調べた。けれどあの町は見つからなかった。池上本門寺の参道の雰囲気は少しあの町に似ていたけれど、参道の先にあるのは立派なお寺であって大きなクスノキではないのだった。

 

諦めて目を閉じる。すぐにまた別の眠気がやってくる。慌てて目を開ける。このまま眠りに落ちていけばまた別のクスノキを見てしまうのかもしれない。わたしではないわたしの夢を見て、わたしのものではない来し方を見つめ、わたしのものではない感傷を、わたしではないわたしにも言葉にできないなにかを、まるでわたしのものであるかのように味わってしまうのかもしれない。そしてきっと、わたしではないわたしになって感傷的な夢を見るということ、あのクスノキが象徴する何か、それがわたしにとってどういう意味を持つのか、そのようなことを考えてしまうに違いない。

 

体を起こす。寝乱れたシャツがしわくちゃになっている。コートを羽織り、外に出る。夜空からぽつりぽつりと雨粒が落ちている。フードをかぶり、コンビニへ向かう。店内をひとまわりする。パンと温かいお茶を手にとり、少し考えて棚に戻す。レジでドーナツとホットコーヒーを注文する。家に戻ったら軽く仕事をしようと思う。

昇太、マトンカレー、かもめんたる

木曜日。仕事を適当に(本当に適当に)切り上げて下北沢へ。春風亭昇太35周年落語会「夜道に月あかり冴えて」@本多劇場。初めての本多劇場。落語で来るとは思わなかったな。昇太師匠が過去を振り返りながら当時やっていた落語をやる、という趣向のようで、不思議な言い方になるけれど、前座も昇太師匠が努めていた。昇太師匠が前座だった時分によく演っていた噺をやった、という意味です。全体的な感想としては、うーむ、ちょっと期待しすぎていたのかなあ…という印象。なんだろう、お疲れなのかなあ、パワーがダウンしてる感じがする。昇太師匠の落語の好きなところは、器の小さいひとびとがトラブルに巻き込まれてテンパってキーってなってくその様の素晴らしさなのだけれど、このキーが何とも弱く感じられてしまった。あと新作落語の古さが辛かった。妻と娘に虐げられるお父さんはいいとしても、虐げられ方がさあ、巨人戦見せてもらえないとか、パンツ一緒に洗わないでとか、それってどうなの、と思わざるを得ない感じ。合間合間の小話は面白かったんだけどなー。一緒に見るはずだった彼女は仕事で間に合わず、下北の駅前のマクドナルドで合流。めっちゃ落ちこんでいたので、正直そんなでもなかったよ、絶好調時を10とするときょうは6とかそんなもんだったから見れなくてもそこまで残念なやつではないよ、と伝えるも、それは全く慰めにならない、逃した魚は大きくあってほしい、と返され、それはそうだな、と納得する。新宿に移動しご飯。前から気になっていたもつ焼屋に入り、もつ焼屋のように見えるが実はイタリアンのお店である、ということを知る。こういう予想外に出くわすとなんだか嬉しくなる。大海老の沖漬けと鹿のステーキとミートソースのパスタが美味かった。

 

金曜日は働いてご飯食べて寝て終了。明けて土曜日。起床して洗濯機をぐるぐると回し、ついでになんとなく骨付きマトンを解凍する。ヨーグルトでマリネし、しばし寝かせる。そのあいだに宅配便を受け取る。ソープディッシュ、歯ブラシ、ガーリックプレス。必要なもの、必要なもの、必要ではないが人生に彩りを添えるもの。新しいオモチャはすぐ使いたくなるに決まっており、この日のカレーには大量のニンニクが投入されることになった。たっぷりの油にたっぷりのグリーンカルダモン、それにブラックカルダモンもひとつ。クセのある臭いだがマトンカレーには良く合う。クローブ、クミンシード、マスタードシード、カシア、フェネグリーク、と景気よく投入。香りが出たら玉ねぎ。いつもよりしっかりした飴色になるまで炒める。その間にガーリックをプレス。プレス、プレス、プレス。ひと玉まるごとプレスしたった。でもアレですね、ガーリックプレスに期待するムーヴって、ギュッ、ムニュッ、ポトッ、じゃないですか。ムニュッと出てきたガーリックはポトッと落ちてほしいじゃないですか。このポトッ、が一切起こらない場合、どうすればよいのでしょう。最終的にひと玉丸ごと分の粉砕ガーリックがモチャッとダマになってガーリックプレスにくっついていました。爽快感ゼロ。飴色になった玉ねぎに大量のガーリックと生姜を投入。ついでに香草の根と茎もみじん切りにして投入。よく炒めてトマト缶、よく水分を飛ばしたら、骨付きマトンをマリネしてたヨーグルトごと投入。コリアンダー、クミン、チリとターメリックの各パウダーも投入し炒め、水を多めに。ここから二時間煮込み、食べる直前に香草の葉を添えて、マトンカレー完成。

