bronson69の日記

いつか読み返して楽しむための文章。

「カルテット」「夫のちんぽが入らない」

火曜。カルテット。第一話。なんだろう、幸せな時間だった。ブルーグレーに覆われた画面。タイトルロゴ、別荘の壁紙、マイクロバスの車体。満島ひかりが好きだと言った、真冬の薄曇りの空の色。指し色はオークだ。暖かみを感じさせる、樹木の色。冬の森のような、寒々としているけれどどこか暖かい、そういうカラーリングの画面が続く。そういう二面性のモチーフは至るところに現れる。内気なのに大胆な女性、神経質なのにルーズな男性、親密なようでいて秘密ばかりの関係。お互いの本当のところはまるでわからない、だけれども共感することはできるし、一緒にいることもできる。それはバラバラの旋律を弾きながらひとつの曲を奏でる四重奏のようでもあるし、中央に空虚を持ちながら円でつながるドーナツのようでもある。それを表現するのは坂元裕二の必殺技、噛み合わないけれど回転する会話。4人ってメインキャラの数もちょうどいいと思う(『問題の多いレストラン』や『いつ恋』はキャラが多すぎてとっちらかってまってたと思ってる)し、脂ののった主演陣の演技も最高だし、脇を固めたもたいまさこイッセー尾形も完璧だった。これを形にしたプロデューサーは褒め称えられるべきだと思う。それともTBSが褒められるべきなのか。いまのTBSには「無闇に数字に振り回されず本当にいいものを作ろう」みたいな気概を感じる。そうじゃなきゃ元旦にお笑いキャノンボール放送しないでしょ。この調子でつきすすんでほしい、もちろん商業的にも成功してくれればなお嬉しい。

 

水曜。遅くまでカルテット見てたので寝不足。仕事帰り、新宿で彼女と待ち合わせ。待っている間、地下鉄のホームのベンチに腰を下ろし、こだまさんの「夫のちんぽが入らない」を読む。一気に読了。まるでジョン・アーヴィングの長編を読んだかのような読後感。この世界には幸福も不幸もなく、ただひとりひとりの人生だけがある。そのことを思う。「普通」も「まとも」も「当然」も「当たり前」もなく、ただ個人が歩いてきた道のりだけがある。我々は、すべてのひとりひとりの私は、こんなはずではなかった生を歩き、私にしかわからない形で和解をする。そのことの美しさを思う。僕のいるホームには2分刻みで電車が止まり、そのたびに大量の人を吐き出し、また吸い込んで去っていく。雑踏のなかでこの本を読めて本当によかった。かけがえのないワンノブゼムに囲まれて、自分もそのひとりになれて本当によかった。

 

彼女と合流して帰宅、ナスとカリフラワーと豚肉のビンダルー、芽キャベツクランベリーとナッツのサラダ、トマトとアボカドとモッツァレラのサラダ。健康的で美味しい。ごちそうさまでした。

 

早寝したかったのにもう一時。早いなあ。平日でももっとゆっくりしたいなあ。コンテンツを楽しめるだけの時間がほしいなあ。 

 

とりあえずきょうはもう寝よう。

おやすみなさい。良い夢を。

 

 

カレーに火をつけて

土曜。

 

昼前に起床。仕事に向かう彼女と一緒に家を出る。年イチの寒波を謳うだけあって、昼だというのに夜みたいに寒い。駅で見送って紀伊国屋へ。石山さやか「サザンウィンドウ・サザンドア」(なんて素敵なタイトルだろう、まるで古いシティポップのアルバムみたいだ)、くらっぺ「はぐちさん」、ヤマシタトモコ「WHITE NOTE PAD」「さんかく窓の外側は夜」などドサドサと購入。ジャケ買いっぽくマンガを買うのは久々でなんだか興奮した。外に出るとほんの少しだけ雪がチラついている。とても小さな雪の粒が、ひとつ、ふたつ、と落ちてくる。すべて数えてしまえそうなくらいの、申し訳程度の雪。冷たい空気、灰色の空、ほんの少しの雪。いかにも冬らしい景色で嬉しくなる。マフラーも手袋もせずに自転車を漕ぐ。存分に冬を味わう。