 

カレー作ったりカレー食べたりしていたら結構いい時間になっており、慌てて支度して新宿モリエールへ。かもめんたる単独ライブ「ノーアラートの眠り」。行きしなにチケット発券したら最前列でビビった。最近チケット運いいな、ceroの野外は申込みすら忘れてたけど、取れたチケットの座席はやたらといい感じなんだよな。お久しぶりのモリエール。たしか劇団ひとりの単独ライブ以来だ。ずいぶん時間が経ったなあ。その間に隣のビームスビームスじゃないみたいになったし、大塚家具も大塚家具じゃないみたいになった。

 

とても面白いお笑いを見た、と言うより、とても面白い芝居を見た、という方が実感に近い。「研究所」「山菜採り」「監督」「量販店の関西人」「性癖の嘘」「フードファイター」「眠民のおじさんとショートスリーパーの私」便宜上、各ネタにタイトルをつけるとするとこんな感じだろうか。いちばん好きだったのは「山菜採り」。山菜採り名人が山菜採りを虐殺に例える、そこまではわかる。けれど、それを咎められてからの「いや、俺らには絆あるんで、部外者にはわからないんで」「だからこれDVみたいなもんなんで、ってそれやっぱ駄目っすよね」まで行くと、発想の飛躍の美しさに素直に感嘆してしまう。「監督」も良かった。誤解によって生まれてしまった気まずい空間の中、精いっぱい誠実に振る舞おうとする二人、それによって更に膨らんでいく気まずさ。玉田企画が恐らくやろうとしていることが短時間に凝縮されている。あと槙尾さんの女装の上手さ。あれは「女装」というより「秘めたる女性性の解放」という方が正しい気がする。あのフードファイターの嫁の自然さといったら。「男性が女性を演ずるが故の面白さ」みたいなものが全く無い、最初から女性が演じてるのと変わらない気持ちで見れてしまう。この自然さは何なんでしょう。かもめんたる、とにかく面白いので舞台とか気になる人は見にいったほうが良いです。東京はきょうまで、当日券もあるみたい。地方もツアーがあるらしいので、是非。

 

帰りがけ、紀伊国屋で本を何冊か。ヒロアカの最新刊、長谷川町蔵「あたしたちの未来はきっと」、舞城が載ってる「新潮」に松浦理英子が載ってる「文學界」。スーパーにも寄ってハーゲンダッツのバニラとラムレーズンをパイントで購入。帰宅してコタツに入り、パイントから大きなスプーンで直接アイスを食べながらふたりで読書。ときおり彼女とパイントを交換する。2冊ほどやっつけた結果、バニラとラムレーズンではラムレーズンのほうが早く溶けるとの学びが得られた。

 

コタツと本が眠気を誘って自我も蕩けて後は寝るだけ。いい一日だった。

 

無題

「カルテット」の3話を見た。「泣きながらご飯食べたことあるひとは、生きていけます」の台詞の凄さと言ったら。どうしたらこんな台詞を書けるのだろう。泣きながらご飯を食べて生きていけると思った経験がないとどうしたって書けないんじゃないかと思う。もし創作なのだとしたら、それこそ魔法だ。

 

石川啄木の言うところの「友がみな我より偉く見ゆる日」ってのが続いてる。自分は駄目だなあ、無能だなあ、世の中の人たちはみんなちゃんとしていて偉いなあ、そんなふうに思う日が続いている。ともするとへたりこんでしまいそうになるので、安物のアイスコーヒーをガブガブと飲み、カフェインで誤魔化して何とかしている。何とかなっているような気もするし、何とかなっていないような気もする。何とかなっているのかどうかわからないという時点で何とかなっていないようにも思うがどうなのだろう。なんだかよくわからない。

 

ここのところ、朝に目覚めてすこやかだったことがない。活力に満ちたすっきりとした目覚めを味わいたいと思う。今朝は、目覚ましの鳴る40分前にどんよりと目覚め、なんとなくテレビをつけて、このまま起きてしまうかどうか悩んでるうちに二度寝してしまった。

 