 

歌舞伎町を抜けて大久保へ。きのう「青春ゾンビ」で見た「Spicy curry 魯珈」に向かう。魯肉飯とスパイスカレーのコンビなんて、そんな素敵なものがこの世にあるのか!ということで思い立ったが吉日ルールが発動してしまった。魯肉プレートを注文。魯肉飯と玉ねぎとアチャール、生野菜とマスタードオイル高菜。カレーはベジタブルコルマにした。


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メチャクチャ美味い。魯肉飯も美味いしカレーも美味い、それらすべてを混ぜて食べると美味すぎてなんかもうわけがわからなくなる。ただスプーンを口に運ぶ機械になる。自我が消える。無心になる。頓悟とか曼荼羅とか怪しげな言葉を使いたくなるけれどそれはただの魔境だと思うのでやめておく。危ない危ない。カレーは怖い。

 

美味いカレーは火をつける。ついついやる気になってしまう。何を?もちろんカレーを。買い物して帰宅、そこからカシューナッツをすり潰したりマトンをヨーグルトでマリネしたりなんやかんやとやって、とりあえずベジタブルコルマが完成。ヨーグルトと牛乳と生クリームとカシューナッツペースト、それとスパイスでナスとカリフラワーを煮込んだカレー。我ながらよい出来栄え。とにかく白くてクリーミー。今日みたいな寒い日にぴったりのカレーだ。仕事終わりの彼女に食べてもらい、お褒めの言葉をいただき、満足して就寝。明日はマトンをなんとかしよう。コルマにするか、マサラにするか。悩むなーほんと。

オウム

朝のこと。

 

家を出て、大きな通りを一本渡ったところで、黃緑色の大きなオウムが死んでいるのを見つけた。異国の鳥は12階建てのオフィスビルの外の歩道で翼を広げて死んでいた。眼と嘴をいっぱいに開いて、驚いたような表情で死んでいた。通り過ぎる全員がそのオウムに気づいていた。でも立ち止まるひとは誰も居なかった。僕も立ち止まらずに駅へと向かった。罪悪感というのか、これでいいのか、このまま行ってしまっていいのか、と自問しながら、それでも立ち止まらずに駅へ向かった。通り過ぎるのが正しい対応だとは思えなかったけれど、かといってどうすればよいのかもわからなかった。埋めてあげられる場所もなく、そもそも病気かもしれぬ死体に触れてよいのかもわからず、歩き去った理由はこんなふうにいくらでもあげられるけれど、本当は兎に角そこから離れたいだけだった。オウムの纏う死があまりにも生々しすぎて受けとめることが出来なかったのだ。

 

あれは、物語や儀式といった加工を伴わない、ただの死だった。ただの死、いつもの通勤路にポトリと落ちていた剥き出しの死。予言でも予兆でも暗喩でも運命でもない、端的な死。意味を伴わない、ただの存在としての死。冷たくて、空っぽで、ただただ恐ろしい、逃げ出したくなるような、死。

 

この話はこれで終わりで、そこには教訓も学びもなく、人情も愛も文学もない。ただ、そういうことがあった、というだけの話である。剥き出しではない加工された毎日の中に急に剥き出しが現れ猛威を奮った、それだけの話である。だから眠って起きたらぼくはこのことを忘れるだろう。そして明日ではないいつかにこのことを思い出す。たぶんそういうふうになる。そういうふうにできている。

風邪治る

連休は風邪だった。

 

やさしい彼女に甘えて看病してもらい、ありがたく上げ膳据え膳を堪能していた。出かけられずやることもないので、コタツにはいって寝っ転がって、年末年始に録りためたテレビ番組を消費したり、漫画を読んだりした。作ってもらった七草粥を食べ、紅白歌合戦カウントダウンTVの年越しスペシャルをBGVに流しながら「へうげもの」を1巻から読み直したりした。引っ越しのときに紛失したのか、「へうげもの」の途中に抜けを発見し、最寄りのブックオフまで補充に行ったりもした。仕事に行けないような体調でも漫画を補充しにブックオフに行くことはできる、それが人間である。サボりではない。人間には非生産的なことをするときにだけ発揮される火事場のクソ力みたいなものがあるのだ。

 

テレビではめちゃイケスペシャルが最高だった。最高すぎて五回くらい見た。僕の好きなめちゃイケ、フィクションとドキュメント、台本と本音、虚と実がないまぜになり、そしてそんなものはどちらでもどうでもよくなる、どうでもよいと思える、そういう作品だった。中居くんとナインティナインに友情はあるのか、ホームベースを手にした中居くんの「草彅剛」というモノボケ、それが自発的なものなのか台本なのか、いや「五角形のホームに帰ってくることを待っています」なんて美しすぎるナレーションのことを考えればそれはもちろん台本に決まっているのだけれど、なんというか、スマスマ最終回に対する完璧なアンサーだった。スマスマとめちゃイケの双方に鈴木おさむが関わる鈴木おさむがいい仕事をしたのだ、と勝手に思っている。根拠はないけれど。スマスマの最終回にしたって、完全にお葬式だったあれは、SMAPへの愛ゆえにスタッフが作り上げたものだったんじゃないかと思ってる。SMAPの解散が避けられないのならば、我々が失ってしまうものがどんなに素晴らしいものだったか、SMAPを失うことがどんなに悲痛でいたたまれないことなのか、それを表現するための「お葬式」だったんじゃないか。だってほんとに悲しいことだったんだから。「愛するひとが死んだ時には、自殺しなけあなりません。」と中原中也が詩った通り、大切な人を失ったなら、我々はきちんと悲しむべきなのだ。そうしてきちんと悲しんで、それから前を向いて歩きだす、それが「スマスマ」と「めちゃイケ」で鈴木おさむとスタッフがやったことなのではないか。僕は勝手にそんなふうに思っている。

 

結局、風邪は連休明けまで引きずって、きょうになってようやく回復、と言えるくらいにまでなった。まだ咳は残ってるけれど、まあそれは仕方ない。仕事帰り、彼女と新宿で落ち合い、通りすがりのお店でとんかつを食べた。年始の上野で生じた欲望にようやくケリをつけた感じ。閉店間際の伊勢丹をぶらりと流す。今週のマパテはユウ・ササゲ。焼き菓子をふたつほど買ってもらい、ヒモ気分を堪能。どうもどうも、ありがとうごぜえます。改札まで彼女を見送り帰宅、冷蔵庫に期限ギリの豚肉を見つけたのでカレー。いまは煮込み中。なので明日の我が家の食事はポークカレーです。あああ、楽しみだな。

 

 

 

 

ていねいに暮らす

引き続き風邪をひいてる。声が出なくなって、熱が出て、「死ぬ…たぶんというか絶対死なないと思うけど、いまこの瞬間の素直な感想としては死ぬとしか言いようがない…」みたいな一日があって、そこからはなんとか脱した、みたいな今日がある。

 

いわゆる「ていねいな暮らし」みたいなものに憧れていた時期がある。流行りの服じゃなく10年保つ服を自分で繕いながら着て、旬の食材を出汁からきちんと料理して、裏山に花が咲いたら花瓶にいけて、みたいなやつ。いまは当時ほどの憧れはないけれど、でもやっぱり、ちょっと憧れる気持ちはある。いざやるかっていったら、やらないんだけどさ。

 

ここ数年思っているのは、「ていねいな暮らし」をやらなくても、「ていねいに暮らす」ことができてれば充分なんじゃないかな、ということ。ことさらにクウネルな生活を志す必要はないのではないか、それよりも、自分にとっての普通の生活、30数年生きてきて出来上がった自分なりの暮らし、そういう普通の日々を、なんとなくではなく、きちんと面白がって暮らすことが大事なんじゃないかな、と思う。例えば毎朝の駅までの道のりで肌で感じる冬の空気、匂いに負けて吸い込まれた吉野家の牛丼の味、冷え切った身体がコタツの中でじんわり溶かされていく感覚、そういう毎日の場面のひとつひとつを、慌てて飲み込んだりせず、ちゃんと噛んで、噛みしめて、ていねいに味わって暮らすほうが絶対に面白い。ほっといても季節は巡るし、どうしてもすべては変化していくし、だからいまこのときはいまこのときにしか存在せず、同じ場面は二度とやってこない。すべては通りすぎてしまうから、そうであるなら、ただ通りすぎるのではなく、隅々まで味わいつくして通りすぎたい。あらゆるものに風情はあるから、あらゆるものの風情を感じたい。そんなことを思っている。