夢を見た。夢の中で俺はすき家のカウンターに座り、ハーブチーズ牛丼の中盛を注文していた。ご飯の量は並盛りのまま、肉だけ大盛りになってるやつだ。店員がトレイにのせた丼を運んでくる。俺の前にトレイが置かれる。大盛りの肉の上にとろけるチーズソースが黄色く輝いている。店員は立ち去らず、俺の前に立ちつくしている。店員がいきなり右手を振り上げる。殴られる、と思った次の瞬間、俺のハーブチーズ牛丼にズブズブと店員の人差し指が突き刺さる。俺は驚いて店員の顔を見る。そこにはドナルド・トランプの顔がある。トランプは顔を醜く歪ませ、チーズソースでぬたぬたになった右手の人差し指を俺の顔に突きつける。脳内にトランプの声が響く。汚い叫び声が俺の頭蓋骨に反響する。お前は不要だ、お前のような無能は俺の国には必要ない、出ていけ、いますぐ俺の国から出ていけ、そして二度と帰ってくるな。

 

目が覚める。テレビにはトランプの顔が大写しになっている。トランプは俺を俺の夢から追い出した。俺は本来、俺の国であるべき場所から退去させられてしまった。俺の国から追い出された俺はどこへ行けばいいのだろう。とりあえず仕事に行かなければならない。そこは俺の国ではないけれど、行かなければ、そこからも退去処分にさせられてしまう。だから行かなくては。

 

なんだか疲れた。いまにも弾けて消えそうな泡のような気分だ。眠りにつくのと弾けて消えるのと、どちらが早いだろうか。

 

もう寝よう。

疲労と寿司、それから余談

金曜日。少しだけ暖かな真冬の日。

 

この一週間ずっと、寝付きが悪かった。ダイエットを始めて食べる量をかなり抑えたせいだろうか。仕事も忙しく、彼女ともケンカなんてしたりして、そんなんだから木曜日くらいからだいぶヤラれてしまってた。きょうは昼からぼーっとしたりイライラしたりお腹の調子もよくなかったり。字面だけ並べると生理中の女子のようだ。確かめようがないのがなんだか残念。そんなんで仕事も身が入らず、To doリストにタスクを山ほど並べてそれをぼんやり眺めているだけの人生だったりした。タスクを潰すのっていかにも「仕事」って感じがして好きじゃない。タスクを洗い出したり解決策を考えたりするのはあんなに楽しいのに、実行フェーズで手を動かすのってなんであんなにやる気でないんだろうか。早く自動化してほしい。というかそもそもなんで自動化されていないのか。欲求や願いは生まれた瞬間に現実化するべきだ。「思考は現実化する」という思考をこそまず現実化するべきで、だから思考現実化マシンが必要だ。「三つ目がとおる」の写楽くんあたりに作ってもらいたい。外見はあの名作「脳みそをトコロテンにする機械」に寄せてほしい。ガラクタを複雑に組み合わせた感じがクール。画像検索したけど見当たらないし単行本は実家なので気になる人は「三つ目がとおる」を読んでください、たぶん一巻に乗ってるはず。あと完全に余談だけどここで「マシン」って言葉が出てくるあたりに自分の年齢を感じる。も少し若いとたぶん「アプリ」って言葉が出てくる。

 

脱線した。とにかく全自動タスク片付け機がほしい。課題を見つけ、解決策を決め、スケジュールを引き、タスクを分解する。人間の仕事はここまでにしてほしい。いいからとにかく手を動かせ!みたいな段階までタスクを分解したら、あとは機械にセットするだけ、みたいにしてほしい。そうならないと僕が仕事を好きになることはないと思う。「手を動かす工程にこそ価値がある」みたいな仕事をなりわいにしていたらまた違ってたのだろうか。たとえば陶芸家のような。それとも全自動陶芸の第一人者として脚光を浴びていただろうか。全自動陶芸って何だ。それはただの工場ではないのか。工場の設計者は陶芸家と言えるのだろうか。工場の設計者が陶芸家なのだとすると、工場は陶芸だということになりはしまいか。陶芸家の作るものはなんでも陶芸なのだろうか。100パーセントの陶芸家、純粋陶芸家、みたいなひとがいるとして、その陶芸家が握った寿司は寿司なのだろうか、それとも陶芸なのだろうか。実態としての寿司を概念としての陶芸が侵食する、みたいなことが起こるのだろうか。ヤバいな。是非とも見てみたいなそれ。

 

なんだろう。何を言っているのだろう。仕事がめんどくさい、疲れた、それだけのことをなにをだらだらと。

 

そういうわけですげー疲れて金曜の夜だったのだけれど、すげー美味しいお寿司を食べたらスッと疲れが抜けていった感じがしたのでお寿司ってすごいな、と思った、という話です。お寿司屋さん的にはいまは冬から春に変わる境目だそうで、季節感に溢れたメニューがたまらんかった。青柳、鯛の昆布締め、春子、赤貝、閂。塩蔵のいくら、それから海胆。途中、あまりの美味しさに身体が痺れて麻痺するような感覚があった。ジョジョの四部のトニオさんの料理を食べるとこんな感じになるのかな、たぶんこれ物凄い賛辞だと思うのだけれど大将には一切伝わらないだろうな…と思いながら寿司に癒やされていた。あの山盛りの海胆を食べているとき、あそこが終点だった。最早これまで、の「これ」があれだった。あのとき、全身の痺れを感じたあのときに一度終わったのだと思う。一度終わって、次の巻物と穴子でまた始まったのだ。そうに違いない。おはよう、おはよう、はじめまして。わたくし、きょうから始まったものです。どうぞよろしくお願いします。

 

NEWGAMEな状態で帰宅して、ようやく「カルテット」の2話を見れた。うん、全部好きだ。美術も演技も会話劇も書こうとしているであろうことも、全部が好きだ。演者も四人とも素晴らしいのだけれど、特に松たか子に吸い寄せられる。目を離せない。なんだろうあの風格。「四月物語」の楡野卯月(記憶で書いてるので漢字合ってるか不明)には絶対に出せなかった強さを感じる。強さというか、タフさというか、強かさというか。エンディングの映像も素晴らしい。いまのとこの今年のベスト・ショート・ムービーだと思う。何回でも見ていられる。羽根を撒き散らしてはしゃいでる4人も最高だし、高橋一生の低い声も「大人は秘密を守る」と歌う松たか子の表情も本当に最高だ。「羽根を撒き散らす」で思い出して槇原敬之の「どうしようもない僕に天使が降りてきた」のPVをYouTubeで見る。曲は何度も聞いているけどPVは久々に見た。時代の感覚が恥ずかしい方向に色濃くて悶絶。小橋賢治のことをひっさしぶりに思い出し、いまなにやってんだろと調べ、ULTRAJAPANのクリエイティブディレクターに就任してると知って驚く。語弊のある言い方をしますが、チャラさのひとつの到達点やないかおいおいずいぶん登り詰めたな、と思いました。

 

寝る前にTwitterいじっててエンジョイミュージッククラブのEこと江本祐介「ライトブルー」のPVが公開されたことを知る。この夏はこればかり聴いていた。


江本祐介「ライトブルー」MV - YouTube

毎分毎秒がキラキラでヤベー。この曲は、夏にあった舞台「魔法」で印象的な使われ方をしていた曲だ。2016年に見たものの中でベストを決めるとしたら、たぶん五回に三回くらいはいわきで見た「魔法」になるんじゃないか、と思ってる。感想も書いた。


いわき総合高等学校総合学科第13期生卒業公演「魔法」 - bronson69の日記

あの舞台に出演していた高校生たちが主演、ロロの三浦さんが演出、島田桃子さんが振付け、監督がエンジョイミュージッククラブの松本さんで美術はひらのさん。ところで江本さんのEと松本さんのMはわかるんですが、なぜひらのさんがCなのでしょうか。本名?ミドルネーム?それともCOMICのC?いつか分かる日が来るのでしょうか。3月の多摩センターのライブも楽しみだな。いわきの女の子たちもダンサーとして参加するとのこと、あの「もーいっかい!」がまた見れるのだろうか。早く見たいな。それまでだらだらと働いて、健やかに過ごさなければ。

 

 

「カルテット」「夫のちんぽが入らない」

火曜。カルテット。第一話。なんだろう、幸せな時間だった。ブルーグレーに覆われた画面。タイトルロゴ、別荘の壁紙、マイクロバスの車体。満島ひかりが好きだと言った、真冬の薄曇りの空の色。指し色はオークだ。暖かみを感じさせる、樹木の色。冬の森のような、寒々としているけれどどこか暖かい、そういうカラーリングの画面が続く。そういう二面性のモチーフは至るところに現れる。内気なのに大胆な女性、神経質なのにルーズな男性、親密なようでいて秘密ばかりの関係。お互いの本当のところはまるでわからない、だけれども共感することはできるし、一緒にいることもできる。それはバラバラの旋律を弾きながらひとつの曲を奏でる四重奏のようでもあるし、中央に空虚を持ちながら円でつながるドーナツのようでもある。それを表現するのは坂元裕二の必殺技、噛み合わないけれど回転する会話。4人ってメインキャラの数もちょうどいいと思う(『問題の多いレストラン』や『いつ恋』はキャラが多すぎてとっちらかってまってたと思ってる)し、脂ののった主演陣の演技も最高だし、脇を固めたもたいまさこイッセー尾形も完璧だった。これを形にしたプロデューサーは褒め称えられるべきだと思う。それともTBSが褒められるべきなのか。いまのTBSには「無闇に数字に振り回されず本当にいいものを作ろう」みたいな気概を感じる。そうじゃなきゃ元旦にお笑いキャノンボール放送しないでしょ。この調子でつきすすんでほしい、もちろん商業的にも成功してくれればなお嬉しい。