 

いまの僕は風邪をひいてしんどいのだけれど、それでも、治りの悪さに年齢を感じるのとか、正月休み明けの少し混み合う病院とか、薬局いったらインフルエンザじゃないことを珍しがられるのとか、へろっへろな身体を引きずるようにしてトボトボ歩く侘しさとか、そういうことのひとつひとつに風情を感じる。面白がってる自分がいる。

 

なにがあっても面白がって過ごしたい。少しもていねいじゃない、むしろ怠惰で粗雑でありふれた毎日を、ていねいに味わって暮らしていければいい。いつかすべてを振り返るとき、幸福とか不幸とか、そういうぜんぶを飲み込んで、味わい深い人生だった、って思えるようでありたい。それさえできれば、あとはみんなオーケーなんじゃないかと思う。

 

でもとりあえずいまははやく風邪を治したい。治ったら蒲田に行ってスリランカカレーと黒湯を存分に堪能したい。銭湯の休憩スペースで彼女といっしょにふぃーってなりたい。そういう風情を味わいたい。

ああ。早く治んないかなあ。

年末年始終わり

(終わっちゃったなあ年末年始。今年はほんとにあっという間だった。もっとのんびりするはずだったのに、慌ただしく通り過ぎていってしまった。僕のカラダの上を通り過ぎていった年末年始たち。まるで一夜の夢のよう。でも夢ではない証拠に体重が増えている。贅沢三昧した分はしっかり体重に跳ね返っている。納得いかない。いかないぞ。夢のようならもっと夢らしくあとかたもなく消え去るべきだ。こっそり痕跡を残すなんて、これじゃまるで原田知世版の時をかける少女じゃないか。ラベンダーの香りに紐づく微かな記憶だけを残して未来に帰るケン・ソゴル、あれと同じだ。お腹周りに脂肪を残して来年に消える年末年始。そんなのってあんまりじゃないか。ラベンダーと体脂肪じゃ比べ物にならんぞ。それでいいのか年末年始。ケン・ソゴルに負けてるぞ。)

 

(何があったか、なるべく思い出してみる。29日。仕事を納めて忘年会。2016年に知り合って仲良くなったひとたち。楽しくって、3時まで飲んで、気がついたら結構酔っぱらってた。今年も仲良くしてもらえるといいなー。飲み放題だったので、各種クラフトビールをしこたま飲んだ。あんなにクラフトビール飲んだの初めてかもしんまい(90年代スチャダラ感)。いいお店だった。何より家から近いのがいい。あと遅ればせながらの誕生日プレゼント貰ってほんとにほんとに最高だったので2017年もカレーをさらに深めていくぞ、と思った。30日。仕事を納めた彼女と合流。さ~楽しい年末年始を過ごすぞ!ってワックワク。ワックワックリズムバンド。好きだったなー。いまでも活動してんのかな。昼ごろにのそのそ起きて、お昼どうしよっかってあれこれ話して、日本橋のお多幸でとうめしじゃん?バッチリじゃん?ってなって、家を飛び出し日本橋へ。老舗らしく年末年始はお休みで撃沈。まあでも想定内じゃん、どしよか、ってあたりをブラついて行列を発見。何も考えず並んで一時間、海鮮丼と鯛茶漬けにありつく。美味しかったけどさあ、店員さんギスギスしすぎじゃね、とっとと大掃除したいのわかるけど、下水の掃除は閉店後にしてほしいよね、などの感想を語りつつ東京駅の大丸へ。東急ハンズで便利グッズの数々に感心し、最終的におせちをお重に詰める用のアルミのカップだけを買う。そこから銀座へ移動、いろんなアンテナショップをまわって食材を購入。北海道と兵庫のアンテナショップがアガったなー。ガラナとかハスカップジュエリーとかロイズのチョコがけポテチとか丹波の黒豆とかいわしのへしことか出汁パックとか紅鮭の麹漬けとか持ちきれないほど買い漁った。我が故郷のいわて銀河プラザにも行きたかったけど営業時間に間に合わず断念。31日。伊勢丹へ買い出しに行くはずだったけれど伊勢丹にたどり着く前に彼女とケンカをしてしまった。彼女を傷つけてしまった。許してもらえて、仲直りできてほんとよかった。仲直りにいたる過程では、ちゃんと話ができたし、理解が深まった感じがするのでそれだけはよかった、って言っていいのかな。もちろんケンカなんてしないほうがいい、ケンカがはじまるときはどちらかまたは双方が悲しかったりショックだったりするわけだから、そんなのは無ければ無いほうがいいに決まってる、でも残念ながら起こってしまったケンカの着地の仕方としては、うん、そう悪くはなかったんじゃないかな、という気持ち。彼女もおんなじように思ってくれてるといいなあ。いろいろあって都内を彷徨って新宿に戻ったころには伊勢丹は閉店済みで、スーパーでおせち系のお惣菜や高い牛肉を買って帰宅、からのすき焼き。近所のお寺に除夜の鐘をつきに行こうと思っていたのだけれど、すき焼きで満腹になってしまって無理だった。すき焼き美味しかったなー。ここ二十年くらい牛肉といえばステーキか焼肉だったのだけれど、去年くらいからすき焼きがグッと伸びてきている。美味しくてリーズナブルなすき焼き屋さんに行きたい。コスパって言葉はなんだか品がないような気がして好きじゃないけど、すき焼きにはコスパを求めたいと思う。じゃないとキリがない。MXTVの年越し番組、おママ選手権を楽しみにしていたのだけれど、五時に夢中チームからばらいろダンディチームの仕切りに変わってて残念だった。梅沢富美男の顔を見ながら年越しってゾッとしないな、とチャンネルいじってたらそのあいだに年が変わってしまいなんとも締まらない年越しでした。あけて1日。早起きして近所のスーパーの初売りに並ぶ。目当ては五千円のクジ。最低でも五千円の商品券、5%の確率で何かいいものが当たる。特賞はダイソンとかテレビとか。僕らの整理券は250人中の200番。クジが始まる。カランカランと鐘がなり、当たりくじが減っていく。しかし特賞は出ない。僕らの番がくる。残りの商品からすると何かが当たる確率は4%。しかし特賞が残ってる。二人してエイヤッとクジを引くけどあえなくハズレて商品券。特賞は誰が当てるかな、とその場に残って野次馬。ラスト40人、30人、20人。行列は減っていくけど特賞は出ない。ついにラスト3人。野次馬は盛りだくさん。店長の煽りマイクも絶好調。気合を入れてクジを引く。3、2、1、ゼロ。行列はなくなった。特賞は出ない。あれ?どしたの、これ?店長が慌てる。クジを確認。あと3枚残ってる。店員が走る。店内放送が始まる。