 

水曜。遅くまでカルテット見てたので寝不足。仕事帰り、新宿で彼女と待ち合わせ。待っている間、地下鉄のホームのベンチに腰を下ろし、こだまさんの「夫のちんぽが入らない」を読む。一気に読了。まるでジョン・アーヴィングの長編を読んだかのような読後感。この世界には幸福も不幸もなく、ただひとりひとりの人生だけがある。そのことを思う。「普通」も「まとも」も「当然」も「当たり前」もなく、ただ個人が歩いてきた道のりだけがある。我々は、すべてのひとりひとりの私は、こんなはずではなかった生を歩き、私にしかわからない形で和解をする。そのことの美しさを思う。僕のいるホームには2分刻みで電車が止まり、そのたびに大量の人を吐き出し、また吸い込んで去っていく。雑踏のなかでこの本を読めて本当によかった。かけがえのないワンノブゼムに囲まれて、自分もそのひとりになれて本当によかった。

 

彼女と合流して帰宅、ナスとカリフラワーと豚肉のビンダルー、芽キャベツクランベリーとナッツのサラダ、トマトとアボカドとモッツァレラのサラダ。健康的で美味しい。ごちそうさまでした。

 

早寝したかったのにもう一時。早いなあ。平日でももっとゆっくりしたいなあ。コンテンツを楽しめるだけの時間がほしいなあ。 

 

とりあえずきょうはもう寝よう。

おやすみなさい。良い夢を。

 

 

カレーに火をつけて

土曜。

 

昼前に起床。仕事に向かう彼女と一緒に家を出る。年イチの寒波を謳うだけあって、昼だというのに夜みたいに寒い。駅で見送って紀伊国屋へ。石山さやか「サザンウィンドウ・サザンドア」(なんて素敵なタイトルだろう、まるで古いシティポップのアルバムみたいだ)、くらっぺ「はぐちさん」、ヤマシタトモコ「WHITE NOTE PAD」「さんかく窓の外側は夜」などドサドサと購入。ジャケ買いっぽくマンガを買うのは久々でなんだか興奮した。外に出るとほんの少しだけ雪がチラついている。とても小さな雪の粒が、ひとつ、ふたつ、と落ちてくる。すべて数えてしまえそうなくらいの、申し訳程度の雪。冷たい空気、灰色の空、ほんの少しの雪。いかにも冬らしい景色で嬉しくなる。マフラーも手袋もせずに自転車を漕ぐ。存分に冬を味わう。

 

歌舞伎町を抜けて大久保へ。きのう「青春ゾンビ」で見た「Spicy curry 魯珈」に向かう。魯肉飯とスパイスカレーのコンビなんて、そんな素敵なものがこの世にあるのか!ということで思い立ったが吉日ルールが発動してしまった。魯肉プレートを注文。魯肉飯と玉ねぎとアチャール、生野菜とマスタードオイル高菜。カレーはベジタブルコルマにした。


f:id:bronson69:20170114225437j:image

メチャクチャ美味い。魯肉飯も美味いしカレーも美味い、それらすべてを混ぜて食べると美味すぎてなんかもうわけがわからなくなる。ただスプーンを口に運ぶ機械になる。自我が消える。無心になる。頓悟とか曼荼羅とか怪しげな言葉を使いたくなるけれどそれはただの魔境だと思うのでやめておく。危ない危ない。カレーは怖い。

 

美味いカレーは火をつける。ついついやる気になってしまう。何を?もちろんカレーを。買い物して帰宅、そこからカシューナッツをすり潰したりマトンをヨーグルトでマリネしたりなんやかんやとやって、とりあえずベジタブルコルマが完成。ヨーグルトと牛乳と生クリームとカシューナッツペースト、それとスパイスでナスとカリフラワーを煮込んだカレー。我ながらよい出来栄え。とにかく白くてクリーミー。今日みたいな寒い日にぴったりのカレーだ。仕事終わりの彼女に食べてもらい、お褒めの言葉をいただき、満足して就寝。明日はマトンをなんとかしよう。コルマにするか、マサラにするか。悩むなーほんと。