クジの整理券をお持ちのお客様はいらっしゃいませんか、まだ特賞が残っております、このままでは特賞は当選者ナシで終了となってしまいます、整理券をお持ちのお客様はおりませんか…みんなが諦めかけたそのとき、女性の声が高らかに響く。あります!整理券、あります!見るとノーメイクに寝間着のお姉さん。たぶん整理券を貰って帰宅して寝ちゃったんだろうな。慌てて走ってきた感じ。野次馬はみんなやんややんやの大歓声。拍手でお姉さんを出迎える。いけ!引け!引いてくれ!野次馬と店長の心がひとつになる。乱れる呼吸を整え、一拍おいてお姉さんがクジを引く。一瞬、全員の呼吸が止まり、さあ、さあ、さあ、どうなった?あえなくハズレ。万雷のため息。赤くなるお姉さん。あなたは悪くない。可哀想に。そのまま特賞を残してクジは終了となりました。帰宅しておせち料理。彼女がお重を持参してくれて、それに各地のアンテナショップで買った食材を詰めてくれた。そのあいだに僕はお雑煮を作る。子どものころから食べていた、鰹と鶏の出汁のお雑煮。鶏肉と大根と人参と牛蒡、アクを丁寧に掬って醤油と塩で味付け。焼いた角餅を器にいれ、具と汁をよそい、最後に三つ葉といくらをのせる。彼女にも気に入って貰えたようでありがたかった。お雑煮とおせちで日本酒を飲んでいたらそのまま元日は終わった。2日。コタツで目覚める。かたわらに日本酒の瓶。一升瓶を半分くらいひとりで開けたらしい。二日酔いだ。喉も痛い。鼻腔の奥のあたりがヒリヒリする。あれだ、徐々に炎症範囲が下に移動するやつだ、やべえやっちまったな…と思いつつ家を出て皇居へ向かう。一般参賀。いまの陛下はすごく好きなので、お元気なうちに陛下に日の丸をパタパタしたかった。陛下と一緒に新年のお祝いをしたかった。しかしあまりに勝手がわかってなかった我々は受付時間ギリギリに到着してしまい、時すでに遅し、受付終了。ほんとに10分の差だったみたい…でもまあめっちゃ綺麗な青空だったし、一般参賀から戻ってくるひとたちはみんなとってもニコニコしてたし、新丸ビルのパレドオールで買ったピスタチオとチョコレートのケーキがちょっともうおかしいくらいに美味しかったので、いい一日だったと思う。風邪は順調に悪化。3日。咳が出てきたので咳止めを飲み、上野鈴本演芸場の初席へ。権太楼師匠の「つる」で爆笑。上手いひとの前座話って最高に面白い。小三治師匠がお元気そうで嬉しかった。小言念仏、すげーよかったなー。トリの三三師匠の「枕が長い落語家なんてろくなもんじゃないんですよ」で爆笑。帰り道、なんか食べよっか、何にする?揚げ物どう?とんかつは?でとんかつ屋さんに向かうけど、五分の差で間に合わず。もうどうしてもとんかつが食べたいとんかつの口になっちゃってたのでいろいろとやってるお店を調べるも三ヶ日の壁に挫折。最終的に家の近くのスーパーで安くなってた牛肉とお寿司、それから串カツを購入。すき焼きとお寿司と串カツで晩ごはん。食べてる最中にふと思い出したのだけれど、そういえばすき焼きとお寿司をいっぺんに食べるって小学2年生くらいのときの夢だった。うっかり夢がかなってしまった。大人ってこわいな。風邪はさらに悪化。市販薬飲んで早めに床につく。看病モードに入った彼女がなんやかんやと世話をやいてくれる。素直に嬉しい。具合悪いときにひとが一緒にいてくれて、しかも優しくしてくれる。こんなに幸せなことって他にあるかな。たくさんあるか。最高の幸せってやつは同率一位が無数にあるから困る。きのうもきょうもあしたも最高に幸せ、みたいなことが現実にあるから困る。最高に幸せ、ではないときに不幸なような気がしてしまうから困る。別に不幸じゃないのにね。不幸じゃなければたいていは幸せなんですよね、あとは読みとる側の問題なんですよね、幸せだなって思いながら過ごしていきたいものですね。4日。きょう。仕事始め。マスクして市販の風邪薬飲んで出社。あけましておめでとうございます、本年もよろしくお願いします、と言おうとして声が出ないことに気づく。仕方ないから一日ずっとひそひそ話の音量で働いてました。だからきょうの日記は()の中で書いているのです。帰りに病院いって薬もらったけど、いまは普通に熱が出て咳が止まらん感じ。明日にはよくなってるといいなー。というわけでそろそろ寝ます。皆様、2017年もよろしくお願いします。楽しくってハッピーでエモくてラブい一年にしましょうね。では、お休みなさい。)

年末

仕事を納めて、楽しい忘年会もいくつかやって、年内の予定がみな終わった。静かな年末年始がやってきた。

 

起床する。寝相のせいで布団も毛布も足元に丸まっている。冷えた身体がゴキゴキと強張っている。ベッドからそっと抜けだし、浴槽にお湯を張る。こたつの上に出しっぱなしになっていた紙パックのお茶を飲む。喉をとおる冷たさを心地よく感じる。やはり冬はいい。特に東京の冬はいい。いろんなものが勝手にちょうどよく冷えてくれる。地元の東北ではこうはいかない。実家で飲み物を出しっぱなしにしていたら、朝には氷が張ってしまう。だから飲み物は必ず冷蔵庫にしまわなければならない。冬の北国では冷やすためではなく、凍らせないために冷蔵庫を使うのだ。

 

お湯が溜まったよ、とアラームがなり、漫画をもって風呂に入る。志村貴子の「こいいじ」を5冊。きっちり5冊読み切るころには身体はすっかり温まっている。そのあいだ湯船に浸かることを許されなかった両腕は金属みたいに冷たくなっている。本を脱衣場に投げ、機械と化した左右のアームを湯船につける。二の腕に鳥肌がたち、ぞわぞわとする感じが背中から尾骨にかけて広がっていく。毛穴が緊張して、それからゆっくり開かれていくのがわかる。しばし目を閉じてその感覚を楽しむ。ロボットアームが生体部品へと換装されていく。

 

目を開ける。裸眼のぼやけた視界の向こう、湯船のふちに乗せた足が見える。左足の小指がピクピクと動いている。ぼやけた裸眼の錯覚か、ただの不随意運動か。それともいつか野外鑑賞会で見た映画のように、脳の視覚中枢にあるスクリーンが風ではためいているのだろうか。

 

視覚の変化は楽しい。子どものころから、「世界がまるで違って見える」ってやつが好きだった。マインドの話というより、どちらかというと物理的な話。例えば、教室の机に乗ったときに見える景色とか、街を歩くとき、わざと高いところばかり見上げながら歩くとか。わざと道に迷うのも好きだった。自転車で少し遠くに行って、知らない道を方向感覚がなくなるまでぐるぐると回る。自分がどこにいるのか、どっちを向いているのか解らなくなる。視界のすべてが初めてで、いつもの景色にへばりついている意味や文脈が少しだけ軽くなる。いつも感じてる違和感や息苦しさがちょっとだけ楽になる。けれど知らない景色が知ってる景色になるまでの時間はほんの僅かでしかなく、子どもの僕はそのあいだに精いっぱい深く呼吸をするのだった。

 

風呂からあがり、水を飲み、着替えて外に出る。見上げると完璧な青空。一年の終わりよりはむしろ始まりに相応しいような、そういう空だ。これからどこかでお昼ごはんを食べて、そのあと銀座にいき、あちこちのアンテナショップをまわって年末年始用の食材を買う。黒豆や栗きんとん、かまぼこにいくら、それから日本酒。ほやの塩辛や三升漬けや千枚漬け、その他とにかく目についた美味しそうなものを買う。頭を空っぽにして動物的に買う。餅も買おう。くるみ餅を作るためにすり鉢も買おう。雑煮をたくさん作りたいから大きな鍋も買おう。美味しいものをたくさん買って、あとはのんびりと過ごすのだ。テレビを見て、近所の神社にお参りして、こたつでお酒飲んでいつのまにか寝ちゃって、汗かいて起きてお風呂はいってまた飲んだりするのだ。

 

ふと気がつくと、いまの僕はいつでもどこでも深く息を吸うことができる。馴染んだ景色のなかで、まあまあ軽い気分で過ごせるようになっている。経験を積んで成長したのか、それともただ鈍感になったのか、どっちかわからないけどもまあそれもどっちだって構わない。そこにあるのはただの変化で、ただそんなふうになったってだけのシンプルな事実で、そうであるからにはそれをただ受け入れること以外にできることなどないのだ。